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2023年5月28日 聖霊による力

2023年5月28日 聖霊による力
使徒の働き 1章8節 佐藤賢二 牧師

今日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステというのは、イエス様の弟子たちに聖霊が注がれて、新しい時代が始まったことを記念する日です。

聖霊の力によって、弟子たちは造り替えられました。聖霊の力によって、この地上にキリストのからだなる教会が誕生しました。そして聖霊の力によって、素晴らしい神様のわざが前進していきました。イエス様は、私たちにもその同じ聖霊が注がれることを約束してくださっています。信じる者には、聖霊を与えてくださるだけでなく、聖霊で満たしてくださると言っているのです。聖霊というのは、ただの超自然的な力ではありません。聖霊とは、神様ご自身なのです。ですから、聖霊に満たされるというのは、神様ご自身に満たされるということです。神様が私に満ちてくださり、私を用いてくださり、私を通して神様のわざを行わせてくださるということなのです。神様は、あなたにも聖霊を満たしたいと願っておられます。そして、「聖霊の力」によって歩むことが出来るようにと、導いておられるのです。ともに聖霊の御業に期待しつつ、主の御言葉に耳を傾けて参りましょう。

それでは、今日のみことばをお読みいたします。使徒の働き1:8です。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
使徒の働き 1章8節

「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」いいですね。何という、希望に満ちた約束でしょうか。「あなたがたは力を受けます!」とありますが、皆さんだったら、どんな力が欲しいでしょうか。文字通り、筋力とか腕力でしょうか?人を動かすことが出来る、権力でしょうか?それとも何かを行うことが出来る、能力でしょうか?お金で解決できる、経済力でしょうか?それとも、もっと自由に動ける体力でしょうか?

ここには、聖霊によって与えられる力が、どんな種類の力であるかは書いていません。しかし、その力が、何のために与えられるのかが書かれています。その力が与えられる理由。それは、「地の果てまで、イエス様の証人となる」ためだというのです。

1 地の果てまで証人となるための力

今日まず、心に留めたいのは、聖霊によって私たちに与えられる力は、「地の果てまで、イエス様の証人となるための力だ」ということです。

私は高校生の時にアメリカでクリスチャンになりました。そしてアメリカから日本に帰ってくる時に、みんなが寄せ書きのようなものを書いてくれたのです。クリスチャンの友達が多かったので、みんなそこに聖書の御言葉も添えて、私を励ましてくれました。その中で、たくさんの人が、先ほどの使徒の働き1:8を引用してくれたんです。でも、私はこの御言葉が書かれているのを見て、何か非常にモヤモヤッとしたものを感じたんです。なぜだか分かりますか?それは、「地の果て」という部分に対してでした。英語では、The end of the earthですね。私は単純に思ったんです。「日本は、地の果てなんかじゃない!!」「今、自分は日本に帰ろうとしているけど、日本は別に地の果てではない!アメリカ人はいつも、自分たちが世界の中心だと思ってるみたいだけど、僕にとっては、アメリカに住んでいる君たちの方が地の果てだ!」そんな風に感じたんです。まあ、言いませんけどね。

私のイメージする「地の果て」というのは、どちらかと言うと、アフリカの奥地とか、アマゾンの奥地とか、そういう所だと思っていたんです。だから、日本が「地の果て」だと言われることに、非常に抵抗感がありました。・・・まあ、そんな私自身も、無茶苦茶偏見がありますけどね。でも、日本に帰ってからしばらくして、こう思うようになりました。やっぱり、この日本は、本当に「地の果て」なのかも知れない。だって、クリスチャンの数がこんなに少ないのだから。でも、もしそうなのだとしたら、自分は神様によって、その「地の果て」という宣教の最前線に遣わされているということではないか。多くの宣教師たちが、難しい日本語を勉強して、日本に宣教に来てくれている。でも自分には、すでに「日本語」を話すというすごい能力が与えられているではないか。神様は、私にも聖霊を注いでくださり、この「地の果て」である日本において、イエス様の事を伝える力を与えてくださるに違いない。そんな風に思って、少しずつ私の人生をおささげする決心をしてきたんです。

皆さんは、どうでしょうか。「聖霊によって与えられる力」と言うと、何か超自然的な力だとか、特別に人と違う能力のことだと考えるかも知れません。もちろん、そういうものもあります。でも、ほとんどの場合、私たちには、すでに何らかの力が与えられているのです。それが聖霊の力によって、その意味や目的が変えられて、主を証しするために用いられるということなのではないかと思うのです。なぜなら、神様は、私たちが生まれる前から、私たち一人ひとりに特別な計画を持っておられるからです。だから、あなたが今持っている趣味や、能力や、立場、そして経験した試練や弱さなど、それが何であっても、神様の手に握られるなら、主を証しするために用いられるものとなるのです。もちろん、それが用いられるためには、一旦それを手放すとか、きよめられるためのプロセスが必要な場合もあります。それは、聖霊様が導いてくださいます。でも、私たちの人生に、無駄なことなど一つもありません。ですから、私たちの経験した全てが、主を証しするために用いられるように、祈り求めていきたいと思います。

今、あなたには、どんな力が与えられていますか?
今日の午後には「ひろがる、つながる、夢がある。おいでよ教会フェア」が行われます。そこでは、皆さんが、与えられた力を持ち寄って、それぞれが神様のために、イエス様を伝えるために行なっている働きを楽しく紹介し、知り合う機会を持とうとしています。教会に集ったお一人お一人は、興味や関心や能力が全然違うかも知れません。でも、みんなイエス様を愛し、イエス様のためにそれを用いたいと願って、次々といろいろな働きが起こされているのです。音楽も、アートも、スポーツも、その他あらゆる趣味や、ボランティアの援助活動も、すべて聖霊が与えてくださる力によって、宣教のために用いられるようになるのです。そしてあなたも「地の果て」である「日本」という宣教の最前線に、すでに遣わされているのです。私たちの持っているもの全てを、主のみわざのために用いて頂きたいと思います。

2 ペンテコステの出来事

さて、弟子たちに聖霊が注がれるという約束は、実際にはどのようにして実現したのでしょうか。使徒の働き2:1-4をお読みします。

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
使徒の働き 2章1~4節

五旬節というのは、イースターから7週間後、ちょうど50日目のユダヤ人のお祭りです。この祭りには、世界各国に散らばっているたくさんのユダヤ人が、エルサレムに集まってきていました。この日も、弟子たちはある家に集まって、心を一つにして祈っていました。弟子たちは、イエス様から聖霊が注がれるという約束を受け取ってから、毎日心を合わせて主を待ち望んで祈っていたのです。すると突然天から激しい風が吹いたような音がして、炎のような分かれた舌が現れて、一人ひとりの上にとどまりました。そして彼らは、聖霊に満たされて、御霊が語らせるままに、いろんな国の言葉で話し始めたのです。彼らは一瞬にして外国語が話せるようになったんです。羨ましいですね!でも彼らは、ただ単に外国語が話せるようになった訳ではないんです。11節を見ると、世界中から集められたユダヤ人たちが、彼らの様子を見てこのように語っています。

あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。
使徒の働き 2章11節c

これを見ると、彼らはただ外国語を話していたのではなく、その言葉を使って、神様の大きなみわざを語っていたということが分かります。つまり彼らは、単に「外国語が話せる能力」が与えられたのではなく、「神様のみわざをいろいろな人に伝えるための能力」を得たのだという事なのです。

言語というのは、コミュニケーションのための一つの方法に過ぎません。そういう意味では、音楽も、アートも、スポーツも、世界共通言語だと言われます。でもそれがどんな種類の言語だったとしても、その人に聖霊が注がれるなら、ただ単に「それが出来る」ということだけでなく、イエス様の素晴らしさを伝えるためのコミュニケーションのツールとして、神様は用いることがおできになるのです。

それでは、聖霊が注がれた弟子たちはこの後、どのように変えていったのでしょうか。弟子たちには、聖霊によって、どんな力が与えられたのでしょうか。このことについて、3つのポイントで見ていきたいと思います。

(1)イエス様の御業を伝える力

聖霊によって与えられる力の第1番目は、「イエス様の御業を伝える力」です。

イエス様の御業というのは、イエス様の十字架と復活のことです。そして、誰でもそのことを信じるなら救われるということ。つまり、イエス様の福音です。でも、そのことが理解できるようになったのは、聖霊による力なのです。弟子たちは、イエス様が十字架にかけられる時、ああもうおしまいだと思ったんです。一番弟子のペテロは、実際にイエス様が十字架にかけられるという時、イエス様を3度否定し、自分にも被害が及ぶのではないかと思って逃げ出してしまいました。弟子たちは、イエス様が復活された時、ああ良かったと思いました。でも、彼らはまだその意味がよく分かっていませんでした。復活したイエス様と40日過ごした後でも、イエス様の福音の意味を理解していなかったのです。でも、聖霊が注がれた時、今まで聞いてきたこと、見てきたこと、体験してきたことの全てが繋がったのです。そして、それを他の人に伝えることが出来る力が与えられたんです。

ペテロは、聖霊の力によって、大きく変えられました。彼は聖霊が注がれた弟子たちの様子を不思議がるユダヤ人たちの前に、立ち上がりました。そしてイエス様の御業を大胆に語ったのです。それを聞いたユダヤ人たちは、その聖霊の力に圧倒されました。使徒の働き2:37-38にはこうあります。

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
使徒の働き 2章37~38節

そしてこの日、彼のことばを受け入れた人々はバプテスマ・洗礼を受けたとあります。そして、3000人もの人が弟子に加えられました。ペテロが、説教をしただけで3000人の人が一度に救われたのです。

ペテロはどこでそんな力を得たのでしょうか。それは、聖霊による力です。ペテロ自身の力ではありません。聖霊が、ペテロを通して働かれたのです。神様は、同じように私たちにも、イエス様の御業を伝える力を与えてくれます。難しく考える必要はありません。なぜなら、それは聖霊による力だからです。ただ、イエス様が自分にとって、どれほど素晴らしい事をしてくださったのか。素直に自分の体験を伝えることから始めたら良いと思います。自分の知恵や力で無理矢理伝えるのではありません。聖霊様が、伝えたいという思いも、勇気も、すべて与えてくれるんです。また、全てを自分一人で行う必要はありません。教会には、いろいろな人がいて、それぞれに与えられている能力や賜物が違います。だから、互いに助け合って、協力し合って、この福音を伝えていくことが出来るのです。聖霊様は、自分の最も大切な家族や友達にも、福音を伝える力を与えてくださいます。そのことに信頼して、その時のために祈っていきましょう。

(2)イエス様の御心を行う力

聖霊によって与えられる力、2番目は「イエス様の御心を行う力」です。

聖霊に満たされた弟子たちは、イエス様が行なっていたような働きをする力が与えられたのです。使徒3:1-8にはこうあります。

ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
使徒の働き 3章1~8節

なんと、ペテロが「イエス・キリストの名前によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、生まれつき足が不自由だった人が癒やされて、歩いたり飛び跳ねたりしながら神様を讃美したというのです。素晴らしいことが起こりました!もちろん、同じような癒しの力がいつでも与えられる訳ではありません。でも、ペテロは、足が不自由な人を見かけた時、素通りすることが出来なかったんです。それがイエス様の御心であることが分かったからです。そして彼は「私にあるものをあげよう」と言って、キリストの名によって命じ、彼の右手を取って立たせたとあります。

私たちを通して、どのような癒しのわざが行われるかどうかは分かりません。でも、ペテロは、その人の近くに行って、「私にあるものを持って」、つまり信仰をもって自分にできることを精一杯したのです。そして、彼の手を握りしめたのです。私たちが、地域に出て行って、愛の行いを実践するのはそのためです。

聖霊は、私たち一人一人に語りかけ、押し出してくださいます。そして、「どうしても、あの人の横を素通りできない」、「あの人のために何かできないか」という思いを与えてくださり、また、それを実践する力を与えてくださったのです。

聖霊様は、もっと身近なところでも、神様の御心を行う力を与えてくれます。学校や職場で、または近所の人たちの間で、または教会の交わりの中で、あなたのほんの少しの力を必要としている人はいないでしょうか。聖霊様は、そのほんと少しの勇気と力を与えてくれるんです。そして、そのような小さな所から、私たちも聖霊の力を体験することが出来るのです。

(3)イエス様の御名によって一つとなる力

3番目のことは、「イエス様の御名によって一つとなる力」です。使徒の働き2:42-47をお読みします。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
使徒の働き 2章42~47節

これこそが教会のあるべき姿です。彼らは、聖霊によってお互いに対する愛が増し加わって、主の御名によって文字通り心を一つにして集まって生活するようになったのです。「家々でパンを裂き」とありますから、それぞれの家があったのはもちろんですが、彼らは大きな一つの家族のようにして暮らしました。その証拠に、彼らは財産すらも自主的に共有にして、お互いの必要のために分け与えていたというのです。

そこには、喜びと真心と神への賛美がありました。祈りと御言葉を中心として、神様の愛に満たされた交わりがありました。その麗しい姿を見た周りの人たちは、自分たちも仲間になりたいと思ったのです。そして毎日救われる人たちを加えてくださったというのです。

私たちの目指す教会のモデルはこれです。この麗しい教会の姿の鍵は「一致」にあります。聖霊は、私たちに一致をもたらしてくれます。どんな素晴らしい能力が与えられたとしても、そこに一致がなければ、主の働きは前進していくことが出来ません。聖霊は、イエス様の御名によって一つとなる力を与えてくれるのです。

神様は、まさに今、イエス様の御業を伝えるために、イエス様の御心を行うために、またイエス様の御名によって一つとなるために、私たちに聖霊を注いでくださいます。聖霊によって与えられる力は、私たちが自分で独り占めするような性質のものではありません。それは、私たちが、「地の果てまで、イエス様の証人となる」ための力です。

今日、私たちに与えられている全てが、聖霊の力によってきよめられ、イエス様の証人とされるために用いられるように、心から求めていきたいと思います。主は、必ず、この「地の果て」である日本にも、リバイバルを与えてくださいます。期待し、待ち望んでいきましょう。

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