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2025年6月1日 父の約束を待ち望む

2025年6月1日 父の約束を待ち望む
使徒の働き 1章3〜8節 佐藤賢二 牧師

来週はペンテコステの礼拝です。ペンテコステとは、イエス様が天に昇られた後に、約束された聖霊が弟子たちに降ったことを記念する日です。この日は、教会の誕生日でもあり、使徒たちによる宣教が本格的に始まった日でもあります。今日は、このペンテコステの礼拝を前に「父の約束を待ち望む」というテーマでメッセージを取り継がせていただきます。

それでは、今日の御言葉をお読みいたします。使徒の働き1:3-8です。

イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
使徒の働き 1章3~8節

素晴らしい、希望に満ちた主のみことばです。今日は、この中でも特に4節の御言葉を中心に、メッセージを取り継がせていただきたいと思います。もう一度、使徒1:4をお読みします。

使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
使徒の働き 1章4節

今日はここから、「エルサレムを離れない」「父の約束」「待ち望む」という3つのポイントで、ともに学んでいきたいと思います。

1. エルサレムを離れない

まず第1のポイントは、「エルサレムを離れない」ということです。

イエス様は、なぜ弟子たちに、「エルサレムを離れないで」と言われたのでしょうか。エルサレムというのは、政治、経済、宗教の中心を担う、大都市です。しかし、弟子たちの多くは「ガリラヤ」という地方都市出身です。ペテロがイエス様を3度知らないと否定した時には、「お前もあの人の弟子だろう。ことばのなまりですぐに分かる」と言われています。ですから、エルサレムの人から見れば、彼らはことばになまりのある田舎者と思われていたことでしょう。また、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなど、弟子たちの多くは漁師出身であり、「無学な普通の人」、つまり学問的にも、宗教的にも訓練を受けていない人とみなされていました。彼らにとって、エルサレムというのは、完全にアウェイな場所だったのです。

またそれだけでなく、エルサレムというのは、彼らにとって、危険な場所でもありました。自分たちの師匠であるイエス様が十字架に付けられた場所です。弟子である自分たちにもいつ危害が加わるか、分からない。ですから復活の主と出会うまで彼らは「ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて」過ごしていました。つまり、弟子たちにとってエルサレムというのは、とても居心地の悪い、場違いに感じるような、出来れば逃げ出したくなるような場所だったと考えられるのです。

では、そもそも何で弟子たちは、そんなエルサレムにたどり着いたのでしょうか。それは彼らが、イエス様に従って来たからです。イエス様の招きに従って、弟子として付き従ってきた結果、彼らはエルサレムにいたのです。私たちも時々、イエス様によって、普通自分からは積極的に選ばないような所へと導かれることがあります。しかし、そこには神様の意図があるだということを思い起こしていきたいと思うのです。

エルサレムで彼らは何を見せられたのでしょうか。彼らは、そこで自分の弱さと罪深さを見せられました。イエス様とともに、1時間でもともに祈ることできない弱さ。大切なイエス様が捕えられた時に、逃げ出してしまったり、イエス様を否定してしまったりするような弱さです。しかし、彼らは、そのような弱さと同時に、イエス様の十字架を見たのです。そこには、こんなにも弱く、罪深い私のために、いのちまで差し出してくださった真実の愛がありました。そしてそれだけではありません。彼らは、イエス様の復活を見たのです。

イエス様は、死に打ち勝ち、よみがえられた。どんな罪や弱さも、復活の勝利へと変えてくださるこの「イエス様の十字架と復活」、それこそが、聖書で言う「福音」、すなわち「良い知らせ」です。ですから、イエス様が弟子たちをエルサレムに導かれたのは、彼らが「福音」を、リアルに自分のものとして体験するためだったのです。ですから、弟子たちをエルサレムに導いてきたのは、イエス様です。それは神様の御心だったのです。

イエス様は、いよいよ自らが天に引き上げられ、彼らを地上に残していくと言うときに、「エルサレムを離れないで」と言い残しました。もし弟子たちが、この世の視点、人間的な常識や自分の感覚だけに頼ってしまったならば、こんな居心地が悪いエルサレムはさっさと後にして、生まれ故郷のガリラヤに帰って行ったことでしょう。しかしイエス様は、たとえ自分が近くに感じられないような時にも、信仰にとどまり、むしろ「神の御心に留まるように」「福音に留まるように」と語られたのです。

皆さんにとってのエルサレムとは、どこでしょうか。神様が摂理のもと導かれ、居心地の悪さを感じるような場所、自分の弱さを感じるような場所はどこでしょうか。それは必ずしも地理的な場所とは限りません。学校、職場、人間関係、あるいは教会の中のミニストリーや信仰による決断の中にすら、そのような居心地の悪さを感じることがあります。

私も何度もそのような場所を通されました。しかし、主の恵みによって「留まる」ということを学ばされたのです。いや、学びつつあります。あなたはその場所で、しっかりと福音を握って留まることができるでしょうか。

主の御心や導きに従うのではなく、単なる自分の感覚や居心地の悪さによって、そこから離れようとしていないでしょうか。たとえ居心地は悪くとも、そこに主の福音があるなら、私たちはそこに留まる必要があるのです。

あなたのエルサレムにも、主は確かにおられます。その場所にとどまり、もう一度、福音に目を留めていきましょう。

2. 約束を信じる

第2のポイントは、「約束を信じる」ということです。

イエス様は「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われました。ここで言う、「イエス様が弟子たちに語られた、父の約束」とはなんでしょうか。ヨハネの福音書14章、また16章で、イエス様はこのように語っておられます。

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。・・・
ヨハネの福音書 14章16~17a節

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
ヨハネの福音書 14章26節

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
ヨハネの福音書 16章7~8節

つまり、イエス様が語られた「父の約束」とは、助け主なる真理の御霊、すなわち聖霊が弟子たち与えられるという約束です。聖霊は、どんな時にも彼らとともにいて、イエス様の教えをすべて思い起こさせ、私たちを神の御心へと導かれます。そしてこの聖霊こそが、私たちがこの地で神の御心をなし得る力の源なのです。

使徒1:8にはこうあります。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
使徒の働き 1章8節

聖霊がともにおられるのでなければ、私たちが地の果てまで、福音を宣べ伝え、証人となることは出来ません。イエス様は弟子たちに、この宣教の力の源である「聖霊によるバプテスマ」が授けられるのを待ちなさいと言われたのです。

少し整理しますが、この当時の弟子たちには、聖霊がまだ与えられていませんでした。しかし私たちは今、このペンテコステの日以降、イエス様を信じる者には、例外なく、すでに聖霊が与えられていると理解しています。第1コリント12:13にはこうあります。

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
コリント人への手紙 第一 12章13節

ここに、「私たちはみな・・・一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなった」とあります。ですから、聖霊によるバプテスマとは、信じた瞬間に与えられる、神様が約束された恵みなのです。ですから、ある特別な体験や感覚がなくても、聖書の約束に基づいて、「それは確かに私にも与えられている」と信仰によって受け取っていただきたいのです。

その上で、「聖霊が与えられる」ということと「聖霊に満たされる」ということは違うということも申し上げたいと思います。エペソ5:18には、すでに主を信じたクリスチャンたちに「御霊に満たされなさい」と書かれています。これは、一度きりの経験ではなく、継続的に、御霊の支配のもとに、自分自身を明け渡して、歩み続けるということです。

私たちを聖霊に満たすのは完全に主の御業です。しかし、満たされるかどうかは私たちの応答にかかっています。それは、私たちの自我が砕かれ、主に満たしていただくことを望むかどうかということなのです。今を生きる私たちにとって、求めるべき「父の約束」とは、「聖霊による満たし」です。私たちは、自分自身を主の御前に差し出し続け、いつも自我を砕いていただき、聖霊に満たされ続ける必要があるのです。なぜなら、それこそが私たちが、神の御心を行っていく唯一の力の源だからです。

今日、あなたは聖霊に満たされているでしょうか。まだ、主に明け渡していない自我はないでしょうか。ペンテコステを前に、ともに「父の約束」を待ち望んでいきたいと思います。

3. 待ち望む

第3のポイントは、「待ち望む」ということです。

イエス様は、わたしから聞いた父の約束を、「待ちなさい」と言われました。皆さん、「待つ」というのは大切な信仰のレッスンです。ここでいう待つというのは、決して受け身の姿勢ではありません。むしろそれは、能動的な、信仰による応答なのです。では、弟子たちは、どのようにして、父の約束を「待ち望んで」いたのでしょうか。使徒1:13-15aをお読みします。

彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた・・・
使徒の働き 1章13~15節a

彼らは、エルサレムの町にとどまり、屋上の部屋、すなわちアッパールームにて心を一つにして祈っていたとあるのです。そして、この父の約束を待ち望む弟子たちの小さな祈りの輪は、程なく120名ほどの人々の集まりとなっていきました。エルサレムにとどまり、父の約束を求めて、心を一つにして祈り待ち望む。目に見える状況は変わらない。いつとか、どのような時にそれが与えられるのかも明確でない。しかし、彼らは「父の約束」を信じ、主を「待ち望む」という経験の中で、どれほど自分自身が砕かれたことでしょうか。

旧約聖書で、ヨエル書においても、私たちが霊の注ぎを受けるのに先立って、心を砕いた祈りが布告されています。ヨエル2:12-16。

「しかし、今でも──主のことば──心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。もしかすると、主が思い直してあわれみ、祝福を後に残しておいてくださるかもしれない。あなたがたの神、主への穀物と注ぎのささげ物を。
ヨエル書 2章12~14節

「心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」「衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ」とあります。主が、求めておられるのは、律法的な行いではありません。主が求めておられるもの。それは、ただ主との関係が、正しいものとなり、私たちが、神様のみこころを受け取るのに相応しいものへと変えられていくことなのです。それゆえの断食です。

先週、サムパン先生が「ONE」「一人の人」の救いのために、毎週、教会をあげて「断食」をして祈っている話を教えてくれました。それは、私たちの思いを明け渡し、主の御心を求めるということです。私たちには、私たちが救われてほしいと長年祈り続けている人がいます。しかし、主はあなたの周りに、今日も神様の愛を届けたいと願っておられる「一人の人」がいるというのです。「私が誰かに宣教をするのは、まず身近なこの人が救われてから」と思うことは素晴らしいことです。しかし、そのことが、私たちが他の人に神様の愛を伝えることの妨げになってしまうのであるならば、そこが砕かれなければならないのです。

私たちは、霊の目が研ぎ澄まされる必要があります。
イエス様が、今週、今日、届きたいと願っておられる「ONE」一人の人は誰なのか?
その人は今どういう状態で、私は何をすべきなのか。

サムパン先生が語られたすべてを、教会の組織を変えて全体で取り組むのには時間がかかるかもしれません。しかし、個人のレベルでは、今すぐにでも始められることなのではないでしょうか。鍵は、私たちがどれだけ自分の思いを委ねて砕かれることができるかということです。この一週間、来週のペンテコステに向けて、ともに祈って参りましょう。

エルサレムにとどまり、父の約束を待ち望み、主のみ前に自分自身を差し出して、聖霊の満たしが与えられるように祈っていきたいと思います。

砕かれた心に、聖霊は注がれます。主の御前にとどまり、ただ父の約束を、待ち望みましょう。

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