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2023年10月8日 テモテの生涯から学ぶ(4)〜時が良くても悪くても〜

テモテの生涯から学ぶ(4)〜時が良くても悪くても〜
テモテへの手紙 第二 4章2節 佐藤賢二牧師

それでは御言葉に耳を傾けていきたいと思います。今日は「テモテの生涯から学ぶ」というシリーズの4回目、「時が良くても悪くても」というテーマで学んでいきたいと思います。まず、今日のみことばをお読みいたします。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

テモテへの手紙 第二 4章2節

皆さんは、もう自分がその人生を終えようという時、あなたにとって最も大切な人に、何を伝えるでしょうか。その人に、最も大切なことを、何か生涯の指針となるようなメッセージを伝えたいと思った時、あなたは何を語るでしょうか。

今、読んだこのみことばは、パウロにとって、そのような重要な意味を持つことばなのです。

パウロは、それまでも何度も迫害に遭い、何度も投獄され、幾多の苦難を通り抜けてきた人物です。

でも、今回ばかりは、もう終わりが来る。ローマ帝国の迫害によって、いよいよ死を免れることは出来ない。そう悟ったパウロが、その最も愛する弟子、テモテに宛てて書いた、非常に個人的な手紙が、このテモテへの手紙第二なのです。

パウロとテモテの関係は、とても深いものがありました。パウロはテモテのことを「真のわが子」と表現し、特別に愛しました。テモテはパウロを実の親以上に慕い、他のどの弟子よりも長い期間、パウロと行動をともにしました。テモテは、パウロが迫害に遭う時も、獄中にいる時もともに過ごし、パウロと苦しみをともにすることが出来る人物となっていました。

そしてパウロは、そんなテモテを、大切なエペソ教会のリーダーとして任命し、その地にとどまってしっかりと教会を建て上げるようにと励ましました。

テモテへの手紙第一では、そんなテモテが具体的にどのように教会を建て上げるべきなのかということが主なテーマでした。しかし、それから数年経って書かれた、このテモテへの手紙第二は、よりテモテ自身を気遣うような個人的なメッセージが満ちています。その手紙の中でも、一番最後、パウロ自身もいよいよ、この地上での生涯を終えるであろうことを覚悟した中で、わが子テモテに託したメッセージ。それが今日のみことばなのです。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」

パウロはこのことばを伝えるのに、直前の4章1節でこのように語り出しています。

神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。

テモテへの手紙 第二 4章1節

パウロは、自分は間も無く殉教の死を遂げると覚悟した中で、天の御国を思いつつ、「厳かに命じます」と言っています。この言葉は、「パウロの遺言」なのです。

ですから、私たちも、このことばを厳粛な思いで受け止めていきたいと思うのです。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」

今日は、この箇所から、3つのポイントでお話ししたいと思います。

1. みことばの力

まず、第1のポイントは、「みことばの力」についてです。

みことばには力があります。私たちは、その力あるみことばを宣べ伝えるのです。

パウロは、直前の第2テモテ3:14-17で、みことばについて、テモテにこのように語っています。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

テモテへの手紙 第二 3章14~17節

この箇所を見ると、まず目に留まるのが、テモテが幼い頃から聖書に親しんできたという事実です。テモテのお父さんはギリシア人でしたが、テモテのお母さんは、ユニケという名前のユダヤ人でした。当時、まだユダヤ人とギリシア人との間の結婚は、一般的なことではありませんでした。ですから、なぜそういう状況になったのかは良く分かりません。でも、そのような結婚生活はきっと簡単なものではなかっただろうということが想像出来ます。ユダヤ人のコミュニティーからは、結婚において妥協をした人として見下されてしまっていたかも知れません。またギリシア人のコミュニティーにも完全に入っていくことが出来ないような状況だったことでしょう。夫婦間がどのような関係だったかは分かりませんが、その結婚生活はいつも困難を抱えていたのではないかと思うのです。

でも、そのような状況の中にあっても、テモテは幼い頃から聖書に親しんでいたというのです。

これは、きっとユニケの母、テモテの祖母ロイスの影響だと思われます。第2テモテ1:5にはこうあります。

私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。

テモテへの手紙 第二 1章5節

ロイスとユニケは、愛するテモテのために、幼い頃からみことばに親しむことが出来るような環境を整えていきました。どんな困難な状況の中にあっても、少なくともみことばだけはしっかりと我が子の心に刻んでおきたい。そのような、涙の祈りと、労苦があったことが想像できるのです。

そして、そんな土台があったからこそ、ロイスもユニケも、パウロと出会った時に、イエス・キリストに対する信仰を持つことが出来たのだと思います。そして、テモテもしっかりとした信者として、生まれ変わることが出来たのです。

テモテは、やがて、パウロに見出されて、宣教の働きに献身していきます。その幼少期は、信仰面では苦労が絶えなかったと思うのです。でも、こうして立派に、最も大切な働きに召されていった。それは、幼い頃から親しんで来たみことばが、生きて働いていった結果だと思うのです。

今日、同じように、家庭で信仰を育むのに戦っているという方もおられると思います。

でも、その涙の祈りと労苦は、決して無駄になりません。

いつどのように芽を出すかは分かりません。でも、蒔かれたみことばの種は必ずその心の中で生長し、主はそれをご自身の計画のために、必ず用いてくださる。そのことに信頼していきたいと思います。

パウロは、先ほどのみことばの中で「みことばの力」について2つのことを述べています。

(1)みことばには、救いに導く力がある

第1に、「みことばには、救いに導く力がある」ということです。

もう一度15節の後半をお読みします。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。

テモテへの手紙 第二 3章15節b

みことばには、「救い」についての「知恵」を与えて、人を救いに導く力があります。

私たちは、ただ恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって救われました。

でも、まだこの方について、聞いたことのない人が、どうして信じることができるでしょうか。

みことばを宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことが出来るでしょうか。

信仰は、神のみことばを聞くことから始まるのです。

そして神の定められた時に、そのようにして蒔かれた種が、聖霊の働きによって芽を出し、その人を救いに導く原動力となるのです。

ですから私たちは、みことばの種を蒔き続けます。みことばには、救いに導く力があるからです。

(2)みことばには、良い働きのために整える力がある

第2に、「みことばには、良い働きのために整える力がある」ということです。

もう一度3章16節、17節をお読みします。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

テモテへの手紙 第二 3章16~17節

みことばは、私たちを救いに導くだけでなく、救われた私たちが、良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるために不可欠なものです。みことばは、私たちに「教えと戒め」すなわち、何が正しいことで、何が間違ったことなのかという知識を与えてくれます。また、「矯正と義の訓練」すなわち、私たちがその知識に基づいて、どのように行動すべきなのかということも教えてくれるのです。

みことばは、単なる頭の知識にとどまるものではないのです。

ヨハネ1:1、14を見るとこのように書かれています。

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ヨハネの福音書 1章1節

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ヨハネの福音書 1章14節

神のことばが、人となった。それがイエス・キリストです。これを、「受肉」と言います。

私たちも、みことばを、私たちのうちに「受肉」させて生きなければなりません。

神を信じるというのは、単に知識を得るということではなく、実際にその知識に生きることです。

それは、単に律法を守る、規則を守るということではありません。

イエス・キリストの人格を、私たちのうちにまとうこと。それが「受肉」です。

私たちは、みことばによってビジョンが与えられ、みことばによって信仰が成長し、みことばによって忍耐する力が与えられ、みことばによって生ける神ご自身を体験するのです。

だからイエス・キリストを信じた私たちは、この「みことば」を、私たちの心の栄養、心の食物として、毎日いただきます。そして、キリストが感じるようにものを感じ、キリストが行動するように行動していくこと。すなわち、「キリストの心とともに」歩む者とさせていただくことが、私たちの霊的成長の目標なのです。

みことばには、私たちを、良い働きのために整える力があるのです。

さて、第1のポイントは「みことばの力」についてでした。

みことばは、私たちを救いに導き、私たちを良い働きのために整えてくれるのです。

2. 宣べ伝える私たちの姿勢

第2のポイントは、「宣べ伝える私たちの姿勢」についてです。

「みことばを宣べ伝えなさい」とありました。

この「宣べ伝える」という言葉は、王様がその国民に何らかの布告を出した時、それを宣言し、伝達するということを表すのに用いられていました。ですから、「私はこう思います」とか、「私はこのように感じます」といった自分の意見や考えを述べることではなく、神が言われることをそのまま脚色なしで伝えるという姿勢が大切なのです。

では、ただその言葉を、文字通りそのまま語ればそれで良いのでしょうか。

第2テモテ2:15にはこのようにあります。

あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。

テモテへの手紙 第二 2章15節

実は、真理のみことばをまっすぐに説き明かすということは、語る自分自身が一番問われる行為なのです。みことばを語るたびに、自分がその務めにふさわしいかが問われるのです。

もし、人に語ることがなければ、自分自身、そこまで真剣にみことばに生きることを意識しないで済むかもしれません。でも、ひとたび、みことばを誰かに向けて話そうとするならば、語る本人がそのみことばと一番向き合わされる訳です。

今年、私は礼拝メッセージを語るようにと導かれて、このように講壇から語らせていただく機会が多くなりました。でも、毎回、語る私自身が、本当に語っているように生きているだろうか、ということが問われるのです。正直に言うと、皆さんの前で、形だけ、言葉だけ、口先だけのメッセージになってしまっているなと感じることもあります。それはとても辛いです。でも、だからこそ、みことばをまっすぐに説き明かすに相応しい働き人となれるように、自分を献げ、最善を尽くしていきたいと思うのです。

でもこれは、何も講壇からメッセージを語るということだけの話ではありません。家族や親しい友達に福音を伝えようとする時、自分が本当にその福音に生きているかどうかが探られるんです。

そう考えると、神様が、私たちに「みことばを宣べ伝えなさい」、まっすぐに伝えなさいと言っておられるのは、実は、私たちのためでもあるのだ、ということが分かります。

みことばを宣べ伝えるということは、私たち自身が霊的に成長する機会でもあります。

ですから、そのことを避けて通らないように、それぞれの立場で、しっかりと受け止めて頂きたいと思います。

3. 時が良くても悪くても

第3のポイントは、「時が良くても悪くても」ということについてです。

皆さん、「時が良くても悪くても、しっかりやりなさい」とありますが、時が良いとか、時が悪いというのはどういうことを言うのでしょうか。

この「時が良くても悪くても」と言う部分は英語では、In season and out of seasonと訳されることが多いようです。Seasonということばが使われています。つまり良い季節であっても、悪い季節であってもということです。農業であれば、種を蒔くのに相応しい季節があり、刈り入れるのに相応しい季節というのがあるでしょう。それは、その働きに関わっていれば、誰でも知っていることです。でも実は、霊的な世界において、私たちはその相応しい季節というのを、正しく判断できていないことがあまりにも多すぎるのです。

ヨハネ4:35にはこうあります。

あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

ヨハネの福音書 4章35節

この時、人々はまだ刈り入れの季節ではないことが分かっていました。そして、私たちは同じ原則を霊的な事柄にも当てはめて、まだ早過ぎるとか、もうその季節は過ぎてしまったとか言って、収穫を得るのを、あきらめてしまっていることがあるのではないでしょうか。

でも主はあえて、目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっていますと言われたのです。私たちが、信仰の目を上げて、今の状況を見る時、全く違う景色が見えてくるのです。

今の日本は、どういう状況でしょうか。時が良いのでしょうか。時が悪いのでしょうか。

コロナ禍や、長引く不況や、戦争や、社会の闇が私たちの社会を覆っています。日本のキリスト教界も、牧師の高齢化や、教会数の減少など、非常に厳しい状況が続いています。そこにだけ目を向けるならば、時が悪い、まだ早い、もう遅いと言って、信仰を働かせることすらあきらめてしまう可能性があります。

でも、暗闇に見えるこの状況の中だからこそ、神のみことばは、光輝くのです。

第2コリント6:2にはこのようにあります。

神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。

コリント人への手紙 第二 6章2節

今は恵みの時、今は救いの日です。

困難があればあるほど、人々は飢え渇き、真剣に本物を求めるようになります。

だからこそ、私たちは、時が良くても悪くても、しっかりと、みことばを宣べ伝えていく必要があるのです。

では、「時が良くても悪くても、しっかりやりなさい」という時の「しっかりやりなさい」とは、どういうことなのでしょうか。それは、一方的に、自己満足的に、ただ語れば良いということではありません。

この「しっかりやりなさい」という言葉は、英語では、Be readyとか、Be preparedと訳されています。つまり、しっかりしなさいというのは「準備ができた状態でいなさい」ということです。それは、心の準備であり、みことばを語る準備のことです。

皆さんは、どんな時でも、神のことばを伝える心の準備ができているでしょうか。

みことばを語る準備ができているでしょうか。

私たちの側では、まだその時ではない、いや相応しい時ではないと思っていても、実はその人の中では、もう十分に、みことばに対する飢え渇きがあるかもしれません。

友達や、地域の人と話をしている時に、突然その語るべきタイミングが訪れるかも知れません。

そのような時に、私たちの側でいつでも準備ができていること、それが「しっかりやりなさい」ということの意味です。

私たちは、みことばを宣べ伝えましょう。

時が良くても悪くても、今がその時であると信じて、しっかりやりましょう。

皆さん、もうその時が来ています。

目を上げて畑を見なさい、色づいて刈り入れるばかりになっています。

信仰の目を上げて、そのビジョンをしっかりと受け止めていきましょう。

10×10は必ず実現します。ミッション3000は必ず実現します。

ともに、主に信頼して歩んでまいりましょう。

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