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2023年6月11日 愛に生きる私たちの十戒(6)〜父と母を敬う〜

2023年6月11日 愛に生きる私たちの十戒(6)〜父と母を敬う〜
出エジプト記 20章12節 佐藤賢二 牧師

「愛に生きる私たちの十戒」というシリーズの第6回目です。今日は「父と母を敬う」というテーマでメッセージを取り継がせていただきますが、ここで、ちょうど一つの区切りですので、今までのメッセージを簡単に振り返ってみたいと思います。

イエス様は最も大切な戒めとして「神を愛する」ことと、「隣人を愛する」ということをあげられました。これは、十戒をはじめとする律法を要約したものと言うことができます。

十戒は「二つの石の板」に記されました。そして一般的には、1枚目の板には「神を愛する」ことについての戒め、2枚目の板には「隣人を愛する」ことについての戒めが、書かれていたと言われています。

「神を愛する」ことについての戒めというのは、十戒の第1戒から4戒までのことであり、「隣人を愛する」ことについての戒めとは、第6戒から第10戒までのことです。(諸説あります)

先週まで、私たちはこの1枚目の石の板に記されてきたこと、すなわち第1戒から4戒までの「神を愛する」ことについての戒めを見てきましたが、それを少しまとめてみたいと思います。

まず第1戒では、神を神とすること、すなわち「まことの神のみを愛するという決意」が必要だと申し上げました。私たちを愛し、救い出してくださった唯一の神を愛することが、すべての教えの中心にあります。

第2戒では、「ねたむ神の愛に応える」ということを学びました。神様が私たちをねたむほどに愛してくださっているので、私たちは、いかなる偶像も造ってはならないのだということでした。

第3戒では、私たちは「御名をあがめる生き方」が求められているということを学びました。私たちは聖霊の宮であり、私たちの言葉も行いも全てが主を礼拝するものとなるようにというチャレンジが与えられました。

そして先週、第4戒では、主に信頼して「安息日の恵み」を受け取るということの大切さについて語られました。週のうち1日を聖なるものとして特別に取り扱うこと、そしてキリストのもとで本当の安らぎを得る重要性について学びました。

私たちは、これらの戒めを通して、もっと「神を愛する」者とさせて頂きたいと思うのです。

さて、今日からはいよいよ、2枚目の石の板、「隣人を愛する」ということについて見ていきます。そして、その隣人との関係についての教えの第1番目に来るのが「父と母を敬え」という教えなのです。聖書をお読みしましょう。出エジプト記20:12です。

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
出エジプト記 20章12節

今日はこの箇所から3つのポイントで、話をしていきたいと思います。

1. 約束の地に入るための整え

第1番目のポイントは、「約束の地に入るための整え」ということです。実はこの第5戒の教えは、十戒の中でも唯一、約束をともなった戒めです。申命記5:16には、このように書かれています。

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じたとおりに。それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。
申命記 5章16節

つまり、この戒めを守るならば、「私たちの日々が長く続き」「幸せになる」と約束されているのです。この地上で、私たちが幸せに、長生きをする秘訣があるとすれば、それは「父と母を敬うこと」だと言うことが出来ます。でも、それだけではありません。

この約束をよく見てみると、「あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で、幸せになる」と書かれているんです。「主が、あなたに与えようとしている土地」とは何でしょうか?このことが直接語られたイスラエルの民にとって、それは「約束の地、カナン」のことでした。では私たちにとって、今この時代に、この国に、この場所に置かれている共同体として、私たちが神様から受け取っている「約束の地」とは何でしょうか?それは、ミッション3000であり、10×10です。神様は、私たちの共同体に、そしてこの国に10倍の祝福を与えるとのビジョンを与えてくださっているのです。その約束が主の御手によって実現する時、それが長く続き、幸せになるために、必要なこと。それが、この「父と母を敬う」という戒めなのです。それが、私たちが「約束の地に入るための整え」です。

「父と母を敬え」という教えは、全ての人間関係の基本です。そして、その本質は、「主が定められた秩序に従う」ということです。親の存在というのは、この地上において絶大なものがあります。親というのは、この地上で、神の代理人としての立場が与えられていると言われます。私たちは、親の姿を通して、無意識のうちに、見えない神様のイメージを学んでいくのです。ですから、私たちが「親を敬う」ということを選び取っていくならば、それは同時に「神を敬う」ということにもつながっていく訳です。私たちが、神様に対して「父よ」と呼びかける時、良かれ悪しかれ、無意識のうちに自分の実の父親のイメージが投影されます。ですから、自分は父親との関わりが希薄だったという方は、天のお父さんが自分の人生に関わりを持ってくださるというイメージが抱きにくいかも知れません。また、父親が厳しくていつも怒ってばかりだったという方は、天のお父さんの前に出る時も、何かいつもビクビクしてしまうということがあるかも知れません。これは、もちろん親の側の責任もあります。でも聖書では、いい親だから、尊敬に値する親だから、敬いなさいとは書いていないんです。なぜ、親を敬うのか。それは、「親は親だから敬う」のです。もちろん、従いやすい親、そうでない親、色々いると思います。でも、私たちの側の姿勢としては、主が定められた秩序に従って、それが誰であれ「立てられた権威に従う」ということが、求められているのです。

いや、今更そんなのは無理だ。自分の親との関係は、とても複雑だし、第一もう自分は親とは直接話すことも出来ないという方もおられるでしょう。でも神様は、あなたがどのような状況に置かれていたとしても、その親子の問題に触れてくださり、主による解決の道を与えてくださるのです。旧約聖書の一番最後、マラキ4:5-6にはこのように書かれています。

見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。
マラキ書 4章5~6節

ここに、「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる」とあります。神様ご自身が、親と子の問題を解決するために、働いてくださるのです。そのことを信じていこうではありませんか。ある人にとっては、とてもデリケートで難しい問題かもしれません。向き合いたくないと思うこともあるでしょう。でも、そこには神様の素晴らしい計画があると信じて、共に一歩踏み出していきたいと思うのです。

2. 上に立つ者の責任

第2のポイントは、「上に立つ者の責任」です。先ほど私は、「父と母を敬う」ということの本質は、「主が定められた秩序に従う」ということだと申し上げました。それは、まず従う側の姿勢の問題です。でも、親が神の代理人として権威を持ち、子供を養っていく責任があるのだとしたら、当然、その親の責任というのは、とてつもなく大きいと言わざるを得ません。

親がどのような姿勢で歩んでいるのか。親がどのような姿勢で人と接しているのか。親がどのような姿勢で神を礼拝しているのか。そういったこと全てが、子供たちに大きな影響を与えるからです。エペソ6:1-4にはこのようにあります。

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。
エペソ人への手紙 6章1~4節

これはパウロが十戒の第5戒を引用している箇所です。ここで注目すべきは、子供達に対して「父と母を敬え」と語りかけているのに続けて、親に対しても「父たちよ」と呼びかけがなされていることです。「父たちよ、自分の子どもたちを怒らせてはいけません。」親には、神の代理人としての重要な役割が与えられているにも関わらず、その役割が果たせていないならば、それは「子どもたちを怒らせる」ことになるのだということです。

むしろ、「主の教育と訓戒によって育てなさい」とあります。親として、良い模範になること。親として、子どもたちの行き過ぎた行いに限度を設けること。親として、彼らの思いをしっかりと聞き、尊重し、サポートしてあげること。親として、自分の価値観や思いを一方的に押し付けることをせず、主体性を育むこと。親として、神を愛し、隣人を愛するとはどういうことか、正しく教えること。そういったことに取り組まず、育児を放棄したり、逆に過干渉になることは、子どもたちを怒らせることになるのだということです。その結果子どもたちは、彼らに語られている戒めである「父と母を敬う」ということが、難しくなり、結果として、父なる神をあがめる生活や、地上の権威に従うということに困難を覚えることがあるということです。

私自身、子育ての中で、どれだけ子どもたちの心を踏みにじって、抑圧された「怒り」の感情を植え付けてきてしまったかと思うんです。前にも話したかと思うのですが、私は時々瞬間湯沸かし器のように、声を荒げて怒りを爆発させてしまうことがあるんです。それに自分で気がついた時には、子どもたちに謝ります。でも、私が与えてしまった不必要な傷によって、彼らが神を敬うことができなくなることがないように、ただ、主の憐れみを乞う以外ないのです。

私は、子どもに教えなければならないことは、当然教えなければならないと思います。叱らなければならないことは、叱らなければなりません。でも、もし親が感情をコントロールできないとしたら、どのようにして子どもに感情をコントロールすることを教えることが出来るでしょうか。もし親が間違ったことを悔い改めることが出来なかったら、どのようにして子どもに悔い改めることを教えることが出来るでしょうか。もし親が子供のことを大切な存在として接することが出来なかったら、どうして子どもが親のことを大切な存在として扱ってくれるでしょうか。私たちが子どもに「父と母を敬う」ということを教えるということは、同時に、同じだけのバランスで、私たち自身が教えられなければならないということなのです。

ここで、一つのお話を紹介したいと思います。グリム童話の「年寄りのおじいさんと孫」というお話です。とても分かりやすい、シンプルなお話ですが、色々なことを考えさせられるお話です。お読みします。

昔、とても年をとったおじいさんがいました。目はかすみ、耳は遠くなり、膝はがくがくして、食卓につくと、スプーンをきちんと握ることもできません。だから、いつもスープをテーブル掛けにこぼしてしまったり、口から垂らしてしまったりするのです。おじいさんの息子とその妻は、これにうんざりしていました。結局、年老いたおじいさんは、ストーブの後ろのすみに座らせられることになりました。そして二人は、おじいさんに粗末な土器で食べ物を与えるようになり、それも十分に与えることはありませんでした。それで、おじいさんは目に涙をいっぱい浮かべて、食卓の方をよく見ていました。

あるとき、また手が震えて、きちんと器を握ることができなかったので、器は地面に落ちて壊れてしまいました。若い妻は、怒っておじいさんを叱りました。でも、おじいさんは何も言わないでため息をつくだけでした。それから息子たちは、安くて小さい、動物の餌箱のような木の器を買い、おじいさんにはそれで食べさせることにしました。ある日、気がつくと4歳の小さな孫が、地面の木をいくつか集めて何かを作っています。「お前はそこで何をしてるんだい?」と父親が尋ねました。「僕ね、小さな餌箱を作ってるんだよ。僕が大きくなったら、お父さんとお母さんがそれで食べるんだよ。」と無邪気に子供は答えました。男と妻はしばらくお互いに顔を見合わせていましたが、まもなく泣き始めました。それから二人は、年老いたおじいさんを食卓に連れてきて、一緒に食べさせることにしました。そしてそれからは、おじいさんが何か少しこぼしても、何も言いませんでした。

どうでしょうか。皆さんは、この話を聞いてどんなことを考えたでしょうか。私たちは、流石にこんなにひどい仕打ちをする人はいないかも知れません。でも、切羽詰まった時、余裕がなくなった時、気がついてみたら、親に対してあまりにも愛のない、思いやりのない言動をしてしまっているなんてことはないでしょうか。私たちが、どのように「父と母を敬っているか」が、子どもたちに向けての一番のメッセージなのです。

「あなたの父と母を敬え」という教えは、小さな子どもに向けて語られたというよりも、むしろこのような状況に置かれた、成人した大人に向けて語られた戒めなのです。自分の意志や決断で物事を選ぶことが出来る大人が、自分の親を大切にすることが出来るか。それがまず問われているということなのです。

世の中では、介護で悩んだあげく、行き過ぎた行動をとってしまったという話も度々ニュースを騒がせます。皆さんの身近なところでも、介護で苦しんで疲れ切っておられるという方もいるでしょう。でも、そういう時こそ、「あなたの父と母を敬え」ということばと、どう向き合っていくかが問われるのです。「敬う」というのは、「相手を重要な存在とする」ということです。もし私たちが、本当に親の介護によって自分たちも追い詰められるほどに余裕がない状態になるのだとしたら、それは誰かに助けを求めるべきだと思うのです。親を敬うというのは、決して自分一人で背負いこむことではないからです。そして、介護という大変な部分においては、適切なサポートを得た中で、心に少し余裕を持って、改めて自分に出来る「親を敬う」ということは何か、どうしたら親に「あなたは私にとって重要な存在です」と伝えることが出来るか考えていったら良いと思うのです。その方がよっぽど自分にしか出来ない、心のこもった交流をすることが出来るのではないでしょうか。

3. 教会はこの世界の希望

今日、3つ目のポイントは「教会はこの世界の希望」だということです。私たちは「父と母を敬う」という、難しい問題に、一人で取り組む必要はないんです。教会は神の家族です。自分の育ってきた家族の中では、正しい神様のイメージを描くのが難しいという方もおられるでしょう。でも、私たちは、教会を通して、実の家族関係の回復に向けて取り組むことが出来るようになるのです。

それは、教会にいる人が完璧だからではありません。そうではなく、教会とは、むしろ自分には足りないところがある、神様の助けなしには一瞬たりとも生きていくことが出来ないということを自覚した人たちの集まりだからです。教会の中心には、イエス様がおられます。私たちの、すべての罪をその身に負って、十字架にかかって死んでくださった。その血潮によって、私たちのすべての汚れは、きよめられたのです。私たちは、この方を仰ぎ見るときに、その血潮によって、癒しを受けることが出来るのです。だからこそ、主を礼拝することを通して、天のお父さんとの関係を回復することが出来ます。周りの人々や、権威者との関係を回復することが出来ます。また実の家族との関係も、回復することが出来るのです。教会が、そのような共同体として機能していく時、それ自体、この世界を照らす希望の光となるのです。それは、ここに福音の力がはっきりと表されているからです。

来週は、父の日です。もし、お父さんが存命であるという方は、お父さんに対して何が出来るか考えましょう。そうでない方も、今自分の置かれている立場で、今何が主に求められているのか、しっかりと主に聴いて行動できるように、祈っていきたいと思います。主は約束の通り、私たちを祝福し、その地で幸せを与えてくださいます。その時に、教会を通して、私たちの家族も、この地域も、そしてこの国も祝福されていくように、まず私たち自身が整えられていきたいと思います。この世界は、この「福音の力」を必要としているのです。ともに祈って参りましょう。

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