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2023年7月16日 愛に生きる私たちの十戒(10)〜真実を語る生き方〜

2023年7月16日 愛に生きる私たちの十戒(11)〜真実を語る生き方〜
出エジプト記 20章16節 佐藤賢二 牧師

「愛に生きる私たちの十戒」というシリーズの第10回目になります。今日も早速、聖書をお読みしたいと思います。出エジプト記20:16です。

あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
出エジプト記 20章16節

はい、これが十戒の第9戒となります。ここに、「偽りの証言をしてはならない」とありますが、今、私たちが過ごしているこの世界には、「偽りの証言」があふれています。世の中には大量の「フェイクニュース」が流され、それがあたかも真実であるかのように扱われているのです。
最近では「ディープフェイク」と呼ばれるAIを駆使したフェイク映像があるのを、皆さんはご存知でしょうか。これは、写真や映像から、別の映像を合成し、あたかもその人が本当に何かをしゃべっているかのような偽の映像を、作り出すというものです。もう、一見しただけでは、何が真実なのか分からないような時代になっているのです。

また「偽りの証言」と言う時、誰か特定の人物への、悪質な誹謗中傷も問題になってきます。そのような無責任な発言が、結果として誰かを追い詰めてしまうというようなことが、実際にたくさん起こっているのです。スマホやSNSの普及で、私たちは誰でも簡単に、いろいろな情報に触れることが出来るようになりました。しかし、それらの情報は必ずしも正しいとは言えないんです。そして私たちが、それを気軽に拡散してしまうことによって、知らず知らずのうちに、私たち自身も、「偽りの証言」に加担してしまうことがあるのです。私たちは、自分の発言、自分の発信する情報に責任を持たなければなりません。そしてそのためにも、何が「真実」なのか、見極める目が求められているのです。「真実」というのは、物事のうわべだけを見ていても分かりません。ですから私たちは、目の前の様々な情報に振り回されるのではなく、まずしっかりとこの世界の本質を見極めることが出来る力を必要としているのです。

今の時代、多くの人が信じ込んでしまっている、「嘘」とは何でしょうか。それは恐らく、「私たちは、偶然生まれた存在だ」ということではないでしょうか。進化論的な価値観というのは、そういうものです。

私たちの人生に意味なんてない。私たちはそれぞれ本能のままに、好き勝手に歩んで良い。結局は弱肉強食であって、強いものや優秀なものだけが、また環境に適応したものだけが、勝ち組として生き残り、あとは淘汰されていってしまう。だから、自分たちは余計なことは考えず、とにかく必死に生き残れるように、勝ち抜くだけだ。これが、この時代、この国の多くの人が、無意識のうちに持っている価値観なのではないでしょうか。これは、とても悲しいことです。

皆さん。私たちは皆、神様に愛されている、かけがえのない、大切な存在です。誰一人として、いなくていい人などない、価値のある尊い存在なのです。私たち一人ひとりの人生には、目的があって、それぞれに将来と希望があります。もちろん私たちは、失敗をしたり、間違いを犯したりすることもあります。でも、イエス様は私たちを決して見離さず、私たちを見捨てることがありません。私たちは、そこから向きを変えて、いつでも立ち直ることが出来るのです。

失望は絶望に終わることはありません。なぜなら、私たちをどんな時でも愛してくださるお方が、私たちと共にいてくださるからです。聖書には、そのように書かれているんです。私たちは、土台の部分で、どのような価値観を持って世界を見ているのか。それが問われているのです。

「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」この戒めは、単に「嘘をついてはいけない」という、道徳的な教えにとどまるものではありません。私たちは、聖書が指し示す「真実」と「価値観」を、この世界に表していく存在となることが、求められているのです。

今日は、そんなことを踏まえつつ、祈りのうちに示されている事を3つのポイントで話をさせていただきたいと思います。

1. 偽りはどこから来るのか?

まず第1のポイントは、「偽りはどこから来るのか?」ということです。「偽り」とは、真実をねじ曲げることです。私たちは、なぜ、真実をねじ曲げようとしてしまうのでしょうか。今日はそれを知るために、まず聖書の一番初めの書物、創世記から見ていきたいと思います。

聖書によれば、初めに神様は、天と地のすべてのものを造られました。そして神様は、神ご自身に似せて人を造り、この地上のすべてのものの管理を任せられたのです。神様は初めの人、アダムとエバを「エデンの園」に置き、そこにある木の実は、どれでも思いのままに食べて良いと言われました。ただ、神様はその時、たったひとつだけ条件をつけたのです。「園の中央にある、善悪の知識の木」からだけは食べてはならない。その木から食べるとき、必ず死ぬと言われたのです。しかし人は、神様からのこのたった一つの約束を守ることが出来ませんでした。聖書を見てみましょう。創世記3:1-6をお読みします。

さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
創世記 3章1~6節

ここで「蛇」とありますが、これは悪魔・サタンが姿を変えて現れたものです。お分かりでしょうか。サタンは、ここで巧妙に「偽り」を織り交ぜて、人の心を揺さぶり、人に罪を犯させようとしているのです。そしてサタンは最後にズバッとこう言い切ります。「あなたがたは決して死にません。それを食べるとき、あなたは神のようになれるのです。」そして、その嘘を信じたアダムとエバは、神の戒めに反して、この実を食べてしまいました。それによって神と人との間には亀裂が入り、人は霊的に死んだ存在となってしまったのです。なぜサタンは、そんな嘘をついたのでしょうか。それはサタンの目的が、私たちを神様から引き離して、私たちの人生を台無しにすることだからです。サタンは、神様には直接対抗できる力がないのは分かっています。だから、人に働きかけ、人を欺き、人に罪を犯させようと、私たちの心に、嘘・偽りを少しずつ、少しずつ忍び込ませていくのです。

サタンの偽りの声とはどのようなものでしょうか。それは「お前には、価値がない。お前は失敗者だ。本当は、神様はお前なんか愛していない。罪を犯しても大丈夫。みんなやっているから大丈夫。」そのような、種類の声です。皆さん、サタンの偽りの声に耳を傾けてはいけません。それは私たちの心を弱らせ、私たちが神様から離れ、祝福が得られないようにさせるものなのです。

さて、そのようにして、罪を犯した人間はどうなったでしょうか。彼らには「恥」という感情が入り込み、「恐れ」ゆえに「隠す、隠れる」ということを始めるようになってしまったのです。神様は、そんな彼らに声をかけられます。創世記3:9-12です。

神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
創世記 3章9~12節

アダムはなんと、神様から問われて、逆ギレして言うのです。「いや、この女があの木から私に取ってくれたから、私は食べたのです。だいたい、この女は、あなたが、私のそばにいるようにと与えくれた女じゃないですか。だから、神様、あなたにも責任があります」とでも言いたげな感じです。皆さん、このアダムの返事は「真実な証言」だったでしょうか「偽りの証言」だったでしょうか。確かに、表面上、嘘ではないように思われます。この女がくれたから、食べた。そもそもこの女は、神様が私に与えた。でも、そこには誠実さはありませんでした。

たとえこの女がくれたものであったとしても、食べたのは自分です。神様との約束を破ったのも自分です。何なら、女が蛇に誘惑され、木からその実を取っている時、アダムもそこでじっとその姿を見ていたのです。むしろ彼女をかばって、「私が彼女を止めるべきでした。これは私の責任です」と神の前にひれ伏すことも出来たはずなのです。でも彼は、そうする訳でもなく、自分の責任逃れのために事実を並べたに過ぎなかった。だから、アダムの証言は、少なくとも「真実なものだった」とは言えないのです。私たちは、サタンの嘘に影響されて、罪を犯すと、それを隠そうとします。罪悪感を感じ、それが明るみに出るのを恐れて嘘をつき、誤魔化そうとするのです。自分を正当化することばかり考えて、とっさに人のせいにしようとするのです。私たちが、嘘・偽りを言ってしまうのは、そこに罪があるからです。嘘・偽り自体も罪かもしれませんが、もうすでにそこに罪があるから、嘘をついてしまうのです。

私たちには、みな罪があるんです。では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
第1ヨハネ1:8-9にはこのようにあります。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
ヨハネの手紙 第一 1章8~9節

まずは、私たちの罪を、素直にそれを認めることです。そして神の前に罪の告白をするなら、真実で正しい神様はそれを赦し、きよめてくださるとあるのです。イエス様は、私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかって死んでくださいました。その流された血潮によって、私たちはきよめられるのです。ですから私たちは、神様の前で、誤魔化すのではなく、認める、告白するということが大切なんです。

偽りはどこから来るのか?それはサタンに欺かれた、私たちの罪の性質から来ているのです。ですから私たちは、神様にその性質をきよめていただく必要があるのです。そして、それが私たちの祝福につながるのです。

2. 真実はどこから来るのか?

第2のポイントは、「真実はどこから来るのか?」ということです。イエス様はヨハネ14:6で、このように言われています。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
ヨハネの福音書 14章6節

イエス様は、ここで「わたしは真理です」と自ら宣言されました。ここで「真理」という言葉が使われていますが、「真理」という言葉と「真実」という言葉は、元のギリシャ語ではどちらも同じ単語が使われています。私たちが、真実に歩もうとする時、必要なのは「わたしは真理である」と言われるお方とつながり続けるということです。イエス様は別の箇所でこのようにも言われています。
ヨハネ8:31-32です。

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネの福音書 8章31~32節

ここに「真理はあなたがたを自由にします」とあります。そしてここでは、私たちが真理を知るために必要なのは、「イエス様のことばにとどまることだ」と言われているのです。皆さん、真理の源はイエス様です。ですから私たちは、イエス様のことばにとどまり続けなければなりません。私たちが、世の中の様々な、偽りの情報に流されずに、真実に歩むためにまず必要なこと。それは、みことばと祈りによって、イエス様とつながり続けるということです。

祈りというのは、神様との会話です。ですから、まずその神様の前に、真実であり続けること。祈りの中で、正直に、また誠実に神様の前に出ることが大切です。そのようにして神様との関係が正しくされるなら、私たちの隣人との関係も変えられていきます。ですから、祈りとみことばによって、まず神様との関係が整えられるということが大切なのです。

真実はどこから来るのか?それは、真理の源であるイエス様との交わりから与えられるのです。

3. 真実を語る生き方

今日、第3のポイントは、「真実を語る生き方」ということです。エペソ4:25にはこのようにあります。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。
エペソ人への手紙 4章25節

ここでは私たちに、単に「偽りの証言をしない」という消極的な生き方ではなく、「隣人に対して、真実を語る」という積極的な生き方をするようにと、招かれているのです。また、エペソ4:15にはこのように書かれています。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
エペソ人への手紙 4章15節

私たちは、隣人に対して「愛をもって真理を語る」ことを通して、ともに成長するのだと言われているのです。「愛をもって真理を語る」とはどういうことでしょうか。皆さん「愛の伴わない真理のことば」というものを想像してみてください。正しいものは正しい、間違っているものは間違っている。それは、その通りです。でも、もし真理だけを振りかざして、何かを語るなら、それはただ人を罪に定めるだけの、正論になってしまいます。いくらそれが、正しかったとしても、そこに相手に対する愛がなければ、その真理は相手に伝わることはないのです。ですから、実際にそこに愛すべき隣人がいるということを無視して、真理を振りかざすことは、ただ相手を裁くだけということになりかねないんです。

それは別に、真理を蔑ろにして良いとか、物事を曖昧にして良いとか、そういうことではありません。けれども、一人一人の置かれた境遇とか、その状況を丁寧に見ることもせず、「真理」を剣のように振りかざして裁くということは、神様が望んでおられることではないのです。隣人と実際に関わることを通して、初めて私たちは「愛をもって真理を語る」ことができるようになるのです。

皆さんは、どうでしょうか。あなたの言葉は、人を建て上げる言葉となっているでしょうか。人を成長させる言葉となっているでしょうか。信仰の目をもって、物事の本質をしっかりと見つめるということ。また状況をしっかりと吟味しつつ、その隣人にふさわしい仕方で愛をもって真理を語り、隣人を建てあげていくということ。教会は、そのような励ましに満ちた場所であるべきなのです。そして、この世界は、みんなそのような場所を必要としているのだと思うのです。

そのために、まず、私たち自身が整えられていきたいと思います。そして、この世界に希望をもたらす存在として用いていただくことが出来るように、求めていきたいと思います。お祈りしましょう。

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