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2023年9月17日 喜び歌いつつ、主とともに歩む

2023年9月17日 喜び歌いつつ、主とともに歩む
詩篇 100篇1~5節 佐藤賢二

今日は、「敬老感謝礼拝」です。聖書では、教会は「神の家族」だと教えられています。そして、年配の男の人に対しては「父親に対するように」、年配の女の人に対しては「母親に対するように」接しなさいと教えられています。また「父と母を敬え」というのが聖書の基本的な教えです。ですから私たちの教会では、この「敬老感謝礼拝」の時に限らず、どんな時でも、人生の先輩方、信仰の先輩方を心から愛し、敬い、「神の家族」として、ともに歩んでいきたいと思っています。そして、今日はそんなお一人お一人から受けた恵みに、心から感謝しつつ、ともに礼拝をささげていきたいと思います。

さて、今日のメッセージタイトルは「喜び歌いつつ、主とともに歩む」とさせて頂きました。

皆さんは、歌って好きですか?私は歌うのが大好きです。実は私は、幼稚園から小学校に上がるとき、サッカーをやるか、幼稚園の合唱団に入るかで悩んだことがあったんです。結局その時は、友達がみんなサッカーをやるからという理由でサッカーを選びました。でも中学生になってからまた音楽にハマり出して、友達とバンドを組んで、ボーカルを担当して歌を歌っていたんです。そして高校生になってからは、自分で曲を作るということも始めました。でも、そうやって自分で曲を作り、歌詞を書き始めるようになってから、気づいたことがあったんです。自分は歌うのは好きだけど、自分には特に歌いたいことがない。特に伝えたいメッセージもない。自分は何のために歌うんだろう。そもそも自分は何のために生きているんだろう。そんなところから、私の求道生活は始まったように思います。そして、そんな中で私はアメリカに留学し、イエス様と出会ったのです。すると、どうなったか。私が歌を歌う目的が、そして人生の目的がはっきりしたんです。私はイエス様の愛を歌いたい。そこからは神様を讃美する歌や、神様のことを伝える歌を、作って歌うようになったのです。

先日、私たちの教会で、永井信義先生をお迎えした時、私は「ワーシップクワイアー」の一員として、第3礼拝で讃美の奉仕をさせて頂きました。そこには、私の母と、私の妻と、私の娘も一緒に加わっていて、何と親子3代で同じ舞台で一緒に神様をほめたたえるという恵みにあずかったんです。これは、私に取っては本当に感謝で、感動的なことでした。そして、「我らの王はイエス、この街の王はイエス、この国の王はイエス」と讃美を捧げている中で、神様の圧倒的な臨在を感じ、そしてここから主の祝福が広がっていくんだという、光景を見せられて、涙が止まりませんでいた。

讃美とは、単に歌うことではありません。もちろん、歌わずに主を讃美することもできます。でも、歌うという行為は、私たちの思いや感情を全身全霊で表すことが出来る、素晴らしい方法だと思うのです。ですから聖書では、様々な箇所で「主に歌え」「主に喜び叫べ」と命じられているのです。私たちが、あえて口を開いて、主の御名をほめ歌う時、神様がその賛美を受け取ってくださり、素晴らしい御業を表してくださるのです。

ですから、私たちは礼拝で讃美を捧げる時、本気で、心をこめて、神に向かって歌いたいと思います。それは、上手い下手ではありません。もちろん、音楽的にはそれぞれの好き嫌いもあるでしょう。でも主を賛美することにおいて、そんなことよりもずっと大切なのは、私たちがどのような心で、主に向かうかということなのです。

今日は、そんなことを心に留めつつ、御言葉に耳を傾けていきたいと思います。詩篇100篇をお読みいたします。

全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。
知れ。主こそ神。
主が 私たちを造られた。
私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。
感謝しつつ 主の門に
賛美しつつ その大庭に入れ。
主に感謝し 御名をほめたたえよ。
主はいつくしみ深く
その恵みはとこしえまで
その真実は代々に至る。
詩篇 100篇1~5節

ここに「感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ」とあります。「その大庭」とは、神様を礼拝するところ、神様との交わりの場を指しています。ですから、この詩篇100篇は、礼拝への招きの歌です。そして、これは私たちが主に礼拝を捧げる時の、一つの型を表しているのです。

今日はこの詩篇から、3つのポイントで見ていきたいと思います。

1. 喜びをもって主を礼拝する

まず第1に、「喜びをもって主を礼拝する」ということです。詩篇100篇では、「喜び」ということが一つのキーワードとなっています。皆さん、「喜び」とは何でしょうか。何か嬉しいことがあったから喜ぶ、思い通りになったから喜ぶというのは当たり前です。しかし、聖書の言う「喜び」とは、もっと深いものです。

「喜び」とは、私たちの心の態度です。「喜び」とは、私たちの内側から泉のように湧き上がるものです。そして私たちは、状況にかかわらず「喜び」を選び取っていくことが出来るのだと、聖書は教えているのです。ピリピ4:4にはこのようにあります。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
ピリピ人への手紙 4章4節

ここでは「喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と、繰り返し、喜ぶことを選ぶようにと命じられています。この手紙を書いたパウロは、この時自ら牢獄の中にいました。置かれた状況だけ考えればとても喜ぶことなど出来ないはずです。でも彼は、同じく試練の中にあるピリピの教会を励ますために「喜びなさい」と命じているのです。それは、パウロ地震が、そのような状況の中においても、心から喜ぶことが出来ていたからなのです。なぜそんなことが可能なのでしょうか。

その根拠は、「主にあって」と言う部分にあります。私たちが、周りの状況にだけ目を向けている限り、必ずしもいつも喜ぶことはできないかもしれません。でも、主にあって、すなわち私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださったイエス様の愛にしっかりと目を向けることによって、私たちは「喜ぶ」ことを選び取ることが出来るのです。

「全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。」とありました。この喜びの声とは、勝利の叫びのことです。暗闇の支配から、神の愛の支配の中へ移された者たちの勝利の叫び、それがこの喜びの声です。私たちは、イエス様の愛を知れば知るほど、状況に左右されず、喜ぶことが出来るのです。

「喜びをもって主に仕えよ」とありますが、この「仕える」という言葉は「礼拝する」という意味でもあります。私たちは、喜びをもって主に仕え、主を礼拝するのです。

また「喜び歌いつつ御前に来たれ」とあります。私たちは、歌いつつ、全身全霊をもってその喜びを表しながら、主を礼拝するようにと招かれているのです。私たちも、喜びをもって主を礼拝する者とさせて頂きたいと思います。

2. 主こそ神であることを知る

第2のことは、「主こそ神であることを知る」ということです。「知れ。主こそ神」とありますが、私たちの礼拝の目的は「主を知ること」です。ヨハネ17:3には、このように書かれています。

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
ヨハネの福音書 17章3節

イエス様がこの世に遣わされたのは、私たちが「永遠のいのち」を持つようになるためです。その「永遠のいのち」とは、父なる神様と御子イエス様とを知り、その永遠の愛の交わりの中に、私たちも生かされるということです。イエス様と父なる神様とは一体ですから、私たちがイエス様を知るということは、父なる神様についても知るということになります。それはこの「永遠のいのち」について、体験的に知るということです。ですから、「知れ、主こそ神」とは、私たちにとって、とても大切な問題なのです。

「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた」
主は、私たちの造り主であって、私たちのことを一番よく知っておられるお方です。

「私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊」
主は、私たち一人ひとりの名前を呼んでくださるお方です。主は私たちを捜し、私たちを愛し、私たちを最も良い場所に導いて、どんな時にも養ってくださるお方です。

私たちは、礼拝を通して、このお方のことをもっとよく知るのです。またこのお方を知っているからこそ、さらに「喜び」をもって主に仕えることが出来るのです。

知れ。主こそ神。私たちは、主に飢え渇いて、もっともっと主を知ることを求めていきたいと思います。

3. 感謝のいけにえを主にささげる

第3のことは、「感謝のいけにえを主にささげる」ということです。聖書を見ると、詩篇100篇にはタイトルが付けられていて、「感謝の賛歌」または「感謝のいけにえの賛歌」とあるのです。なぜ、「感謝のいけにえ」なのでしょうか。

「感謝のいけにえ」と言うとき、私は2つの意味があるように思います。

一つ目は、「感謝を表すために、いけにえを捧げる」というものです。「感謝したいことがあるから、主にいけにえを捧げる」ということです。教会には「感謝献金」というものがあります。これは、与えられた恵みに感謝を表すためにささげられるものです。例えば、何かの記念日や、人生の節目に捧げたり、与えられている健康や仕事など、一つ一つの恵みを覚えて、あえて感謝を表すために捧げられるのが「感謝献金」です。これは、全くの自由意志によってささげられるものです。でも多くの方が、あえて主への感謝を表すためにささげておられるというのを知って、御名を崇めています。これは、感謝を表すため、また感謝を覚えるために、捧げられる「いけにえ」だと言うことが出来るでしょう。

二つ目の「感謝のいけにえ」は、「感謝すること自体が、いけにえとなる」という場合のことです。エペソ5:20にはこのようにあります。

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。
エペソ人への手紙 5章20節

私たちは、いつでも、すべてのことについて、感謝するようにと言われています。でも、現実には、どこをどう探しても感謝なんてできない。いや、それ以前に、感謝なんかしたくないと思うようなこともあるのではないでしょうか。でも、そこであえて「感謝することを選び取る」ということ自体、一つの「いけにえ」だと思うのです。

「感謝しつつ 主の門に、賛美しつつ その大庭に入れ」とあります。私たちが、どんな状況にあったとしても、感謝といういけにえ、賛美といういけにえを主にささげていく時、私たちはさらに主の御前に近づいていくことが出来るようになるのです。

使徒の働き16:25-26には、このような素晴らしい奇跡が書かれています。

真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。
使徒の働き 16章25~26節

理不尽な理由で投獄されたパウロとシラスは、獄中で祈り、感謝し、賛美の歌を歌っていました。ほかの囚人たちもそれに聞き入っていたとあります。賛美の歌声の中には、不思議な喜びと平安があるのです。すると突然、大きな地震が起こって、その扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れたとあります。そして、そこからイエス様による救いが力強く証しされ、リバイバルへと繋がっていったのです。これは、驚くべき奇跡です。そして、これは、私たちの人生にも起こりうることなのです。

皆さん、私たちが実際に、主の御前に、大胆に進みゆくことが出来るのは、イエス様の十字架の御業のゆえです。ヘブル10:19-20にはこのようにあります。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
ヘブル人への手紙 10章19~20節

イエス様が私たちのために、十字架の上で血を流してくださり、その御体に神の裁きを受けきってくださった。それゆえに私たちは、開かれた新しい生ける道を通って、大胆に、聖所に入っていくことが出来るのだとあります。私たちが、「感謝のいけにえ」を捧げる根拠は、ここにあります。ありえないほどの恵みを、イエス様は私たちに与えてくださった。だからこそ、私たちはこの方の御業に目を留めて、どんな状況の中にあっても「感謝のいけにえ」を選び取っていくのです。

最後に、エリザ・ヒューイットというクリスチャン女性の話をさせて頂きます。

アメリカのフィラデルフィア州にある大学を主席で卒業した彼女は、ある養護学校の教師になりました。教師として充実した数年間を過ごした後、その学校に少し乱暴で手のかかる男の子が入ってきました。そしてエリザはその男の子の面倒を見ることになります。そんなある日、彼が暴れて投げつけてきた椅子が、運悪くエリザの背中に当たってしまったのです。彼女は脊椎を損傷し、そこから長い闘病生活を余儀なくされてしまいました。病床に伏しながら自分の身に起こったことを考えるにつけ、彼女の心には少年に対する怒りと憎しみの感情が膨らんでいきました。「私はなぜこんな身になってしまったんだろう。なぜ神様は、こんな苦しみを私に与えられたのだろう」と思い悩み、悲しみと嘆きの涙の果てに、彼女の信仰も弱っていってしまいました。

そんなエリザの病室に、毎日掃除に来る黒人のおばさんがいました。来る日も来る日も、彼女は掃除をしながらいつも感謝にあふれて讃美をし、笑顔が絶えません。しかし、心身ともに弱っているエリザは、彼女のその鼻歌にイライラしていました。そして、「少し静かにしてくれない?私はそっとしておいて欲しいの」と思わず言ってしまいました。するとこの黒人の女性は言うのです。「ごめんなさい。でも、悲しみや嘆きを賛美に変える力を、イエス様がくださるの。」その夜、エリザはこの黒人女性のことばを思い返していると涙が出てきて、自然と悔い改めの祈りを神様にささげていたのです。そして、その時のことを思い起こしながら、彼女の中からあふれてきた詩から生まれたのが、あの「歌いつつ歩まん」という聖歌なのです。

歌いつつ歩まん

主にすがるわれに 悩みはなし
十字架のみもとに 荷を下ろせば
歌いつつ歩まん ハレルヤ! ハレルヤ! 
歌いつつ歩まん この世の旅路を

恐れは変わりて 祈りとなり
嘆きは変わりて 歌となりぬ
歌いつつ歩まん ハレルヤ! ハレルヤ! 
歌いつつ歩まん この世の旅路を

主はいと優しく われと語り
乏しき時には 満たし給う
歌いつつ歩まん ハレルヤ! ハレルヤ!
歌いつつ歩まん この世の旅路を

主の御約束に 変わりはなし
みもとに行くまで 支え給わん
歌いつつ歩まん ハレルヤ! ハレルヤ!
歌いつつ歩まん この世の旅路を

素晴らしい、信仰の告白であり、神への讃美です。脊椎を損傷し、怒りや嘆きに支配されていた彼女でした。でも、あの黒人女性の讃美する姿と、そのことばを通して、自らも神を讃美する者へと変えられていったのです。

私たちが、理不尽な状況に置かれた時、考えてみても、そのすべての意味は分からないかも知れません。でも、そのような時こそ、その目を主に向け、感謝と賛美をささげようではありませんか。

皆さん。神様は、私たちが、すべてのことにおいて感謝を選び取ることを望んでおられるのです。そして、主を喜び、感謝し、讃美することを選びとるなら、イエス様の流された血潮によって、大胆に主に近づき、神様ご自身を体験的に知ることが出来るようになるのです。それが私たちの礼拝です。

これは、霊的な戦いです。それは、私たちだけでなく、周りの人にも影響を与えます。私たちが、日常の生活の中においても、感謝と讃美を捧げ、主とともに歩んでいるなら、私たちの周りの人たちにも、天からの励ましを与えることになるのです。ともに主を見上げて、喜び歌いつつ、主とともに歩む者とならせて頂きましょう。お祈りをいたします。

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