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2025年6月8日 約束された力
2025年6月8日 ペンテコステ礼拝 約束された力
使徒の働き 1章8節 佐藤賢二 牧師
本日はペンテコステの礼拝です。ペンテコステは父の約束を待ち望む弟子たちに、聖霊が激しく注がれたことを記念する日です。まずはそのペンテコステの出来事そのものに目を留めてみたいと思います。使徒の働き2:1-4です。
五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
使徒の働き 2章1~4節
この時この場所には、120人ほどの弟子たちが集まって祈っていました。すると激しい響きとともに、炎のような分かれた舌が一人ひとりの上にとどまり、聖霊に満たされて、御霊が語らせるままに、色々な国のことばで話し始めたとあるのです。この時は、五旬節の祭りのため、世界中のユダヤ人たちがエルサレムに来ていた時でした。そして、彼らが突然自分の国のことばで神をほめたたえているのを聞いてとても驚きました。そしてそんな彼らに、聖霊に満たされたペテロが説教をすると、3000人の人が救われ、バプテスマを受けたのです。
この聖霊の働きによって、キリストのからだなる教会が誕生しました。
この聖霊の働きによって、弟子たちは全世界に福音を宣べ伝える力を得ました。
そして今もこの聖霊の働きによって、世界中で多くの人がキリストを主と告白し、救いの御業にあずかっています。
そしてこの聖霊の働きによって、私たちは神の愛に満たされ、神の御心に歩む者と変えられるのです。
ペンテコステの日には、このような劇的な現象が起こりました。そして今も、主がお望みになるならば、この場所にも同じようなことが起こると信じます。しかし、気をつけなければならないことがあります。それは、私たちが求めるべきものは、そのような「目に見える現象やしるし」そのものではないということです。そうではなく、私たちが求めるべきなのは、聖霊ご自身なのです。使徒の働き1:8をお読みします。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
使徒の働き 1章8節
皆さんは、「聖霊が私たちの上に臨むときに、力を受ける」と聞いて、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか?正直に言うと、私はまだ救われたばかりの頃、こんなふうに思っていたんです。
「弱くて情けない自分が、ある日突然神様からスーパーパワーをもらって、いきなりすごい人に生まれ変わる。」
例えていうなら、アニメやドラマのヒーローのように、聖霊というアイテムをもらって変身し、悪い敵をやっつけるというようなものです。
ちなみ余談ですが、うちは子供が女の子ばかりなので、残念ながら子供たちとヒーローごっこみたいなことは出来ませんでした。でも、今はちゃんと女の子にも、そういう変身アクションものがあるんです。私は昔、娘と一緒に「プリキュア」の映画とかも見に行っていましたが、やっぱり変身シーンが一つのクライマックスになっていて、ちょっとドキドキワクワクしたのを覚えています。
そのようなアニメが男の子にも女の子にも流行るということは、やはり多くの人が「いつか特別な力が与えられて、作り替えられること」に憧れを持っているということなのではないかと思うのです。しかし、それは裏を返せば「今の自分の弱さを受け入れられない」「今の自分から逃げ出したい」という心の思いの現れなのかもしれません。
イエス様の弟子たちも同じような思いを抱いていました。
彼らはイエス様に聖霊を待ち望みなさいと言われた後も、「今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」と尋ねました。つまり、彼らの関心は「自分たちが報われること」であり、「目に見える形で強くなること」だったのです。
しかし、聖霊によって与えられる力というのは、そういうものではありません。この「力」とは、何かを一瞬で解決する魔法のような力ではないのです。聖霊による力というのは、むしろ私が低くされればされるほど豊かに注がれるものです。
聖霊に満たされるためには、私たち自身がイエス様の十字架によって砕かれ、その血潮の権威によってきよめられることが必要なのです。私たちは、強くされるというよりも、むしろ弱くされる必要があるのです。なぜなら、第2コリント12:9にこのように書かれている通りです。
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
コリント人への手紙 第二 12章9節
わたしの力は弱さのうちに完全に現れる。だから、キリストの力が私をおおうため、むしろ喜んで自分の弱さを誇ると、パウロは言っています。そういう意味で言うなら、私たちが強いままではダメなのです。私たちが主の御前で弱くされ、主が私のすべてとなってくださること。それこそが、私たちが聖霊に満たされることであり、本当の力の現れだと言うことができます。

私の愛読書のひとつに、ロイ・ヘッションの『カルバリの道』があります。「自我が砕かれる」ということと「聖霊の注ぎ」との関係が、よく分かる本です。私は、自分が何かずれているなと感じる時、いつもこの本を読み返します。私にとってこの本は、信仰の原点に立ち返らせてくれる、一つの道しるべとなっています。今は絶版となっていますが、ぜひ皆さん、機会があったら手に取ってみて頂きたいと思います。少し、この本の冒頭から引用させていただきたいと思います。
リバイバルということについて考えてみたいと思います。リバイバルは、主イエスのいのちが人々の心の中に注がれることです。イエスは常に勝利の主です。私たちが経験する困難や失敗がどうであろうと、主はけっして敗北なさるような方ではありません。ですから、私たちのなすべきことは、ただ主イエスとの正しい関係に入ることです。そのとき初めて私たちの心や生活や奉仕の中に、主イエスのみ力が現れるのがわかるでしょう。主ご自身の勝利のいのちが私たちを満たし、他の人々にまで満ちあふれていくようになります。これがリバイバルの本質なのです。
しかし、もし私たちが主と正しい関係を結ぼうとするならば、まず第一に主のみこころの前に自らの意志が砕かれる必要があります。砕かれるということが、リバイバルの第一歩なのです。砕かれるということは苦しく、また卑しくされることです。しかし、自我に生きるのではなく、ただキリストにあること(ガラテヤ2:20)、これが唯一の道なのです。
・・・
砕くことは神のみわざですが、砕かれるということは私たちの側のなすべきことです。神が罪を示されるとき、私たちは素直にそれを認め、受け入れなければなりません。
自我が砕かれるということ。自我に死ぬということ。しかし、私はそれが何を意味するのか、長い間よく分かっていませんでした。自我というのは、つまり私自身のことだから、「自我に死んでしまったら、私が私でなくなってしまうのではないか。」そのように思って、随分と自我の問題と格闘してきたように思います。
しかし今、聖霊の恵みによって申し上げられるのは、自我に死ぬということは、実は自分が最も自分らしく生きることが出来る道なのだということです。それは、いわゆる自己実現とは違います。でもむしろ、自我に死ぬということこそが、心の奥底の最も深いところにある「願い」が満たされるための鍵なのです。
では、肝心のその「砕かれる」とはどういうことなのでしょうか。
今日は簡潔に3つのことをお話ししたいと思います。
1つ目は「認める」ということ。
2つ目は「手放す」ということ。
そして3つ目は「差し出す」ということです。
(1)認める
まず第一番目の「認める」ということについて考えたいと思います。これは自分の罪や、弱さや、失敗や、嫌な性質を、主の前に「確かにそうです」と認めるということです。ヨハネ16:8にはこうあります。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
ヨハネの福音書 16章8節
これは助け主である聖霊について書かれた箇所です。聖霊は「世の誤りを明らかにする」とありますが、ここは別の訳では「世に誤りを認めさせる」となっています。
聖霊は、私たちが、主の前に正しくない状態にあることを明らかにされるだけでなく、そのことを認めさせるように、私たちの心に働きかけるのです。しかし、それを実際に認めるかどうかは、私たちの応答にかかっています。「はい、そうです主よ」と、主の前に認めるということ。
それが、砕かれるということの第一歩なのです。聖霊は、誰かの口を通して、あなたの罪を指摘するかもしれません。誰かとの関係を通して、自分の弱さと向き合わされることになるかもしれません。時には、自分は99%正しいと思っても、残りの1%、聖霊が細い声で語りかけることがあるでしょう。そのような時にも、「はい、そうです主よ」と言って認め、十字架の主を見上げるのです。
そのような姿勢なしに、私たちが砕かれるということはないのです。
(2)手放す
第2のことは「手放す」ということです。これは、自分が頑なにしがみついているものを「手放す」ということです。ルカ9:23-24にはこうあります。
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
ルカの福音書 9章23~24節
私たちは、しばしば古い価値観のものに頑なにしがみついているということがあります。それは、お金かもしれないし、地位や名誉かもしれません。あるいは、プライドや自尊心のようなものかもしれません。いずれにせよ、あなたが無意識に神以上に大切にしてしまっているものがある時、聖霊は静かに、あなたにそのことを気づかせてくださるのです。
その時あなたは、「はい主よ、お委ねします」と言って、その握りしめているものを手放すことが出来るでしょうか。それが、私たちが砕かれるためのもう一つのステップなのです。
(3)差し出す
第3のことは「差し出す」ということです。自分の罪を認め、私が大切だと思っていたものを手放したとしても、ひょっとしたら「自分なんてダメだ、自分なんて何の役にも立たない存在なんだ」と言って、打ちのめされてしまうことがあるかも知れません。しかし、私たちは、どんなことがあっても主の愛の御手の中にあるということを覚えたいのです。エレミヤ18:2-6にはこのようにあります。
「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──主のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。
エレミヤ書 18章2~6節
主は、私たちを、その愛にあふれた御手によって、主の望まれる姿へと作り替えてくださろうとしているのです。でもその時、主は私たちに問いかけてくださるのです。
「私があなたにも、この陶器師のように、することはできないだろうか。」
そしてその問いかけに応答して、私の存在そのものを主に差し出すこと。それが「砕かれる」ということなのです。ローマ12:1にはこうあります。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
ローマ人への手紙 12章1節
この「ふさわしい礼拝」とは、「霊的な礼拝」とも訳されています。主の御手にお委ねして、自分の全存在を差し出すこと。それこそが、主が私たちに求められる礼拝であり、砕かれた心なのです。主は、このようにして砕かれた人に、聖霊を満たし、証人となる力を与えてくださるのです。
私は、主に仕える中で、何度も行き詰まる経験をしてきました。そして、祈りの中で、何度か同じような映像が私の思いの中に浮かんできたことがあるのです。それは、主が今にもあふれるばかりの豊かな恵みを流したいと願っておられるにも関わらず、何者かが必死にそれをとどめようとしているという光景です。しかしよく見ると、その必死になってとどめようとしている人は、他でもない私自身なのです。そして、さらにその私自身を見ると、決してとどめようとしている訳ではなく、何とかして自分の力で物事を解決しようとして、必死になってもがいているだけなのでした。これは、私の頑なな自我の姿をよく表していると思うのです。でも、私が「そうです、主よ。それは私です」と認めた時、また「主よ、委ねます。ささげます」と言って自分自身を差し出す時、少しずつその恵みが流れるようになっていくのを見るのです。
今も、そのような流れの中で、必死にもがいている私です。しかし、気がついてみたら、川の流れに身を任せて下流にまで辿り着いた石のように、私自身のごつごつした角は取れてきたような気がします。そして、主の恵みに生かされるということがどういうことなのか、少しずつ分かってきたように思うのです。
主の圧倒的な恵みの流れが、堰を切ったように流れ出す。そのことに期待して、さらに主に自分自身をおささげして歩んでいきたいと思わされています。すでに私たちのうちに住み、私たちの人生を導いてくださっている聖霊は、さらなる御霊の注ぎのために、私たちの自我が砕かれるように促されます。砕くことは主の御業ですが、砕かれることは私たちのなすべきことです。
主は、私たちをその御手で丁寧に取り扱い、御心のままに造り替えてくださいます。この主に信頼して、勇気を持って砕かれることを求め、主の御業に期待していきたいと思います。主は、自我に死んだ者にこそ、命の力を注がれます。聖霊の力とは、「砕かれた私が、砕かれたままで、主の栄光を現す力」なのです。
今日、主の御前に示されている罪や弱さはないでしょうか。
頑なに握りしめてしまっている古い価値観はないでしょうか。
主が招いておられるのに、一歩踏み出すのを拒んでいる自分はいないでしょうか。
ともに主の御前に出て、主の御業に期待していきましょう。