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2025年6月15日 御霊によって、「アバ、父」と叫ぶ
2025年6月15日 御霊によって、「アバ、父」と叫ぶ
ローマ人への手紙 8章15節 佐藤賢二 牧師
今日は父の日です。「私は、お父さんです」という皆さん、いつもお疲れ様です。そしてありがとうございます。皆さんが、今日、ここにいてくださることを、心から感謝いたします。皆さんが、家庭において果たす役割はとても大きいです。それは皆さんが父親として何かをするということ以上に、父親が家族にとってどういう存在であるかということが、家族一人ひとりの人格形成に大きな影響を与えるからです。しかし、だからと言って、完璧なお父さんである必要はありません。強がる必要もありません。むしろ、自分の弱さや限界を認めるところからがスタートだと思うのです。
私は出来る限り、優しくて面白い父親でありたいと願っています。そして出来る限り、子供たちと触れ合う時間を持ち、彼らが何に関心を持っているのか、何を喜び、何に落ち込んだりしているのか、理解してあげたいと思っています。しかし、時々私の側の何かのスイッチが入ると、突然大きな声を張り上げて、叱りつけてしまうことがあるんです。そして、その瞬間「やべ、またやっちまった」と思うのです。
かわいそうに、泣いたり不満そうにしている娘を目の前にして、私はそういう時は、その一人を別の部屋に連れ出して、自分も娘も冷静になって落ち着けるように、ちょっと時間を稼ぐんです。そして、何を怒ったのかということを、なるべく言葉で説明するようにしています。そして最後は「ちゃんとパパの話を聞いてくれて、ありがとう。偉かったね。パパもあんな言い方しなくても良かったよね。ごめんね。それは、ゆるしてくれる?」と聞いて、ゆるしてもらって、最後にハグをして、関係を修復してひとまず落ち着くという一連のパターンが出来上がっているのです。これはこれで感謝なことですが、でも毎回、自分はもうちょっとマシな怒り方ができたんじゃないかと反省させられるのです。
私も、まだまだたくさんの失敗をしながら、「父」としてのあり方を模索しています。しかし、私たちが自分の弱さや限界を知ることは、「父」としてのあり方を、天の父なる神様から学ぶチャンスだとも思うのです。
また反対に、様々な理由から、適切な父親像について学ぶことが出来なかったという人も多いのではないかと思います。しかし神様は、私たちがこの「父親像」を回復できるように、私たちを神の家族の一員として招いてくださっているのです。地上の父がどうであったかに関わらず、私たちには天に完全な父が与えられている。この方こそ、真実な愛と導きをもって私たちを迎え入れてくださる「アバ、父」なのです。
神様から「父」について学ぶためには、私たち自身が実際に「天の父」と交わって、関係を深めていく必要があります。神様が私たちを愛し、赦してくださっている。このことを、まず何よりも深く受け取らなければならないのは、他でもない、私たち自身なのです。
今日の御言葉は、私たちが父なる神様とどのような関係に生きることが許されているのか、その驚くべき恵みについて語られています。ともに、期待しつつ御言葉に耳を傾けていきましょう。
それでは、ローマ8:15をお読みいたします。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
ローマ人への手紙 8章15節
先週はペンテコステの礼拝でしたが、この日、弟子たちに聖霊が注がれ、弟子たちは全世界に福音を宣べ伝えるための力を受けました。
しかし、私たちに聖霊が与えられた目的は、ただ宣教という使命を遂行するためだけのものではありません。それ以上に、聖霊は私たちを導き、父なる神との深い交わり、すなわち全ての愛と喜びの源であられる三位一体の神様の交わりの中に加わるようにと、招いてくださっているのです。それはまるで、天の父の食卓に招かれて、共に食事をするような関係です。
今日は、この聖書箇所から、私たちが「父なる神様と深く交わる」ための秘訣について、3つのポイントで考えていきたいと思います。
1 奴隷の霊を打ち砕く
まず第1のポイントは、「奴隷の霊を打ち砕く」ということです。
私たちは、「人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けた」のではないのです。「奴隷の霊」とは何でしょうか。それは、ひとことで言うならば、「恐れのゆえに、相手に服従すること」です。怖いから、従う。いつも失敗を恐れ、ビクビクしている。自分のやりたいことではないことを、やらされている。ただ義務感から行なっているので、喜びはない。だから、結局疲れ果て、虚しさを感じる。それが「奴隷の霊」です。
私たちは、クリスチャンであっても、「奴隷の霊」にとらえられているかのように、神や人に仕えるということがあり得るのです。「ちゃんとやらなければ神様に嫌われる」と思いながら信仰生活を送る。失敗したときに、必要以上に罪悪感を感じてしまう。神様への怒りや恐れに支配される。自由や喜びよりも、誰かと比較して、その評価を基準にしてしまう。もし、あなたにそのような傾向があるのなら、この「奴隷の霊」を、意識して打ち砕いていく必要があると思うのです。
ここで「奴隷の霊」と「キリストのしもべ」としての生き方の違いについて、明らかにしておきたいと思います。
「キリストのしもべ」と言う時の「しもべ」という言葉は、ギリシア語で「ドゥーロス」と言います。この言葉は「誰かに完全に属する者」、すなわち逃れられない身分としての「奴隷」を意味しています。私たちは、かつては「罪の奴隷」でした。しかし、キリストによって解放されたものとして、愛と自由意志によって「キリストのしもべ」「奴隷」「ドゥーロス」となることを、自ら選び取るということなのです。
旧約の律法では、奴隷は7年目には自由の身として無償で去ることができる、と書いてあります。しかし、同時にこんな記述があるのです。出エジプト21:5,6です。
しかし、もしもその奴隷が『私は、ご主人様と、私の妻と子どもたちとを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と明言するようなことがあるなら、その主人は彼を神のもとに連れて行く。それから戸または門柱のところに連れて行き、きりで彼の耳を刺し通す。彼はいつまでも主人に仕えることができる。
出エジプト記 21章5~6節
このご主人様は、私を愛し、私のために最善を尽くし、私に妻を与え、子を育てることも許してくださった。私は、心からご主人様を愛しています。だから、自分の意志であなたの奴隷となり続けることを選びます。あなたのもとで一生仕えさせてください。
そのように選び取ることができるという記述が、律法の中にあるのです。これが、「奴隷の霊」と「キリストのしもべ」との違いと言えるでしょう。確かに、しもべ・ドゥーロスとは奴隷であり、相手に従属する存在となることです。しかし、それは私たちが望んだ身分であり、恐れによって従うこととは全く違うものなのです。
今、あなたは「奴隷の霊」に囚われていないでしょうか。救われていても、まだかつての自分の傾向から抜け出せず、イエス様に対してまで「奴隷の霊」に囚われて、接していないでしょうか。今日、この「奴隷の霊」を打ち砕く決心をしましょう。
では、どうしたらこの『奴隷の霊』を打ち砕くことができるのでしょうか。それこそが、次のポイントです。
2 子としての身分を受け入れる
第2のポイントは「子としての身分を受け入れる」ということです。先ほどのローマ8:15の御言葉で、私たちは「子とする御霊」を受けたと言われています。
この「子とする」という言葉のギリシア語には「ヒュイオセシア」という言葉が使われていて、直訳すると「養子として迎えられた子、養子縁組をした子」という意味になるそうです。ローマの法律において、この「養子(ヒュイオセシア)」は、血縁関係に関係なく、完全な相続権を持つ、新たな家族の一員として扱われます。そして、過去の身分や負債などは、すべて帳消しにされます。つまり、法的に、正式に子供とされているということなのです。
パウロは、私たちも同じだと言っているのです。私たちは、神様の一方的な恵みにより、すでに完全な相続権を持つ「神の子」とされています。それは、親の愛情を受けるという点においても同じです。しかし、もし私たちの側で、頑なに「子としての身分を受け入れ」なかったら、どうなるでしょうか。それでは、親がどんなに精一杯愛情を注ごうとしても、親密な関係を築くことができません。私たちが、「子であるという身分/アイデンティティー」をしっかりと受け入れることを通して、私たちは「子供らしく生きる」ということが出来るようになっていくのです。神様は、私たちが、この「子としての身分を受け入れる」ことができるように、そしてその事実に基づいて生きることが出来るようにと、私たちに御霊を与えてくださったのです。ガラテヤ4:6をお読みします。
そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。
ガラテヤ人への手紙 4章6節
ここは、先ほどのローマ8:15と非常に似た箇所ですが、ここでの強調点は、私たちがすでに「子」としての身分が与えられているので、私たちの心に、御子の御霊を遣わしてくださったというのです。
考えてみてください。イエス様ご自身が、私たちの内側で、「アバ、父」と父なる神様に叫んでくださるというのです。それは、私たちが、真に「子供らしく生きる」ことが出来るようにしてくださる御霊の働きです。私たちが、御霊に満たされるということは、すなわちイエス様と父なる神様との関係を、より深く知ることができるようになるということなのです。
この関係は、私たちの罪や弱さによって失われるものではありません。むしろ、その関係の確かさが、私たちを変えていく力になるのです。だからこそ、私たちは「子らしく」生きることができるのです。これが、神の御霊によって与えられた「子としての身分」なのです。
3 御霊によって「アバ、父」と叫ぶ
第3のポイントは、「御霊によって、『アバ、父』と叫ぶ」ということです。
「アバ」というのは、イエス様が話し言葉で使っておられたアラム語で、日本語にしたら「お父ちゃん」とか「パパ」とか訳される言葉だと言われます。つまり、幼子が親しみをもって父に呼びかける時に用いた言葉です。イエス様が天の父と交わる時には、いつも最大限の親しみを込めて「アバ」と祈っていたのです。
また、「アバ、父」という時、そこにはアラム語だけでなく、ギリシア語の「パテール」という言葉も重ねて書かれています。この言葉は、より権威や威厳、主権性を感じさせる言葉なのだそうです。もちろん、この言葉が併記されている背景には、単に話し言葉のアラム語と、当時の公の言葉であるギリシア語とを橋渡しする役割があったのでしょう。しかし、「アバ、父」という時、最大限の親しさと、最大限の畏敬が込められているように思うのです。
父というのは、単に優しいだけでなく、その愛のゆえに厳しさや厳格さも兼ね備えている。子を守り、限度を教えるため、時には子供に対して、厳しく接することもあるのです。それでも、そんな父を「アバ」と呼ぶ。それが、イエス様と天の父との麗しい関係なのです。
イエス様は、あのゲッセマネの園においてもこのように祈られました。マルコ14:36です。
そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
マルコの福音書 14章36節
イエス様は、十字架を目の前にした極限状態において、なお、幼子のように祈られたのです。これはまさに、「アバ、父」と叫ぶ祈りの究極の姿です。イエス様は、父なる神に信頼しつつ、自分の願いを正直に申し上げ、最後には「御心のままに」とゆだねられました。
そのイエス様の御霊が、私たちのうちに住んでくださっているのです。
だから私たちも、「アバ、父」と叫ぶことができるのです。
イエス様は、ご自身が父を「アバ」と呼ばれただけでなく、私たちにも「このように祈りなさい」と祈りを教えてくださいました。それが「主の祈り」です。
主の祈りにおいて、まず第1に教えられていることは、「父よ」と呼びかけて、父の愛を受け取ることです。聖書に記されている主の祈りは、ギリシア語ですが、恐らくイエス様はアラム語の「アバ」と祈るようにと教えられただろうと考えられています。そして、これは単なる言葉の選び方というよりも、父なる神をどのような関係性を持つ存在として呼びかけるかということなのです。
ですから、ぜひ自分がどのように父に呼び掛ければ、一番自分の心の奥底の深い感情を込めて、親しさを表せるのか、自分なりの言葉を見つけていただきたいのです。
そのまま「アバ、父よ」と祈ってもいいでしょう。「愛する天のお父様」という言葉で、自分の感情が込められるのであれば、それも良いでしょう。いや「お父様」ではなく、「お父さん」と呼んだ方がいい、という方もおられるでしょう。よく韓国語では、「アボジ」と祈るのを聞きますが、日本人であっても、「アボジ」と祈った方が気持ちを込められると言っている人もいます。実際に使う言葉が何であれ、「アバ、父」という存在を、親しみを込めて心に思い描き、実際に声に出して呼びかけるということ。
そのようにして、父なる神様と心を込めて交わっていく時、私たちは、父の愛を知り、父の愛に満たされ、その恵みを豊かに味わうことができる者へと変えられていくのです。
皆さん、私たちはもう、恐れや義務感によってではなく、愛によって生きる者とされています。私たちのうちにおられる御霊は、あなたを「神の子」とし、「アバ、父」と呼ぶことを可能にしてくださったのです。
今日、あなたは「父なる神への距離」を感じていないでしょうか。であるならば、私たちのうちにおられる御霊の力によって「アバ、父」と呼んでみてください。その声に、父なる神は応えてくださいます。なぜなら、あなたは神の子なのです。
自分がどんなに弱い時でも、主はあなたを子として抱きしめ、御霊によってその愛を注いでくださるのです。