お知らせ
2025年6月22日 御霊によって歩む
2025年6月22日 御霊によって歩む
ガラテヤ人への手紙 5章16~18節 佐藤賢二 牧師
6月に入ってから、私たちはずっと「御霊の働き」について見てきました。
「エルサレムを離れないで、父の約束を待ち望む」ということ。
「御霊に満たされるために、主の御手の中で砕かれる」ということ。
「御子の御霊によって、アバ、父と叫ぶ」ということ。
そして今日は、「御霊によって歩む」ということについて考えてみたいと思います。
皆さんは、「御霊によって歩む」と聞いて、どんなイメージを持ちますか?ちょっと私の家族に聞いてみたら、こんな答えが返ってきました。
「いつも笑顔で、キラキラしている人」
「自分の思いではなく、神様の思いに従って歩んでいる人」
「思慮深くて、自分の弱さを認めて歩んでいる人」
「テンションが高くて、周りの人を笑顔にできる人」
みんなそれぞれ色んなイメージを持っている訳です。
私自身は「御霊よって歩む」ということを、かつては、こんな風に捉えていたなと思います。
「聖霊の超自然的な力によって導かれる、勝利と祝福の人生」
でも、実際の私の日々は、思い描いていたものとはかけ離れたものでした。
とにかく、何かに駆り立てられるかのように、主のために、一生懸命何かをしてはいました。
表面上は、うまくいっているように見えることもあります。
でも、心は疲れ切っていて、どこか満たされていない。
そして、とんでもない失敗や、行き詰まる経験をして、その度に自分が嫌になるのです。
そんな敗北感を味わう度に、主の前に出て、涙を流してきました。そこで、こんな私を愛し、赦してくださっている神様の恵みを、もう一度握り直し、なんとか立ち上がる。でも、ずっとそんなことを繰り返しているのです。
「一体、いつになったら、こんなサイクルから抜け出せるんだろう。」
私はそんな思いを、これまで何度も味わってきました。
もしかすると、皆さんの中にも、同じような思いを抱えている方がいるかもしれません。
「御霊によって歩む」とは、一体どういうことなのでしょうか。
これは、私自身にとっても、今なお、向き合い続けている課題です。
ですから、今日はこのことについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
今日の御言葉、ガラテヤ5:16-18にはこのように書かれています。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
ガラテヤ人への手紙 5章16~18節
この箇所から、「御霊によって歩む」とはどういうことなのか、3つのポイントで見ていきたいと思います。
1. 肉と御霊の対立を理解する
まず第1のポイントは「肉と御霊の対立を理解する」ということです。17節をもう一度お読みします。
肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。
ガラテヤ人への手紙 5章17節
イエス・キリストを救い主として信じた私たちの心には、すでに御霊が宿っています。そしてこの御霊は、神様の御心に従って、私たちが完全に造り変えられるようにと、私たちを促し、導いてくださっています。しかし、同時に私たちの内側には「肉」の欲望というものが残っているのです。ですから、私たちの中では、「肉と御霊の対立」が起こり、いつも大きな葛藤を抱えることになるわけです。ここで言う「肉」はギリシア語で「サルクス」いい、「堕落した人間性」とか「自己中心的で、神に敵対する性質」を意味します。
肉の働きには2つの極端な傾向があります。
1つ目は「律法主義」です。これは、自分の力で神に認められようとするというものです。ガラテヤ書の前半では、福音によって御霊が与えられたにも関わらず、再び律法によって生きようとするガラテヤのクリスチャンたちに対して、厳しい警告がなされています。
もう1つは「放縦」です。これは、自分勝手な自由に生きようとする姿勢のことであり、「自由の誤用」「はきちがえた自由」とも言えます。つまり、救われた私たちにもこの「肉」があり、この二つは互いに対立しているというのです。これがクリスチャンの葛藤の現実なのです。
この「肉と御霊の葛藤」を、もう少し整理して理解するために、聖書が語る「人間の内側の構造」を簡単に見てみたいと思います。
聖書は、私たち人間を「霊・たましい・からだ」という概念で描いています。

ここで「霊」というのは、神様との交わりの場所です。神を信じる前は、この交わりが閉ざされてしまっていますが、イエス様を信じた瞬間、御霊がこの霊に宿ってくださるのです。

「たましい」は、私たちの心です。私たちは、ここで何かを感じたり、決めたりするのです。
「からだ」は、この世界と実際に関わりを持つ部分です。日々の生活や行動を行う肉体そのものということが出来ます。この「たましい」と「からだ」が、元々「肉」に支配され、影響を受けているのです。

「からだ」そのものは、良くも悪くもありません。しかし、「からだ」は五感を通してこの世界から情報を受け取り、また「たましい」で意思決定したことを、具体的に形にします。
「たましい」というのは、私たちに与えられた自由意志を行使する場所です。私たちは、意志、感情、理性を通して、この「たましい」で決断をするのです。
一方、御霊は、私たちの「霊」に働きかけます。そして「たましい」を通して、御心にかなった応答を促し、「からだ」に具体的な実を結ばせようとされます。でも「肉」は逆に、「からだ」から見たこと、感じたこと、などの情報を送り、たましいに働きかけて、御霊の導きを鈍らせようとするのです。
だから、私たちの中でいつもこの「肉」と「御霊」の綱引きが起こるんです。
たとえば、目から入るSNSの情報が心をざわつかせる。
誰かの成功や幸せそうな姿を見て、うらやましくなったり、自分を卑下したりする。
そして、離れようとしていた罪に舞い戻り、敗北感を感じる。
これが「からだからたましいへ」と肉が影響を与える典型的なパターンです。
私たちは、クリスチャンなのに実際の生活においては、たくさんの葛藤を抱えて歩みます。もしかすると、こんなに葛藤があるのは、自分の信仰が足りないからだ感じる方がいるかもしれません。でも、そうではないんです。むしろ葛藤があるということは、御霊があなたの中に生きて働いておられる証拠なのです。
では、どうしたら私たちは御霊の声に気づけるのでしょうか?それは、祈りと御言葉を通して、私たちの霊に語りかける神のことばに思いを向けていくことです。日曜日に、礼拝に来ている時だけではない。また、朝のデボーションの時だけでもない。自分が、どこにいても、何をしていても、いつも共にいてくださっている御霊を意識していくということが大切なのです。
御霊は、私たちを父なる神との人格的な交わりに導き、いつも語りかけてくださっています。ですから、問題や葛藤の中でも、絶えず御霊の声を聞き続けられるように、その関係を絶やさないということが、何よりも求められることなのです。
2. 肉に従って生きるとは
第2のポイントは「肉に従って生きるとは」具体的にどういうことなのかということです。ガラテヤ5:19-21にはこのように書かれています。
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
ガラテヤ人への手紙 5章19~21節
パウロは、ここであえて「肉の行い」のリストを挙げています。
このリストは大きくわけて4つに分類できると言います。

1番目は、「性的な堕落」。結婚以外の性的な関係や、汚れた思いを抱くことです。
2番目は、「霊的な堕落」。神以外のものを神とすることです。
3番目は、「人間関係の破壊」。結果として関係を破壊するような行為と、その元になる心の動きです。
4番目は、「自制の欠如」です。
そしてこのリストには、「そういった類のものです」と付け加えられているので、ここに挙げられているものは、ほんの一部分だということがわかります。そして「このようなことをしている者たちは神の国を相続できない」と厳しく言われているのです。ちょっとドキッとしますよね。
ここで「このようなことをしている者たち」と言われているのは、「習慣的に継続的にそのような生活様式を送っている者」という意味です。ですから、これらに該当することをしてしまったら、もうダメなのかというとそういう訳ではありません。しかし、それが、自分の継続的な習慣となってしまわないように、またそのことを何とも思わないで無感覚になってしまわないように、聖霊は、あなたの霊を通して、その肉の行いを「罪」として示してくださるのです。
私たちは「たましい」の領域において、いつでも悔い改めが求められているのです。そうでないと、「神の国を相続できない」からです。つまり、神がご自身の子どもに用意しておられる、恵みに満ちた人生の実りを、自ら手放してしまうことになるのです。
また、このリストは、自分はできているとか、できていないとか、それこそ肉の基準で見るのではなく、主からの霊的な語りかけとして、へりくだって耳を傾けるべきものだと思うのです。
皆さん、私たちは、救われて御霊が与えられて、一気に変えられることを望みます。しかし、実際には、毎日、毎瞬間の葛藤と戦いの連続なのです。いや、むしろ、神様はあえてこのようにして、神様との関係を深めながら、少しずつ少しずつ私たちが変えられていくのを願っているようにすら感じます。
神様は、私たちが造り替えられて、良い実を結ぶということを望んでおられます。しかしそれ以上に、私たちが神と共にあゆみ、神と正しい関係に歩むことのほうがはるかに大事なのです。
3. 御霊によって歩むとは
第3のポイントは、「御霊によって歩むとは」どういうことなのか、ということです。ガラテヤ5:22-23にはこのようにあります。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
ガラテヤ人への手紙 5章22~23節
ここに9つの徳が、御霊の実として書かれています。

はじめの3つ、「愛、喜び、平安」は、神との関係における実です。
次の3つ、「寛容、親切、善意」は、人との関係における実です。
そして最後の3つ、「誠実、柔和、自制」は、自分自身との関係における実です。
御霊によって歩むとは、これらの御霊の実が私たちの生活の中に現れてくる歩みだと言えます。
ここで注目したいのは、「御霊の実」という言葉です。ギリシア語で「カルポス」という単語が使われていますが、実はこれは単数系で書かれているというのです。つまり、御霊の「実」というのは、バラバラに存在する徳ではなく、全体として一つの実として結ばれるものだということです。
たとえば、「私は愛はあるけど、自制は苦手です」とか、「平安はあるけど、喜びはちょっと」と考えてしまうことがあるかもしれません。でも、これは一つずつ独立して集める徳ではなくて、御霊が私たちの中で結んでくださる、「キリストの人格」という一つの実なんです。ちょうど、一本のぶどうの房がいくつもの実からなっているように、御霊の実も一つの命から全体として実るものなんです。ですから、御霊の実を結ぶというのは、私たちが「もっと優しくなろう」「もっと平安を持とう」と努力して何とか身につけるということではありません。むしろ、御霊の支配に身を委ね、「キリストに似た者として」変えられていく中で、自然と育っていくものなんです。
では、どのようにして御霊の支配に身を委ねるのでしょうか。それは、「砕かれる」ということです。すなわち、自分の弱さを認め、握りしめているものを手放し、自らを差し出し、主の助けを求めて歩むことです。この砕かれるという歩みは、一回限りのことではなく、一生続くのです。それは、自らを低くさせられる、辛い出来事に感じるかもしれません。しかし、そこにこそ御霊が働かれ、あなたを造り変えてくださるのです。
主の憐れみを求めて祈りつつ歩んでいる時、私たちの中に、「あれ、なんでこんなに心が穏やかなんだろう」「さっきまで怒りがあったのに、祈ったら消えていった」というような変化が起こり始める。それが、御霊の実が結ばれ始めたサインだと言えます。
つまり、「御霊によって歩む」というのは、霊的な高みに到達することではなく、「今日も御霊と一緒に歩むことを選ぶ」という、地道でリアルな信仰の道なんです。
朝、心が重いときに「主よ、今日もあなたと歩ませてください」と祈る。
会話の中で苛立ちが生まれそうなときに、一瞬立ち止まって「御霊よ、導いてください」と願う。
そういう一つひとつの小さな応答が、御霊の実を結ぶ日々につながっていくのです。
御霊の実があなたのうちに結ばれていくということ。それは、あなたが御霊と共に歩んでいる確かな証しです。「御霊によって歩む」その一歩一歩が、あなたをキリストに似た者へと造り変え、この地にも、神の御国の香りを放つものとなっていくのです。