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2025年6月29日 目を覚まし、御霊によって祈る
2025年6月29日 目を覚まし、御霊によって祈る
エペソ人への手紙 6章10~18節 佐藤賢二 牧師
今日は、今月ともに見てきた「御霊の働き」というシリーズの締めくくりとして、「目を覚まし、御霊によって祈る」というタイトルでメッセージを取り継がせて頂きます。
今日のメインのテーマは、「霊的な戦い」です。
ここに「戦い」とありますが、私はもともと「戦い」や「争いごと」が好きではありません。どちらかというと、「平和」のためなら、簡単に自分自身の主張を取り下げたり、あきらめたりしてしまうタイプなんです。とりあえず、波風立てずに、平和であることが一番。みんなが少しずつ我慢しながら、譲り合って、争いのない世界を作っていけばいいのではないか。そんな風に思ってきました。皆さんは、どうでしょうか。
しかし、ある時私は、こんな風に気付かされたんです。私は、本当に戦わなければならないことからも、逃げている。実は、私の言っている「平和」とは、単に「私自身が、面倒なことに巻き込まれたくないだけ」なんだ。結局のところ、自己中心、自分さえ良ければ良いという考えの裏返しなんだということです。
例えば、現状である程度満足している人なら、それでも良いのかもしれません。しかし、社会的に虐げられている人や、不利益を被っている人はどうしたら良いのでしょうか。学校の中でいじめられている人や、さまざまなハンディキャップを抱えて、社会の中で生きづらさを感じている人はどうでしょうか。彼らにも、そのままの状態で、波風立てずに我慢しろというのでしょうか。彼らは自分たちで声を上げることも、戦うことも出来ないかもしれません。だから、誰かが、そのようなことのために戦わなければならないのです。
何かを変えようとしたら、必ずどこかで波風は立ちます。目の前の「平和」を保とうと、取り繕っているだけでは、何も変えることはできないのです。
ある牧師は、それを「聖なる憤り(Holy Discontent)」と表現しました。つまり、社会の中で、神の御心がなされていない事柄に対して、「このまま放っておいて良いはずがない」と、「神聖な怒り」を感じるということです。それは、イエス様の心を心とするということでもあります。マタイ9:36にはこのようにあります。
また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
マタイの福音書 9章36節
イエス様は、弱り果てて倒れている群衆を見て、はらわたがキリキリと痛むほどに、深くあわれまれました。このままで良いはずがない。彼らの病や、虐げられている様子や、社会的不利益を被っている姿。そして何よりも、彼らが私たちのたましいの羊飼いであるイエス様から、そして父なる神様から切り離され、まことのいのちも、神の豊かな愛をも実感することもなく彷徨っている姿に耐えられなかったのです。そこでイエス様は、弟子たちに言われました。
収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
マタイの福音書 9章37b~38節
「祈り」は、このイエス様の心を心として、神の御心がこの地で成し遂げられるための、霊的な戦いの中心にあるものなのです。もし、私たちが、イエス様が見ておられるように群衆を見ることが出来なかったら、あえてこの戦いの最前線に立つ必要性も感じないでしょう。この「祈りなさい」という言葉に込められた、イエス様の思いも受け取ることが出来ないでしょう。だから私たちの敵である悪魔は、私たちの目を閉ざし、私たちを霊的に眠った状態にとどまらせて、自分さえ良ければそれでいい、そのような偽りの平和の中に閉じ込めようとするのです。
皆さん、私たちは「目を覚ます」必要があります。そして、本当にこの地に神の御心が実現していくように、「御霊によって祈る」必要があるのです。私たちは、戦う相手が誰であるのかを、見誤ってはいけないのです。今日は、そのことについて、ともに主からのメッセージを聴いていきたいと思います。
それでは、今日の聖書箇所、エペソ人への手紙6:10-18をお読みします。
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
エペソ人への手紙 6章10~18節
今日はここから、私たちがこの霊的な戦いに勝利するために知っておくべきことを、3つのポイントでお分ちしたいと思います。
1 「悪魔の策略」と「神の計画」について知る
まず第1のポイントは、「『悪魔の策略』と『神の計画』について知る」ということです。先ほどの御言葉には「悪魔の策略に対して堅く立つことができる様に」とありました。
皆さん、「悪魔の策略」とは何でしょうか?それは、わかりやすく言えば「神の計画を台無しにすること」なんです。神様には、成し遂げるべき、偉大な計画があります。しかし、悪魔にはそんなことはなく、ただ「神の計画を邪魔する」以外に、特別な計画はありません。しかし、だからと言って、決して侮ってはいけません。第1ペテロ5:8にはこの様にあります。
身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
ペテロの手紙 第一 5章8節
つまり私たちは、目を覚ましていないと、まんまと悪魔の策略にはまって、食い尽くされてしまうのだというのです。悪魔は、私たちの隙をうかがって、いつも攻撃の機会を探しているのです。
では、悪魔がそうまでして妨げたいと願っている「神様の計画」とは、どのようなものなのでしょうか。聖書には、その計画が至るところに散りばめられています。ここでは、エペソ書の中に示されている「神の計画」を、3つの側面から確認しておきたいと思います。
(1)一人ひとりに対する計画: 一人ひとりが救われて、良い行いに歩む。
まず1つ目は、一人ひとりに対する計画です。これは、一人ひとりが救われて、良い行いに歩むということです。エペソ2:8-10にはこうあります。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
エペソ人への手紙 2章8~10節
神様は、私たち一人ひとりに素晴らしい計画を持っておられます。それは私たちが、キリストの御業によって救われ、神との交わりを回復し、神の声を聴きながら、一人ひとりに与えられた賜物や個性を用いて、良い行いに歩むということです。これが、一人ひとりに与えられた計画です。
(2)教会に対する計画: 教会を通して神の知恵が示される。
2つ目は「教会に対する計画」です。これは、教会を通して神の知恵が示されるということです。エペソ3:10-11にはこの様にあります。
これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。
エペソ人への手紙 3章10~11節
ここにあるように、「教会を通して、神の豊かな知恵が、この世界に知らされる」ことが、神の計画であることが分かります。教会というのは、ただ何か「教えを伝える」ためだけに組織された、便利な集まりではありません。教会というのは、神に呼び出された者たちの共同体です。教会の姿、教会のあり方を通して、この世界に神様の知恵、それもきわめて豊かな知恵が示されるということが、神の計画なのです。
「地域教会は世界の希望です。」
なぜなら、教会こそが、この時代、神の計画の中心的な担い手であるからです。
(3)全宇宙的な計画: キリストにあって一つとなる。
3つ目は「全宇宙的な計画」です。これは、すべてのものがキリストにあって一つとなるということです。エペソ1:9b-10にはこのようにあります。
その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
エペソ人への手紙 1章9b~10節
皆さん。天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって一つとなるということ。これが神様の計画なのです。教会では、ユダヤ人もギリシア人も、主人も奴隷もありません。皆、キリストにあって、一つとなることが出来ます。そしてその和解の務めが、私たち一人ひとりにも、そして教会にも与えられているのです。実に、キリストこそ私たちの平和です。隔ての壁を打ち壊し、十字架によって、敵意を滅ぼされたのです。すべてのものがキリストにあって一つになる。これが、神の全宇宙的な計画なのです。
さて、このことが分かると、悪魔がどのような策略を持っているかが分かるでしょう。
まず、個人の信仰生活を攻撃することで「一人ひとりに対する計画」を台無しにしようとします。つまり、人を神から遠ざけ、救われないようにすること。そして、救われた後も、力ある「良い行い」が出来ないように、あらゆる手を尽くしてくるということです。
次に、教会を機能不全にすることで、「教会に対する計画」を邪魔しようとします。つまり、教会を単なる頭でっかちな「教える会」であるかのように錯覚させ、本当に大切な使命から遠ざけようとすること。そして、教会から愛を奪い、仲違いや分裂を引き起こさせて、世の中に対して証しができない様にするということです。
さらに、人々を分断することで、「全宇宙的な計画」を妨げようとしてきます。憎しみを増加させ、国と国とを敵対させたり、逆に他の国や世界のことに対して無関心・無感覚になるように仕向けたりして攻撃してくるのです。
皆さん。私たちの格闘は血肉に対するものではありません。つまり、目の前に見えている人とどんなに敵対していたとしても、その人自体は、本来の敵ではないのです。まず、その背後に働いている、霊的な力の存在を認めないと、神の計画を前進させるための、本当の勝利をすることはできないのです。ですから、まず、私たちがどの様な戦いを戦っているのか、「悪魔の策略」と「神の計画」について理解することが、この霊的な戦いに勝利するために、まず第1に必要なことなのです。
2 神のすべての武具を身につける
第2のポイントは、「神のすべての武具を身につける」ということです。エペソ6:13にはこの様に書かれています。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
エペソ人への手紙 6章13節
ここに「神のすべての武具」を取りなさいとあります。この「すべての武具」という言葉は、ギリシア語で「パノプリア」と言って、ローマの兵隊のフルセットの装備のことを指します。この言葉は単数形で書かれていますので、それぞれの武具が独立しているのではなく、すべて揃って初めてこの「パノプリア」として成り立つということです。つまり「神のすべての武具」と言う時、それは一部ではなくて「すべての」武具を身につけることが大切なのだということなのです。
具体的に、パウロが挙げている「神のすべての武具」について、もう一度御言葉を見てみましょう。

腰には真理の帯を締め、
胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
エペソ人への手紙 6章14b~17節
この中で、特に2つのことに触れたいと思います。
一つ目は、「信仰の盾」についてです。ローマの重歩兵は、この装備を身につけるだけでなく、密集した隊列を組んで戦うことが前提となっていました。そしてその際、敵の攻撃を防ぐために、盾と盾を繋ぎ合わせるようにして、前からだけでなく、上からの攻撃からも守られるように、協働戦術をとっていたということなのです。

皆さん、盾というのは、唯一他の人をも守れる防御用の武具です。そしてパウロが、「信仰の盾」という表現を用いたのはとても味わい深いなと思わされるのです。なぜなら、私たちは一人では霊的に打ち負かされそうな時でも、共同体の中では、誰かの信仰によって立ち直るということが可能だからです。「信仰の盾」は、悪い者が放つ火矢を、すべて消すことができます。だから、私たちは、互いの信仰を持ち寄って、祈り合い、支え合う必要があるのです。
二つ目は、「御霊の剣、すなわち神のことば」についてです。
ここで言われている「神のことば」は、ギリシア語で「レーマ」という言葉が使われています。普通「神のことば」表すときは「ロゴス」という言葉を使いますが、それを単に聖書に書かれた客観的なことばとしてではなく、「私に個人的に語られたみことば」として受け取るというとき、それは「レーマ」となります。
私自身は、神様から「来なさい」ということばを個人的に語られたと確信して、献身を決意しました。そして「ペテロが舟を出て、水のうえを歩いて、イエス様の方に向かって歩いた」という聖書の記事を、私が個人的に「会社を辞めて、不安定な状況の中を、ただ主に信頼して歩み続けなさいという語りかけだ」と信仰によって受け止めたということです。
これが、「レーマ」です。そしてこれは、基本的には、日常的に神の声を聴こうとするという姿勢があって、初めて受け取ることができるものだと思うのです。
皆さん、私たちは今年、もう一度「毎日のみことば」を用いてのデボーションの大切さを、何度も何度も語ってきました。主日礼拝のメッセージも、「毎日のみことば」と連動させるようにしています。この「毎日のみことば」では、「神様がこの聖書箇所から、私にどの様なメッセージを語ろうとしているのか」を、毎日、静まって思い巡らす時間を持ちます。これが、「レーマ」を受け取る訓練となるのです。
単に聖書知識を身につけたり、それによって理論武装したりするということではありません。神のことばを、生きたことばとして、自分の状況に適用していくこと。それこそが、御霊の剣である、神のことばを用いるということなのです。
霊的な戦いに勝利するためには、「神のすべての武具」を身につけることが欠かせないのです。
3 目を覚まし、御霊によって祈る
さて、第3のポイントは、「目を覚まし、御霊によって祈る」ということです。エペソ6:18をお読みします。
あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
エペソ人への手紙 6章18節
ここでふと疑問に思うことがあります。なぜ「祈り」は、先ほどの「神のすべての武具」に含まれていないのでしょうか。それは、むしろ「祈り」が、これらすべての武具に密接に関わっているものだからです。祈りがなければ、神のすべての武具は機能しません。
ちょうど、どんなに素晴らしいスマホやパソコンを持っていたとしても、電源が入っていなかったり、Wi-Fiと繋がっていなかったりしたら、ほとんど何の役にも立たないのと同じです。
「祈り」を通して、それぞれの武具が、神ご自身とつなぎ合わせられます。
「祈り」を通して、はじめてこれらの武具に、神の力が供給されるのです。
それだけではありません。「祈り」というのは、戦いそのものです。霊的な戦いですから、「御霊によって祈る」必要があるのです。「御霊によって祈る」というのは、自分の意志や理性とは関係なく祈るという意味ではありません。
そうではなく、私たちがどの様な戦いの現場に置かれているのかということを明確に理解した上で、神が今、私たちにどの様な祈りを願っているのかということを、主に聴きながら祈るということです。信仰による祈りには、力があります。ですから、私たちは、神の御心に焦点を合わせつつ、大胆に、信仰によって祈り、この戦いに勝利していく必要があるのです。
悪魔は、私たちが眠った状態にとどまらせようとさせます。
クリスチャン同士が協力できないように、敵対させたり、混乱させたりします。
落胆や失望で、祈るのをあきらめようとさせるのです。
「エスペランサ(スポーツミニストリーの働き)」について
今日のメッセージを締めくくるにあたって、私はどうしても、この「霊的戦い」ということについて、自分の立たせられている状況について語るようにと迫られています。
それは、エスペランサのことです。
先日、こんなことがあったんです。エスペランサに来ている、ある中学生がコーチに電話をかけてきました。何かと思って聞いてみると、彼のお兄さんが、まだ22歳という若さで自らの命を絶ってしまったというのです。私はその連絡を受けて葬儀に参列させて頂きました。話を聞くと、彼は18歳の頃、大切な友人を失って、それからずっと生きるのが辛いという思いを抱えながら、何とかここまで頑張ってきた、というのです。
まだ若い、希望に満ちあふれているはずの青年が、生きるのが辛いと言って自殺をしている。そしてそれが連鎖している。そんな日本の現状を聞いて、何か自分できる事をしたいと思って、日本に来られたのがオルテガさんです。そして、そのオルテガさんの最大の痛みは、今、エスペランサに集まっている300人もの若者たち、そしてその家族が、このままでは神様の愛を知らずに滅んでいってしまう。そのことで、心を痛めているのです。
私もそこに多くの時間を割いてきましたが、なぜかいつも色々な行き違いで、物事がうまく進んでいかないのを感じ、もう半分あきらめかけていたのです。
しかし、皆さん。それこそが、悪魔の策略なのです。この悪魔の策略に立ち向かうために、私たちは心を一つにして、真剣に祈っていく必要があるのです。皆さん、今こそ「祈りの勇士」として、ともに立ち上がってください。この戦いのために、ともに忍耐の限りを尽くして祈りましょう。
来週、第3礼拝の後、今語られていることを共有して、エスペランサのためにともに祈る時間を持たせて頂こうと思っています。今こそ、皆さんの祈りが必要です。みなさん。私とともに立ち上がってください。それが、必ず突破口となります。そこから、エスペランサだけでない、教会全体のブレイクスルーが始まっていくと信じます。
皆さん。もう一度、この霊の戦いに勝利するために、立ち上がりましょう。
神のご計画が、この地に実現するように。
すべての人が、神の愛を知り、救われるように。
そして、主の教会が一つとなり、託された使命を果たしていくことが出来るように。
ともに、目を覚まし、御霊によって祈り続けて参りましょう。