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2024年4月28日 喜びをもって生きる①

2024年4月28日 喜びをもって生きる①
使徒の働き 8章4〜8節 池田恵賜 主任牧師

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2024年4月28日 喜びをもって生きる①
使徒の働き 8章4〜8節 池田恵賜 主任牧師

今年、本郷台キリスト教会は「よろこび ひろがる リバイバル」の標語のもとにスタートして、4ヶ月が過ぎようとしています。来月26日に行なわれる60周年記念セレブレーションまで1ヶ月を切りました。鎌倉芸術館で行なわれるこの日の礼拝が喜び広がる場所となるように、祈り取り組んでいきましょう。

この時期にもう一度、本郷台キリスト教会の創立60年目に与えられたこの標語に目を留めたいと思います。

「よろこび ひろがる リバイバル」。リバイバルは喜びを伴います。リバイバルとともに、私たちが遣わされている場所に、この国に、喜びが広がっていく姿を思い描きましょう。

今週と来週の2回、この「喜び」をテーマに見ていきます。

聖書では「いつも主にあって喜びなさい」と命じられています。

喜びとはポジティブな感情です。なにか自分にとって良いこと、嬉しいことが起きたときに心に湧き上がってくる感情です。喜びは物事を前に進める力になります。喜びを原動力にしたら、きっとたくさんの良いものが生まれてくることでしょう。

また、喜びは目の前の困難を乗り越える力になります。

たとえば、旅行好きな人なら、たくさんの仕事を抱えていても「次の休みには旅行に行ける」と考えると、目の前のたくさんの仕事もこなしていくことができます。

1. 4つの基本的感情【喜び・怒り・恐れ・悲しみ】

「喜び」にフォーカスを当てる前に、まず「感情」について考えてみましょう。私たち人間は誰しも感情をもっています。人間には「4つの基本的感情」があると言われています。「喜び」と「怒り」と「恐れ」と「悲しみ」です。

私たちは何か嬉しいことがあると喜び、自分の大切なものが脅かされるときに怒りを覚え、不安や不快に思うことに対して恐れを抱きます。そして大切な何かを失うことによって悲しいという感情が起きるのです。

一般的に「喜び」と「怒り」というのは、現在のことに関して抱く感情で、「恐れ」は未来に関する事柄、「悲しみ」は過去に起きた事柄に関しての感情と言われています。

2. 感情は心の状態を表すもの

感情は私たちの心の状態を表すものです。ですから、自分が「いまどのような感情を抱いているのか」を知ることは大切です。心の状態を知らないで過ごすのは、健康診断を受けずにいるのと同じです。悪い箇所があっても気づかずに過ごして、やがて心のバランスを崩してしまうのです。

自分の心の状態を知るためには、いくつか方法がありますが簡単なのは、自分の心を客観的に見て、いま心の何%を喜びが満たしているのか、怒りが何%で、恐れが何%、悲しみが何%と書き出してみることです。パーセンテージが一番大きな感情が、あなたの心に一番大きな影響を与えています。

次に、なぜその感情をもっているのか原因を考えてみることが大切です。そのようにして、正しく自分の心の状態を知ることができれば、正しく対処できるようになります。

しかし、育ってきた環境によっては抑圧されて、自分の感情を素直に出せない人もいます。例えば、子どもの頃にテストで良い点を取って親に喜んでもらえると思っていたら「もっと良い点取れたでしょ」と怒られたり、「こうすべき」「こうあるべき」と親の価値観を押し付けられて育ったりした場合は、なかなか自分の感情を素直に表に出せなくなります。また虐待を受けている子が、本来親に向けるべき怒りを親に向けられずに、他の人に向けて怒りを発散するということもあります。こうしたケースの場合、自分本来の感情に気づくことが難しくなります。

まず、心に湧き上がった感情に素直に向き合うことが大切です。それがどのような感情であっても、それを否定する必要はありません。私たちは、誰でも嬉しいときは喜び、悲しいときは泣き、また怒ったり、不安を感じるときは恐れていると認めたりすることが大切です。そして、その感情を素直に出せる環境に身を置き、その感情を人に共感してもらうことが必要です。

通常は幼児期に親が子どもの感情に共感してあげることで、次第に自分の感情をコントロールできるようになっていきます。幼児期にそのような環境がなかったとしても、同じようなステップを踏む中で回復していきます。

3. 自制心をもつ

そのように自分の心の状態を素直に見つめ、心に湧き上がってきた感情を受け止めた上で、私たちは自制心をもって行動することが求められます。

もし感情の赴くままに行動するなら、その人は感情の奴隷になっているといえます。大人になっても「カッとなって暴力をふるってしまった」などという事件を聞くことがあります。「自分の感情のままに行動する」ということは、周囲や相手を顧みることなく行動するということで、周りに迷惑をかけてしまいます。感情が行動に移るまでのどこかの段階でブレーキを掛ける必要があるのです。それが自制心です。この自制心は、御霊の実の1つとして挙げられています。

ガラテヤ5:22-23aです。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

つまり、聖霊を受けた私たちは聖霊の力によって自制心を持つことができるのです。感情は、私たちの心の状態を表すもので、一旦その感情を素直に受け止めることはとても大切です。その上で、私たちは自制心をもって行動することが求められるのです。

さて、このようなことを踏まえた上で、今日のみことばに目を留めていきましょう。

使徒8:5-8です。

ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。汚れた霊につかれた多くの人たちから、その霊が大声で叫びながら出て行き、中風の人や足の不自由な人が数多く癒やされたからである。その町には、大きな喜びがあった。
使徒8:5-8

ピリポの宣教によって癒やしや悪霊の解放が起こり、サマリアの町に大きな喜びが起こったのです。福音が伝えられて「町全体に大きな喜びが起こった」というのは素晴らしいことです。私たちもこの横浜で、今年このような素晴らしい祝福の実を体験できると信じます。

この当時、ピリポだけでなく他の多くのクリスチャンたちによって福音が宣べ伝えられ、喜びが広がっていった様子が伝えられています。使徒9:31です。

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。

まさにリバイバルです。福音がエルサレムからユダヤ、ガリラヤ、サマリア地方に広がって、救われる人々が起されて、教会はイスラエルの全地にわたり築き上げられていったのです。

4. 福音が広がるきっかけとなった人たち

しかし、このリバイバルのきっかけとなった人たちは、エルサレムで迫害を受け、散らされた人たちであったことに今日、目を留めたいのです。使徒8:1節、4節を読んでみましょう。

8:1サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
8:4散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。

私たちの常識で考えるなら、彼らは決して「喜べる状況にいた」とは言えません。迫害に遭い、住んでいた場所を追われ「これからどうしたらいいのだろうか」と不安や恐れ、あるいは怒りを感じていてもおかしくない状況です。

彼らに対する迫害は、ある日突然、強まりました。御霊と知恵に満ちた人として選ばれたステパノが捕らえられ、殺されてしまったのです。ステパノを殺した人たちの目は次に、エルサレムのクリスチャンコミュニティに住む人たちに向けられました。このため、彼らは住んでいた場所を離れなければいけなくなりました。

彼らは救われたときに財産を処分して献げていたので、エルサレムを離れやすい状況にいたともいえます。もし、財産を処分していなかったら自分の財産が気になってエルサレムを離れることを躊躇し、ある者は捕えられて殺され、ある者は信仰を捨ててしまったかもしれません。そのようなことを考えると、ペンテコステのあとに起きた出来事にも神の配剤があったのだと思わされます。

それにしても、喜びと福音が広がる原動力となった彼らの置かれた状況は「財産を献げた上に、迫害に遭い、共同体のあったエルサレムから追われてしまう」という厳しいものでした。

しかし、彼らは喜びをもって福音を伝え、散らされていった先で困難を抱えた人たちの声に耳を傾け、その必要に応えていったのです。「自分たちは財産も何も持っていないから、かえって迷惑になってしまう」とは考えずに、遣わされた先で大胆に神の働きを成し遂げていったのです。

彼らは、なぜそのように行動できたのでしょうか。「喜び」という視点で見るときに、いくつか大切なことを教えられます。3つのことを見ていきましょう。

(1)喜びは神から与えられるものである

まず、彼らの喜びは「神から与えられたものである」ということです。「神から与えられた喜び」ということについてローマ15:13にあるパウロの言葉を読んでみましょう。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。
ローマ15:13

喜びには2種類あります。1つは「自分の願いが満たされることで与えられる喜び」です。そして、もう1つは「神様が満たしてくださる喜び」です。

もし私たちが、ピリポやエルサレムから散らされたクリスチャンたちのように、喜びを広げていきたいと願うなら、自分の心が喜べるようになるのを待つのではなく、「神が与えてくださる喜びで心が満たされるように」積極的に祈りましょう。

「神様が私たちを喜びで満たしてくださる」ということは、神様は私たちの感情の部分にも働いてくださるということです。私たちが求めるとき、神様は私たちを「神の喜び」で満たしてくださるのです。これが1つ目のポイントです。

(2)神からの喜びは周りの環境に左右されない

2つ目のポイントは、神様が与えてくださる喜びは「状況や環境に左右されるものではない」ということです。私たちの肉の感情は状況に左右されます。喜んでいても次の瞬間、嫌なことが起こると心はすぐに怒りで満たされてしまいます。しかし、神が与えてくださる喜びはそうではありません。この世の常識では喜べないと思えるような状況でも喜ぶことができるのです。無理をして喜んでいるように見せかけるのではなく、心から喜べるのです。

使徒8章でエルサレムから散らされたクリスチャンたちも、そのような喜びに満ちていたため町々で喜びが広がっていったのです。パウロもⅡコリント7:4bでこのように言っています。

私は慰めに満たされ、どんな苦難にあっても喜びに満ちあふれています。

(3)喜ぶことは決断である

3つ目のポイントは、「喜ぶことは決断である」ということです。神の与えてくださる喜びは私たちが「受け取ります」と、決断しなければ受け取れません。ピリピ4:4には、このように命じられています。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
ピリピ4:4

一見、感謝できない、喜べない状況であっても「神様、私はこの状況で喜ぶことを選び取ります。あなたの喜びで私を満たしてください」と祈ってみましょう。初めは難しいと思ったり、状況に流されて祈るのを忘れてしまったりするかもしれませんが、意識し続けることで徐々に習慣化していきます。すると、どのような状況にあっても、この状況を許し、支配しておられる神がいると分かるようになってくるのです。そして、愛なる神様が支配しておられるということにおいて、どのような状況の中でも「喜ぶ」という選択をすることができるようになるのです。

このようなときの祈りとして、特にペンテコステのときのメッセージでペテロが引用したダビデの告白はとても良い模範となります。

この祈りを自分の祈りとして毎日祈ることをお勧めします。使徒2:25-28です。

ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』
使徒2:25-28

ダビデはどんな状況でも、いつも主を自分の前に置いたのです。主がともにいてくださることを告白することによって、どんな状況でも彼の心は喜びに満たされたのです。

ペンテコステのときに、ペテロのこのメッセージを聞いて救われた人たちが、迫害のためにエルサレムから散らされるという困難な状況で、なおも散らされた先々で証しをし、人々を救いに導き、町々に喜びが満ちあふれたというのは、とても象徴的な出来事だと感じます。

あなたは、いつ、どのようなことで喜んでいるでしょうか。自分の心が満たされたときだけ喜ぶのではなく、どのような状況の中でも神を認め、神の喜びに満たされることを求めましょう。

そうするなら、あなたの喜びは自分の内側だけにとどまることなく、あなたの周りにいる人々に伝わっていき、その喜びはさらに広がって、この街を満たしていくのです。

10×10のこの年、私たちが遣わされているそれぞれの町に、神の喜びが広がっていくことを願っています。

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