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2023年6月18日 永遠の神が人となる

2023年6月18日 永遠の神が人となる
ピリピ人への手紙 2章6〜11節 池田 博 牧師

この度、父の日の礼拝メッセージの依頼を頂きました。私としましては、久しぶりの礼拝の講壇の奉仕です。感謝しつつもやや緊張もしております。改めてこれ迄を、ふり返りますと、私は主任であった時、どれほど、牧会者チームの皆さんに支えられたことか、また、その背後でどれだけ、アブラハム世代の皆さん中心に祈りと共に多くの痛みや、苦難を共有し、また牧会の喜びも味わったことでしよう。やがて、牧会50年を機に、次期リーダーの皆さんに安心して委ねる事が出来た事も大きな恵みです。主を崇めています。コロナが過ぎつつある中で、教会はこの所、新しく礼拝に加えられる人が多く、特に、色々な外国の方々も一つとなって主を喜び、崇める中で、御国の礼拝を思わされております。多くの宣教師の方が送られていることも感謝です。

「父の日」の礼拝メッセージの依頼を受けた時、丁度通読していたピリピ人への手紙から~私は「主イエスのご生涯」を深く思わされていました。そこから「永遠の神が人となる!」と言う事実にわたしは新たなる感動に包まれていました。さて、メッセージに入る前に、前もって、お伝えしておきたい事があります。まず、本郷台にある教会は主の教会であり、かしらはイエスキリストである。と、いうことを確認しておきます。メッセージの中に人の名前が沢山出てまいりますが、すべて主がご自身の体なる教会を建てる上でどの人も、みな、主のからだである教会の器官であるということです。そのために、教会に与えらてれいるみ言葉は、マタイ9章35節、36節です。

それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

ここで心留めるべき事は、主ご自身が、町々、村々に、出て行かれ、そして愛と憐れみの心を惜しみなく、注いでおられることです。主は、本郷台にこのみ言葉を与えて下さいました。さて、今日導かれたメッセージのみ言葉をお読みします。ピリピ人への手紙2章6節から11節までです。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。2:10それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス。キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

このみ言葉は、特に、イエスキリストのご存在を知るうえでとても大事なみ言葉です。まず、最初に心留まった2章6節を読みます。

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず」と、あります。この所で、まず、目を留めたいのは出だしの、「キリストは神の御姿であられるのに」というところです。ここは、別訳では、「キリストは、神ご自身であられるのに」となっています。皆さん、私たちは言うまでもなく、三位一体の神を信じています。ですから、イエスキリストは、神の御子でありながら、同時に、神ご自身でもある、ということを信じています。即ち、キリストは創造神でもあるということです。しかし、その創造神であられるキリストが、「神としてのあり方を捨てられないとは考えず、」とあるのです。ここでの「捨てる」と言う表現が強く心に留まります。捨てるとはその立場を「まったく失う」事です。この様なことは、神にとっては本来あり得ないことです。ところが、イエスキリストは敢えて、神であることを捨てて、人となられたのです。驚くべき奇蹟の行動です。全知全能なお方が、罪深く、滅ぼされて当然な人間の姿になることはどれほどのことでしよう。しかし、人類の贖いのわざはそうする以外になかったのです。永遠の神が人間になられる経緯について、ルカの福音書はこのように記しています。ルカの福音書、2章6節、7節です。

ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

イエスキリストはこうしてマリアの胎を借りて、人となられました。実は、この所で、私は、神に対して、「大きな問い」があります。神が人となられて、十字架で、人類の罪の贖いを完成することが目的であるならすでに、成人した人間として、この世界に降臨することも可能であったはずです。なぜなら、最初の人間アダムはその様に創造された。とあるからです。創世記1:27です。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

最初の人間、アダムは成人の人間として創造されました。ですから、イエスキリストも、仮に公生涯に立たれた30歳のイエスキリストとして、この世界に来られ、存在する事も出来たはずです。そうすれば、あとで、触れる、弱さ、危険、試み、などとは一切無関係に、人として、神の権威に立つ事が出来ました。その上で、公生涯の3年半を歩み、そこで十字架の贖いは十分全う出来たはずです。ところが、神が人となられた時、イエスキリストは、敢えて、多くの危険と、弱さを通って、人間として、最も低いところから誕生された。そのため、マリアの胎を借りて聖霊により、身ごもったのです。しかも、その誕生は、なぜか、王宮ではない、敢えて、家畜小屋の飼い葉桶であったのです。これ以上ない、低い、卑しいところからの始まりを選んでおられるのです。その上、生まれて間もなく、ヘロデ王の殺害の危機にもさらされ、エジプトに逃れ、洞穴で、危機をしのいだのです。エジプトに行きますと、その遺跡が残されています。じめっとした薄暗い洞穴があります。私はその遺跡を見て、思わず涙がこぼれました。やがて、イエスは両親と共に郷里ナザレに退き、公生涯に入るまでの30年間、人知れず、世の人、地上の生身の人間として暮しておられるのです。そのことが私のこころを捕えているのです。それについて、ピリピ2章にこの様に記されています。ピリピ2:7、8節です。

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

まず、7節、イエスキリストはしもべの姿をとり、とは、奴隷の様なという事です。イエスキリストは、本来的に、神の全知、全能、また偏在、そうした特権を持っていましたが、それら一切の栄光を中断したのです。中断して、低い、最も低いところに身を置いて、仕えられたのです。まさに罪深い罪人の姿です。

次に「人間と同じようになられました。」とあります。ここで大事な事は、「人間と同じようになられた。」ということの意味です。罪を他にして、イエスキリストは私達人間と全く同じになられた。だからこそ、十字架の贖いの効力が生まれたのです。罪のない、潔い、イエスキリストが人となられたから、初めて、十字架の贖いの死に効力があり、人類の救いが全うされたのです。そのため、イエスキリストは人間として、最も低い家畜の飼い葉桶に生まれ、貧しいナザレの村で育ち、物心つく頃から、決して頑強と言えない父ヨセフの大工の仕事を手伝い、ヨセフ家の生業を支えたのです。やがて、父ヨセフは早世していきます。そのため、貧しい中で、生まれて来た兄弟たち少なくても6人と、母マリアと、イエスを入れて8人家族を、家業の大工の仕事を生業に、イエスキリストは、長男として、必死に家族を支えました。それがどれほどの、厳しい、犠牲的生活であったか、想像に余りあります。しかし、その辛さ、厳しさについては、聖書は、何一つ記録として残していません。わずかに12歳の時の賢い姿のイエスの事が残されているだけで、イエスの公生涯に至る30年は、全く埋もれて、公けにはされてはいません。皆さん、私たちが知るイエスキリストの生きた働きは3年半の公生涯に限られています。そこでのイエスは、神にしかできない癒しや奇蹟を行ない、神のみ子としての権威をユダヤ人の間に明確に現わしました。しかし、正にそのことで、イエスキリストは「自分を神とした」という神冒涜罪で、死刑の判決が下されたのです。このことから、私たちの罪の身代わりの贖いが全うされたのです。しかし、皆さん、その裏側でイエスキリストの隠れた30年の、生涯があるのです。それがイエスの仕える、しもべの姿なのです。

実は私にとってこのイエスキリストの30年のしもべの姿こそ、献身のモデルであり、献身の証しです。このことから、私のキリストに従う献身の姿勢は、出来上がった教会、整った教会、即ち、会堂もあり、経済も自立できている様な安定した教会で奉仕するのではなく、出来る限り0に近いところから開拓伝道を始めたい。それこそが、自分にとっては主イエスに従う道!と、願わされたのです。それを考えた時、私の最初、導かれ、救われた教会の所属した団体は、監督制度、任命制度であったので、その様な個人の願いは受け入れられません。そこで、私は救いに導かれ、大変お世話になって、心苦しかったのですが、本郷善次郎先生に辞任のお願いをし、了解を頂いて、柴又キリスト教会の所属している教団を敢えて辞して、別な神学校で聴講生として学びつつ、開拓伝道の導きを祈り待ち望んだのです。

そこから、導かれたのが、本郷福音キリスト教会であったのです。赴任したのが1969年1月1日でした。32歳の時でした。導かれた時は、1 0人ほど集っていた開拓途上のお風呂屋教会でした。そこで最初、出会ったのが森登と言う開拓精神を持った兄弟でした。当時兄弟の所属したリーベンゼラ宣教団の方針は教会がある程度自給できるところまで、宣教師を何期も派遣して、自給一歩手前まで整え、そこから日本人牧師を招くと言う方針でした。しかし、森兄弟はその方針を断って、宣教師を一期3年だけで断り、日本人牧師を招いたのでした。兄弟の開拓精神からでした。その白羽の矢は、神学校で聴講し、そんなことは知る由もなく、ひたすら開拓を目指して祈っていた、青年献身者に当たったのです。まさに、それが主の答であり、導きでした。そうなると、宣教団の牧師支援が無くなるのです。文字通り開拓伝道になったのです。

もう一人はそこにおられた信仰と祈りの勇者、後に用いられる本多行恵姉妹でした。そこに、主の配材のくすしさを深く覚えます。わたしは、そこから、数人の兄弟姉妹と共に開拓伝道をスタート致しました。そこは古い借家の建物、外から見れば、一見お風呂屋に見えますが、教会らしさは全くありません。

私は、中古のバイクを買って、団体から安いトラクトを3千枚を購入して、毎朝、100枚持って、あたり一帯を配布しました、やがて、公田から大分遠かった今のダイヤモンドチャペルの近く飯島団地にも、何日も何日もかけて、配布しました。このことも不思議でした。主の導きです。そのあとは訪問伝道、春と秋の特伝をしました。すると年の暮れ、クリスマスまでに、5人の受洗者与えられ、大いに喜び、感謝しました。その結果、私は、さらに伝道の意欲が燃やされ、2年目以降の伝道計画を立てました。それが私の0に近い開拓からの、やればできる、サクセスストーリーでした。

しかし、それは、主の深いはかりごとを知らない、あまりに早計な私の肉の計画である事を知らされて行くのです。この時から、主の私への、本格的取り扱いが始まったのです。主の真実の取り扱いです。私の伝道計画は2年目以降、1年目の祝福は全くありません。全てが、うって変わりました。蒔いた種は必ず生える、打てば、響き、笛吹けば踊り、教会は形成されて行く。そんな、私の、目先しか見えない、肉的、近視眼的計画、サクセスストーリーが、取り扱われて行ったのです。私は、1年目と同じように、どんなにトラクトを配っても、特伝を開いても、何故か、人は殆ど残らず、救われる人はほとんどなく、それこそ笛吹けども踊らずになって行ったのです。それが2年、3年と続き、さらに、4年目となって行ったのです。やがて、私の伝道への意欲は、日々意気消沈へと吸い込まれる事となって行きました。

そんな中、4年目に、決定的出来事が起こりました。特伝で一人の有望な青年が救われました。洗礼決心もし、学びが始まり、やがて、来週の日曜日、洗礼式ということになりました。教会あげて喜び、準備をしました。その週の水曜日の夜でした。その青年から電話が入りました。私は、電話で弾んだ声で、「兄弟よかったね、いよいよだね、嬉しいよ。」と、声を掛けました。すると返って来た彼の声は重く沈んでいました。「先生、その洗礼式ですが取りやめにしてください…え~、どうした?何があった?…先生、聞かないでください、先生、僕は来週から教会に行きません、ガチャ一瞬私はハンマーで頭を思い切り、叩かれました…頭の中が真っ白になってしまい、思考回路がブツンと切れてしまったのです。

日曜日の朝、信徒は朝早くから教会に来て、洗礼式の準備を始めようとしました。私は、その兄弟姉妹たちに、重い低い声で、洗礼式なしになりましたと、言うのが精一杯でした…やがて、そのハンマーは、私の、牧師として召された、主への献身も、打ちのめされて行ったのです。家内は黙って、静かに主の前の執り成してくれていました。追い詰められた私は、数週間後の、礼拝メッセージの後、講壇の前に立ちました。そして、10数人の皆さんの前に、申し上げました。

「私は、主から献身の召しを頂いて、牧師としてここに、遣わされて参りました。しかし、今、私は、この教会の、牧師として失格者であることが分かりました。今日限り牧師を辞任させて下さい…これからのことは皆さんで話し合ってください…」

そう言って座りました。突然の宣言に、皆さんはただただ茫然としていました。沈黙が続きました…重い、重い空気が教会中に漂いました…すると…やがて、一人の老姉妹が立ち上がりました。信仰の人、祈りの人、本多姉妹でした・・・姉妹は、おもむろに、ロを開いて言われました。

「先生…先生は…まだ、まだ、お若いんです・・・これからです・・・私たちは先生にどこまでも、ついて行きます。先生は必ずできます…私たちは先生のため祈ります…先生、頑張って下さい…よろしくお願い致します。」

姉妹は、ゆっくりゆっくり、一言一言、噛んで含める様に、話された…するとどうでしよう…それを聞いている、わたしは…いつしか、その声は、それは、もう、本多さんではなく、主の声・・天からの声として響いて来たのです・。不思議でした・・・そして私は、その天の声によって、「生まれ変わったのです。」新しくされたのです。晴れやかになったのです…そこで、私の口から… 「分かりました…これから、よろしくお願いします…」自分でも信じられない、言葉が出てきたのです…そして、わたし、池田博の、どん底から、這い上がる道が開かれて行ったのです。するとどうでしよう、一新された私の心に、次々と、それまで考えもしなかった、アイデアが、生まれて来たのです。

その中心が、「廃品回収を用いての伝道の道」でした。それは、イエス様の、あの30年の沈黙の意味と、低さと弱さに仕える道が肌身に沁みたのでした。まさに、これこそが、私が通るべき道、己に死んで、主によって生きる、信仰の道十字架の道でした。こうして、私は、主の取り扱いによって、牧者として、一新されたのでした。主は、まことに真実なお方です。この時から、私が、まず、したことは、廃品回収業の会社を探すことでした。見つけて飛び込んで、牧師として雇って下さい。と直談判しました。すると、社長は、言いました。「この仕事は、牧師が片手間で出来るような生易しい仕事ではないぞ! 甘く見るな。」と。ー喝されました。しかし、不思議でした。腹が座っていました。引き下がりませんでした。社長は、ついに、変わり種が一人ぐらい居てもいいだろうと雇ってくれました。ところが一方、教団の責任ある理事たちからは、わざわざ、遠いところを訪ねて来られ、「池田先生、牧師がそんな、くずやの様な、低い仕事はすべきではありません。もっと牧師らしい仕事があるはずです。それを探して、頑張って下さい」と、忠告を受けました。なるほど、立場上、やむを得なかったのでしよう!しかし、私は確信に立っていたので、引き取って頂き、自らの確信に立って進みました。勿論信徒の皆さんからも、心配の声は上がりました、しかし、信仰の確信の証しであったので、祈って送り出してくださいました。1973年7月1日、主日礼拝で、皆さんで祈って派遣して下さいました。

翌月曜日からトラックに乗って、讃美歌を流して、仕事を始めたのです・・こうして開かれた廃品回収伝道の道、そこで先ず、気づかされたのは讃美歌の多大な効果でした。当時折よく、讃美歌のカセットテープが売り出されたのです。この讚美歌こそ、伝道の武器になりました。トラックから、町中に、讃美歌が流れたのです。大勢の人が驚きつつ、手を挙げて、止めてくれました。そこで丁寧に証しをしました。間もなく、家内が言いました。わたしにも手伝わせて下さい。私は、ビックリしました。子供がまだ3歳と1歳だったからです。家内の信仰の力は不思議でした。道を開き、狭いトラックの中に、工夫をして、一家そろっての、仕事と伝道の道が開かれたのです。二人の子供達も協力してくれました。朝、8時前から、橋のたもとで、仕事の準備をしていた所、保育園の園長の目に留まり、やがて二人の子供はその保育園に預かってもらえる様になり、品沢姉妹とも出会うことになり、主の導きの手の確かさに、御名を崇めました。

次に用いたのがトラクトです。新聞を出して下さる一人一人に配りました。皆さんが後でゆっくり読ませて頂きますと丁寧に、受け取って下さいました。以前、教会からトラクト配布をした時、多くは拒絶され、捨てられもしました。この違いから、トラクト一枚、どの心で配るのかが問われているのだと知らされました。知らず知らずのうちに、自分は良いこと、正しい事をしているという上からの目線で、手渡していたのだと、気づかされたのです。十数人の小さな教会は1年後には自立、自給の教会になりました。さらに、4年後には平和台チャベルが完成し、献堂式を迎える事が出来ました。1977年9月11日でした。

出来上がった平和台チャベルは、フル稼働で用いられました。子供集会、映画会、バザー、更に地域のお母さんたちの要望で、まだ近所に図書館がなかったので、毎週火曜日の午後は地域のお母さんと子供達に、図書館として開放しました。やがて近くに本格的図書館が出来て行きました。ここから、主のご計画、地域に仕える働きが始まりました。地域の皆さんと知り合いになることで、ある時、地域のお母さんたちが訪ねて来て、小学校のPTA会長を依頼されました。3年間会長をさせて頂きました。おかげで、地域の市会議員や、連合町内会長方との関係がぐんと増えました。それが終わったら今度は民生委員をお願いしますと頼まれました。これも、御心と受け止め、引き受けました。こちらは3期9年間致しました。貧困家庭、崩壊寸前の家庭など問題家庭を多く知ることになって行きました。これらは、いずれも、イエス様のナザレでの、仕えるしもべの働きです。これらの働きを通して、地域に仕える働きの基礎固めが出来て行きました。

やがて平和台チャベルは、4回礼拝、となって行き祝されて行きました。すると、それまでは、平和台の皆さんは教会を喜んで大歓迎であったのですが、ある時から、ここは住宅街ですので、あまり大勢の出入りは困ります、ということになってしまいました。このことから、私は、教会が置かれて、地域に対して、もっと広く仕える働きがあるはずと言うことから、そのことに、関心とビジョンを持つ、牧師や、信徒にも入って頂き、月一度のビジョン委員会を開くことにしました。千葉先生、相鉄の副社長、岡兄弟、そのほかのビジョンを持つ方々に、入って頂きました。

するとある時、相鉄の副社長の岡兄弟が、良い物件が会社の不動産部に入ってきましたと提案をしてくださいました。それがのちのダイヤモンドチャペルです。驚きの提案でした。経済からすれば大冒険です。しかし、どうでしよう、やがて、ダイヤモンドチャペルへの道が開かれて行ったのです。経済的には一大決断が求められましたが、ここにも岡さんが、関わって下さり、信用金庫が、信用貸しをしてくださった。それで教会は大きく前進して行ったのです。ですから、全ては、神よりの宝の贈り物でした。0からの開拓教会にとって、借財こそ、信用と祝福の変革をもたらす。大きな宝であることの証しとなって行ったのです。

こうして、一歩一歩、一段一段、主の前に牧者として、また、主のご計画の教会への道が、開かれて行ったのです。ー大冒険でありますが、しかし、そこにこそ、天の窓が開かれて行ったのです。主のみからだなる教会のかしら(頭)はイエスキリストです。

「イエスキリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」ヘブル 13:8 

お祈りします。

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