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2023年6月4日 愛に生きる私たちの十戒(5)〜安息日の恵み〜

2023年6月4日 愛に生きる私たちの十戒(5)〜安息日の恵み〜
出エジプト記 20章7節 佐藤賢二 牧師

今日は「愛に生きる私たちの十戒」というシリーズの第5回目、「安息日の恵み」というタイトルでメッセージを取り継がせていただきます。それではまず、今日のみことばをお読みいたします。出エジプト記20:8-11です。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
出エジプト記 20章8~11節

これが十戒の第4戒の教えとなります。いわゆる「安息日」についての戒めです。ここに「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」とあります。神様は1週間のうち一日を「安息日」と呼び、「聖なるもの」として、つまり特別な目的のために取り分けられました。だから、あなたたちもこの1日を特別に覚えて、聖なるものとして取り扱いなさいと言われるのです。では、この日を「聖なるもの」とするとは、どうすることなのでしょうか。それは、このみことばによれば、「仕事をしないこと」、すなわち「休む」ことだというのです。神様は6日間で天地万物を造られて、7日目に休まれました。だから、あなたがたも6日間働いたら、7日目は休みなさいと言われているのです。

皆さん、休めていますか?「休み」が嫌いな人っていうのは、あまりいないと思います。でも、今の日本社会の中で、実際に「休む」ことに真剣に取り組むことが出来ている人がどれだけいるでしょうか。かく言う私も、正直に言って「休む」ということがなかなか上手に出来てないなと思うんです。まあ、これでも、昔に比べれば随分とマシになってきたと思います。でも、この「休む」ということの大切さを改めて認識するようになったのは、やっぱり自分が体を壊してからなんです。

私は2005年、もう18年も前になりますが、体を壊して3ヶ月間お休みをいただいたことがあります。その当時私は、教会の事務コーディネーターとして働いていました。でも、まだ一般の企業で働いていた時の感覚が抜けきれていなかったのか、少々働き過ぎ、ワーカホリックの傾向があったんです。「働き過ぎ」というのは、もちろん会社や組織に理由がある場合もあるのですが、私の場合、私自身にその傾向が強かったという風に思います。そして、ある時体調を崩してしまい、心療内科にお世話になることになりました。そこで「適応障害」という診断が出されたんです。その時に、その病院の先生にこのように言われたんです。

「佐藤さん。教会で、人を助けたり、誰か他の人のために働くというのは素晴らしい事です。今、無理矢理働き続けるということも出来ます。でも、今こそしっかりと休んで、元気と健康を回復することが出来たら、もっと良い奉仕が出来るようになるのではないでしょうか。」

その事を教会に伝えると、心配いらないから、しっかりと3ヶ月休むようにと言ってくださいました。皆さんには大変ご迷惑をおかけしたと思いますが、たくさんの方々の愛と祈りを感じる時でありました。そして、家で休んでいる私のところに池田博先生ご夫妻が訪問してくださり、次のみことばを開いてくださったんです。詩篇46:10です。

「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
詩篇 46篇10節

私はその時、この言葉の意味があまりよく分かりませんでした。この冒頭の「やめよ」の部分は、英語でBe Still「静まって」という意味ですので、この機会によく静まりなさいというぐらいにしか思っていませんでした。でも、それからしばらくして段々と分かるようになってきたことがあります。主の前に静まるためには、それまでやっていた「自分のわざ」を、一旦完全に中断する必要があるんだということです。私は、神様のための働きとはいえ、自分の力で何とかしてやろうとし過ぎていた。だから、それを一旦委ねて、神様に信頼して休み、神が神であることを知ることが出来るようになる必要がある。だからこの病は、そのために神様から与えられた恵みの時である。そういう事を、池田先生は私に伝えてくださったんだと思います。

皆さん。「やめよ。知れ。わたしこそ神。」とあるように、私たちが「休みなさい」と命じられているのは、その事を通して「神が神であること」を体験するためだと思うのです。私たちは本来7日間のうち1日は、自分のわざをやめて、心身ともに休息を得て、神様から力を回復させていただく必要があるのです。それをしないと、段々と私たちの心や魂は消耗してき、やがて壊れてしまいます。そして、それを回復させるのに、長い時間をかけなければならないなんてことが起こってくるわけです。

ともすると私たちは、活動過多になりがちです。主からのビジョンを頂いて、そこに真剣に祈り取り組んでいる中だからこそ、意欲的にたくさんの活動をしたくなりがちです。それはもちろん悪いことではありません。そしてそれは、すべて良い意図で行なっているし、むしろやらなければならないことばかりです。でも、その一方で、そういう状況だからこそ、この「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という十戒第4戒の戒めをどう受け止めるのかというのは、今を生きる私たちにとって、私たちの教会にとって、とても重要な問題なように思うのです。

どうでしょうか。皆さんは、休めていますか?そして、その休みは、神様を知ることにつながっているでしょうか。私たちは、安息日の規定を、重荷として、律法的に縛られる必要はありません。しかし、それを「神様からの愛の贈り物」として、大切にしていきたいのです。

ですから、今日は、私たちに与えられている「安息日の恵み」を覚えつつ、私たちが具体的に何に取り組むべきなのか、ご一緒に考えていきたいと思います。

1. ユダヤ人にとっての安息日

「安息日」ということを考える上で、まずユダヤ人たちがこの日をどのように捉えているかに目を留めていきたいと思います。なぜなら、彼らは今でも「安息日」を大切に守ってきているからです。

まず、基本的なことですが「安息日」というのは、土曜日です。聖書で言う7日目というのは、日曜日ではなく土曜日なんです。また、イスラエルでは、1日は日没から始まり、日没で終わると考えられていますので、厳密には金曜日の日没から土曜日の日没までが、「安息日」です。そして「安息日には、働いてはいけない」という戒めを、彼らは例の如く、忠実に守ろうとしました。そこで、彼らは「安息日にしてはいけないこと」を39個に分類し、さらにそれぞれに39の項目を記して39×39、つまり1521個の安息日の規定を作成したのです。

今でも敬虔なユダヤ人たちは、この安息日に、お金を使うこととか、火を起こすこと、料理をすること、電気を使うこと、車を運転することなどが禁止されています。だから、イスラエルに行くと、金曜日の日没から土曜日の日没まで、ほとんどのお店はもちろん、公共交通機関や、銀行や、お役所なども完全に閉じてしまうそうです。また、敬虔なユダヤ人たちは、電話も一切使わないそうです。イスラエルに行くと、安息日のユダヤ人用のエレベーターというのがあるそうです。それは、ボタンを押すという「労働」をしなくても済むように、あらかじめ各階に停まることが分かっているエレベーターです。彼らは、金曜日の日没までに、忙しく全ての準備を済ませます。安息日になる前に、必要な電気のスイッチを入れ、食卓を整え、家族みんなで集まります。そして金曜の日没後、祝福のお祈りの後、あらかじめ用意された豪華な食事を家族揃って食べます。この時間は、いつもよりも特別な日であり、家族や親族や友達といっぱい話をして、絆を深め合う時として用いられるんだそうです。

私は今回、ユダヤ人たちの「安息日」の過ごし方を知って、正直に思ったことがあります。それは、「なんだか羨ましいな。」ということです。初めは、あれもしてはいけない、これもしてはいけないということで、とても窮屈そうだと思っていたのですが、だからこそ大切にすべきものを大切に出来んだと考えると、それも魅力的だなと思ったのです。

もちろん、良い面だけでないのはよく分かります。歴史上には、純粋な信仰を土台に文化を立て上げようとしたいくつかの試みがあります。しかし、ほとんどの場合、時代の変化とともに形だけが強調されるようになり、結局律法的に人を縛って、多くの人を傷つけてきてしまったという例が、たくさんあるからです。日本のキリスト教界においても、「礼拝を死守する」ということが素晴らしい美徳とされ、それを通して大切なものを守り抜いてきた人があるのは事実です。しかし、一方で、それが形だけとなり、律法的な響きを持つようになってしまい、結果として多くの人を本物の信仰から遠ざけて来てしまったという現実もあります。それでも、やっぱり大切なものを大切にしようとする姿勢そのものは、私たちは受け継いでいかなければならないと思うのです。

ユダヤ人にはこんな格言があるそうです。「ユダヤ人が安息日を守ってきたのではない。安息日がユダヤ人を守ってきた。」歴史上、ユダヤ民族というのはほとんどの期間、世界中に離散して暮らしてきました。少数民族である彼らは、普通であればそれぞれの地域の文化に飲み込まれて、簡単に消滅してしまってもおかしくなかったのです。でも、その先々で彼らは、この「安息日」を守り、そしてこの「安息日を守ること」で、彼ら自身が守られてきたと言うのです。

私たちが彼らと同じようにすることは出来ないでしょうし、する必要もありません。でも、神様が与えてくださった「安息日の恵み」ということを考える上で、まず、彼らのこの姿勢から学ばされることがあるように思います。周りに流されず、一旦しっかりと仕事の手を休め、神の前に静まり、心身の休息とともに大切な関係を回復させる。これが、「安息日の恵み」を体験するための、秘訣です。

2. 私たちにとっての礼拝の日

さて、先ほど「安息日」というのは、本来土曜日であるとお話ししました。ではなぜ、今私たちは、日曜日を礼拝の日としているのでしょうか。これは、イエス様が復活されたのが、週の初めの日、すなわち日曜日であったことに由来します。クリスチャンたちは、この日を「主の日」と呼んで、特別な礼拝の日としてきたのです。申命記5:15をお読みします。

あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。
申命記 5章15節

ここは、聖書で十戒が書かれているもう一つの箇所です。出エジプト記においては、私たちが安息日を守る根拠は、「神様が7日目を休まれたから」だとありました。しかし申命記では、「自分がかつて奴隷であったこと」と「神様が力強い御手で救ってくださったこと」を覚えるために、安息日を守りなさいと言われているのです。そう考えると、クリスチャンたちが、イエス様の復活以降、週の初めの日である日曜日に礼拝を捧げるようになったのは理にかなっているとも言えます。なぜなら、罪の奴隷だった私たちが、イエス様の十字架と復活によって救われたということを覚えるためには、主が復活された日曜日が最もふさわしいと言えるからです。

しかし、これは別に「安息日」が日曜日に変更されたという意味ではありません。また、何曜日に礼拝するかというのは、それほど大きい問題ではないのです。ローマ14:5にはこのようにあります。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
ローマ人への手紙 14章5節

今の時代、日曜日に休めない人もたくさんいます。でも、少なくとも労働を休むことが出来る日を一日どこかで確保する必要があると思います。それは何曜日でも構いません。でも、意識して1日をどこかで確保するべきです。今は、オンラインででも礼拝を捧げることが出来ます。でも、その場合は余計にその姿勢が問われます。少なくともその礼拝の時間の間は、何かをしながらではなく、きちんと仕事の手を休めて、主の前に出る。そのことを大切にしていきたいと思うのです。

私たちにとっての礼拝の日。それは、神様がどれほどの素晴らしい御わざをもって私たちを導いてくださったのかを覚える日です。少なくとも週に一回、集中して主の前に出る時間を確保できるように、生活を整えていきたいと思います。

3. 本当の安息とは何か

さて、ここまで「働きを中断して休む」ということの大切さ、「ただ休むのでなく、神様との関係や、身近な人たちとの関係を回復する」ということの大切さ、そして「私たちを罪から救い出してくださった主の御業を覚える時を持つ」ことの大切さについて見てきました。でもそれを、律法的に守るというだけでは、主の御心を見失ってしまうということを申し上げました。では、そんなことを気にしないで好き勝手にして良いかというと、私たちの社会の中では、簡単に世の中に流されてしまい、神様から離されていってしまうというのも事実だと思います。

だから週に1度、しっかりと時間を取り分けて、神様の前に出て、礼拝を捧げるというのは私たちに課せられた、戦いだということが出来ます。そして私たちにとって何よりも戦いとなるのが、主のための働きと、主のために休むことのバランスだと思うのです。私たちは、決して投げ出すことが出来ない、主から与えられた大切な働きを担っています。私たちの教会ほど、主から多くを期待され、多くの働きをしている教会は他にないのではないかと思うほどです。そして、それらの働きを支えておられる信徒の皆さんの献身に心から敬意を表します。しかし、自分の働きを中断し、主の前に出るというのは、自分で握りしめているものを手放して、主に信頼するということでもあるのです。

もしあなたが、落ち着いて礼拝を捧げる時間も持てないほど、自分の奉仕や仕事が中心になっているとしたら、それは気をつけなければなりません。もしあなたが、身近な人との関係を楽しんだり、好きな趣味のために適度な時間を使うことにすら罪悪感を感じるようになってしまったら、それは本当に危険な状態です。もしあなたが、どんなに休んでも、心と体の疲れが取れない。そう感じるなら、今すぐにでも生活の中で何かを変えなければならないかも知れません。これは律法とか規則ではありません。神様との愛の関係なのです。マタイ11:28-29にはこうあります。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
マタイの福音書 11章28~29節

私たちは、イエス様のもとに出ることによってしか、本当の安らぎを得ることは出来ません。なぜなら、私たちの心の重荷は、単なる肉体的な疲れや、精神的な疲れによるものではないからです。私たちの心の重荷は、私たち自身と、私たちの社会の中にある、あらゆる人の罪が根本にあるのです。その罪の問題を解決することが出来るのは、イエス様だけです。そしてこのイエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私ものもとに来なさい。」と私たちが、自主的にイエス様のところ行くことを求めておられるんです。何かの働きをすることによって主の前に出るのではありません。ただ、ありのままの状態で、私たちの心と体を、主の前に差し出していくことが必要なのです。

どうでしょうか、皆さん。私たちは、この忙しく、慌ただしい世の中に生きています。教会の働きであっても、いや教会の働きだからこそそのように感じることがあるかも知れません。どうか、「正しく休む」ということに、真剣に取り組んで頂きたいと思います。そして、たましいの安らぎを得るために、1週間のうちでほんの少しの時間、心も体も100%イエス様のもとに出る時間を持っていただきたいのです。それがオンライン礼拝であったとしても、少なくともその時間は、他の何かをしながらではなく、集中して、主の前に出ることを選び取っていただきたい。そうやって、イエス様だけが与えてくださる、たましいの安らぎを受け取って欲しいのです。

私たちは、10×10というビジョンの実現を心から信じています。しかし、それは人のわざによるものではなく、100%神様の御業によるものです。ですから私たちは、休むときには休み、100%主に信頼して、私たちが本当に優先すべきものを優先していきたいと思います。「安息日の恵み」は、あなたにも必ず与えられます。主に信頼していきましょう。

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