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2023年10月22日 テモテの生涯から学ぶ(5)〜再び燃え立たせる〜

2023年10月22日 テモテの生涯から学ぶ(5)〜再び燃え立たせる〜
テモテへの手紙 第二 1章3〜8節 佐藤賢二 牧師

今日は「テモテの生涯から学ぶ」というシリーズの5回目、「再び燃え立たせる」というテーマで学んでいきたいと思います。今回がこのシリーズの最終回となります。ともに主に期待しつつ、御言葉に耳を傾けていきたいと思います。まず、今日のみことばをお読みいたします。第2テモテ1:3-8です。

私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし、先祖がしてきたように、私もきよい良心をもって仕えている神に感謝しています。私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。
そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。
ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
テモテへの手紙 第二 1章3~8節

前回お話ししたように、このテモテへの手紙第2というのは、獄中にいるパウロが、自らの殉教の死を覚悟した中で、最後に我が子のように愛していたテモテに宛てて書いた手紙です。テモテは、誰よりも長い期間、パウロとともに、福音のために労してきた同労者です。パウロが自らの終わりを見据えた時に、祈りの中でいつも思い起こすのが、愛するテモテのことでした。きっと、少し気弱なところのあるテモテに対しての親心もあったことでしょう。パウロはそのテモテに対して、ここでとても力強い、励ましの言葉を書いているのです。そして、それはそのまま、今を生きる私たちへの励ましでもあります。

今日は、この箇所から3つのポイントで見ていきたいと思います。

1. 涙の意味

まず第1のポイントは、「涙の意味」についてです。もう一度、2テモテ1:4をお読みします。

私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。
テモテへの手紙 第二 1章4節

なぜパウロは、こういう言い方をしているのでしょうか。なぜ、かつてテモテが流した「涙」が、今のパウロの喜びとなるのでしょうか。まず、このことについて考えてみたいと思います。

少し調べてみると、多くの人はここで言う「テモテの涙」とは、テモテがパウロと離れてエペソに留まることになった時に流した、別れの「涙」のことを指すのだと解釈しているようでした。確かに、テモテという人物は、少し臆病で軟弱な感じがしますので、パウロとの別れ際に「涙」を見せていたということはあると思います。でも私には、ここでパウロがわざわざそんなことを書いているようには思えませんでした。パウロはただ単に、泣き虫のテモテが心配で心配で、もう一度会って「ああ良かった」と喜んでいる姿を見たい、そんなことのためにこの文章を書いたのでしょうか。私は、そうではないと思うのです。なぜなら、新約聖書の他の書簡を見る限り、パウロが考える「喜び」も「涙」も、そんな薄っぺらいものではないからです。ではなぜパウロは、「私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたい」と書き送ったのでしょうか。

(1)パウロにとっての「涙」

それを考える上で、パウロがどのように「涙」という言葉を用いているか見てみたいと思います。まず使徒の働き20:17-19をお読みします。

パウロはミレトスからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せた。彼らが集まって来たとき、パウロはこう語った。「あなたがたは、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、いつもどのようにあなたがたと過ごしてきたか、よくご存じです。私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。
使徒の働き 20章17~19節

「私は涙とともに主に仕えてきた」とパウロはここで言っています。これは、第3次宣教旅行中に、御霊に導かれてエルサレムに向かうことを決めたパウロが、エペソの長老たちを呼び寄せて語った、別れの言葉です。ここでパウロは、彼がエペソにおいて、いつもどのように過ごしてきたかを思い起こしなさいと言っています。数々の試練や困難の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに仕えてきた。その姿を思い起こすようにと、語りかけているのです。
パウロは、しばしば「私に倣うものとなりなさい」と語り、自らの生き方が、キリストに従うものの模範となるようにと絶えず意識して生きた人物です。そのパウロがここで、私が「涙とともに仕えてきた」ことを思い起こしなさいと語っているのは、注目に値します。また、続く31節にはこのように書かれています。

ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
使徒の働き 20章31節

パウロはここでも、私が「涙とともに」あなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こしなさいと語っています。こうして見ると、パウロにとって「涙とともに」仕えている姿、福音のために「涙とともに」労苦してきたその姿こそが、彼らに示した一番の模範だったのではないかと思うのです。

また、パウロにとって「涙」とは、まだ主を知らずに歩む人々に対する「痛み」と「悲しみ」を表すものでもありました。ピリピ3:18にはこのように書かれています。

というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
ピリピ人への手紙 3章18節

今も、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる。その事実を語るのに、パウロは「涙ながらに」言わずにはおれなかったんです。そこには、どれほどの「涙の祈り」があったでしょうか。どれほどの「涙の労苦」があったでしょうか。大切な人たちに、この素晴らしい福音を伝えても、一向に響かない、伝わっていかない。そんなもどかしさや不甲斐なさに、パウロは、どれほど涙したことでしょうか。

そしてそれは、イエス様の心そのものだと思うのです。マタイ9:35-36をお読みします。

それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
マタイの福音書 9章35~36節

イエス様は、羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果て、倒れているその群衆の一人ひとりを見て、深くあわれまれたとあります。イエス様は、彼らが神様の愛と出会うことなく、このまま滅びていってしまうと考えると、内臓がキリキリと痛むほどの強い憐れみの感情を、味わってくださったお方なのです。

イエス様は、彼らのことを思って、実際に「涙」を流されたのかも知れません。なぜなら人間は、強い感情を感じると「涙」を流すからです。

イエス様が流された涙。これが、「キリストの心」なのではないでしょうか。
私たちは、キリストのように考え、キリストのように感じ、キリストのように行動するものでありたいと思います。でも、もし私たちが、キリストを信じているのに、行動がともなっていないとしたら、それは、私たちが「キリストのように感じ」ることができていないからなのかも知れません。

(2)私たちには「涙」が欠けている

信じてはいても、感情が伴っていない。そんな時、私たちには、「涙」が欠けているのではないでしょうか。失われた魂のために、「涙の祈り」をささげる。いや、祈り始めても、初めは心がパサパサとしていて涙の一つも出てこないかも知れない。それでも、忍耐強く祈り続けている中で、聖霊が働かれて、その心を「キリストの悲しみ」で満たしてくださることがあるのです。そこで流される涙は、単なる自己憐憫や、出来ない自分の情けなさに対してのものとは違う、まさに「キリストの涙」とでも言うべきものなのです。そして、そのような思いを持って行う、あらゆる涙の労苦は、キリストの心を反映したものとなるのです。

皆さん。こうして、涙とともに、労苦した働きには、報いがあります。詩篇126:5-6にはこのようにあります。

涙とともに種を蒔く者は
喜び叫びながら刈り取る。
種入れを抱え 泣きながら出て行く者は
束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。
詩篇 126篇5~6節

パウロがなぜ、テモテの涙を覚えている。あなたに会って、喜びに満たされたいと願ったのか。それはテモテが、涙とともに種を蒔くということを、知っている人だったからではないでしょうか。テモテは、パウロと同様に、福音のために、失われた魂のために、涙を流すことが出来る人だった。それは言い換えると、「キリストの心を心として」歩むことが出来る人であったということです。パウロは、テモテがかつて流したあの真実の涙を覚えている。だからこそ、パウロは、このテモテに会って、この世の価値観を超えた喜びに満たされたい。そのように切望したのだと思うのです。

2. 再び燃え立たせるべきもの

第2番目のポイントは、「再び燃え立たせるべきもの」ということについてです。第2テモテ1:6-7をもう一度お読みします。

そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。
テモテへの手紙 第二 1章6~7節

そんな素晴らしいテモテではあったけれども、この時、彼には励ましが必要な状況だったようです。パウロはここで、「臆病の霊」という表現を使っていますが、これはテモテが目の前の現実を見て、恐れ、怖気付いてしまっている兆候があったからだと思います。初めは情熱を持って、福音のために仕えていたけれども、どうしてもうまくいかない。偽教師や、迫害や、不一致や、思うように進んでいかない様々な困難を目の前にして、心が折れそうになってしまっていたのではないかと思うのです。

私たちも同じではないでしょうか。初めは情熱を持って行っていたのに、なかなか結果が出なかったり、あまりにも困難が続くと、心が折れそうになり、いつしか形だけの奉仕になってしまっている。そんな経験がある人も、おられるのではないでしょうか。

だから、パウロは言うのです。あなたのうちに与えられた、神の賜物を再び燃え立たせてください。あなたのうちに与えられた、神の賜物とは何でしょうか。それは、聖霊の神様ご自身のことです。神様は、私たち一人ひとりに、賜物として聖霊を与えてくださっているのです。聖霊なる神様ご自身があなたとともにいて、この働きをなしておられる。あなたは、決して一人でそれを行っているのではない。この聖霊を、あなたのうちで、再び燃え立たせてくださいと言っているのです。

パウロは、ここで聖霊を、「力と愛と慎みの霊」というふうに表現しています。力の霊、愛の霊、慎みの霊とは、なんでしょうか。

まず「力の霊」とは、「福音を宣べ伝えるための力」を与えてくれるものです。使徒1:8にはこうあります。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
使徒の働き 1章8節

私たちは聖霊に満たされる時、力強く主を証しする者へと変えられます。「力の霊」とは、「福音を宣べ伝えるための力」を与えてくれるのです。

次に「愛の霊」とは、「恐れを締め出す勇気」を与えてくれるものです。ヨハネ第一4:18にはこうあります。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。ヨハネの手紙 第一 4章18節

私たちが主の愛に満たされる時、恐れを締め出すことができるとあります。「愛の霊」とは、御心を行うために「恐れを締め出す事ができる勇気」を与えてくれるのです。

では「慎みの霊」とはなんでしょうか。私たちは「慎み」と聞くと、何か「出過ぎたことをしない」という風に感じるのではないでしょうか。でもここで言う「慎みの霊」とは、そういう事ではありません。それは、福音のために、「自分自身を正しくコントロールする事ができる力」の事なのです。

コリント第一9:19にはこのようにあります。

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。
コリント人への手紙 第一 9章19節

パウロは、自分は自由だからこそ、すべての人の奴隷になることを選ぶのだと言いました。そしてパウロはこの前後の箇所で、私はもし人をつまずかせるような事になるのなら、今後一切肉を食べません。私はユダヤ人にはユダヤ人のようになり、異邦人には異邦人のようになります。賞を得られるような走り方をするために、あらゆることに節制し、宣べ伝えている自分自身が失格者とならないように、自分自身を打ち叩いて従わせますと語っているのです。

ですから「慎みの霊」というのは、「臆病の霊」の正反対にあるものです。むしろそれは、より多くの人を獲得するために、自分は何にでもなれるという、一皮剥けた自由を与えてくれるものだと思うのです。

では、どのようにして、この「神の賜物」を再び燃え立たせる事が出来るのでしょうか。その一つの方法が、先ほど申し上げたように、魂のために「涙」を流すことだと思うのです。

テモテはそれを知っている、いや少なくとも、かつては知っていた人物です。だからこそ、パウロは「それを再び燃え立たせてください」と、彼に思い起こさせることが一番の励ましだと考えたのだと思うのです。

今、私たちも、もう一度、燃え立たせたいと思います。祈りの中で、涙の祈りの中で、主は必ず触れてくださいます。そして、神様が滅びゆく魂をどのように見ておられるのか、その情熱をいただくことが出来るように、求めていきたいと思います。

3. 福音のために苦しみをともにする

最後に3番目のポイントを短くお話しします。それは「福音のために苦しみをともにする」という事です。第2テモテ1:8でパウロはこのように言っています。

ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
テモテへの手紙 第二 1章8節

パウロが求めていたのは、神の力によって、福音のために、パウロと苦しみをともにすることができる人物でした。パウロはこの後にも繰り返しこのように言っています。第2テモテ2:3です。

キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。
テモテへの手紙 第二 2章3節

私たちは、キリストのために、福音のために、苦しみをともにする事が出来る仲間が必要です。それは決して、傷を舐め合うためではありません。そうではなく、主の働きに必ず伴うこの苦しみを理解しながら、互いに祈り合い、励まし合える同労者の存在なしに、この働きは決して続けることが出来ないからです。

皆さんご存知でしょうか。「薪というのは、一本では燃えない」のだそうです。たまたまインターネットで見つけた、ソロキャンプについてのサイトにこんなことが書かれていました。興味深かったので、それをそのまま引用してみたいと思います。

”薪は、1本では燃えない”
薪をバーナーであぶってみてください。火が着いたかなと思っても、バーナーを消すと火は小さくなり、やがて消えてしまいます。 焚き火の炎は、それぞれ異なった段階(蒸発、ガス、熾き)の薪を共存させることで維持しています。うまく燃やすには、薪を2本並べます。薪は互いに熱エネルギーを与え合うことで激しく燃え上がります。人も同じなのではないでしょうか。

最後に、わざわざ「人も同じなのではないでしょうか」と書いてあるのに、心が留まります。

イエス様は、私たちが、二人でも三人でも、主の名によって集まっているところには、私もそこにいると言われました。そしてどんなことでも、あなたがたのうち二人が心を一つにして祈るなら、天の父はそれをかなえてくださると言われたのです。

皆さん。福音のために苦しみをともにする事ができるお互いと、なろうではありませんか。そのようにして、私たちのうちにある聖霊の炎を再び燃え上がらせて、力と、愛と、慎みの霊によって、この地に、神の国が広げられていくのを、ともに見たいと思います。
お祈りします。

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