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2023年5月14日 幸せの教え

2023年5月14日 幸せの教え
エペソ人への手紙 6章2節 木島浩子 伝道師

「母の日」の発端は、小さな教会の記念会だったといいます。牧師の妻だったジャービスさんという方は、娘アンナさんを除いて8人の子供を戦南北戦争や病気で失います。その痛みを、同じように痛んでいる母たちへの奉仕に向け、同胞同士の戦いを終わらせるため「母の友情の日」というイベントを立ち上げました。彼女が亡くなった後、アンナさんが、母の祈りを絶やさないでください、と呼び掛け、花を配った。それが、お母さんへの感謝の日として世界に伝わっていったのです。

新約聖書には、こうあります。

「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。(エペソ6:2)

旧約聖書にさかのぼる、モーセの十誡からの引用です。神が人に与えた大切な10の教えのうち、人間関係に対することでは第一番目に、「あなたの父と母」が位置しています。ジャービスさんのような親ならもちろん、敬う、とか、自分の親のこういうところは敬う、というような条件も抜きです。「感謝せよ」とも違う。根本的に「敬え」というのです。元々の言語で「敬う」は「カッベード」と言い、神に対して用いる表現だそうです。そこまで厳粛に親を敬う根拠は何でしょうか。

エペソのことばには、「これは約束を伴う誡め」とあります。神は、最初の約束を、十誡よりもさらにさかのぼる、父と母を通しては生まれなかった人と交わしていたのです。神が人を造られた時です。

さあ、人をわれわれのかたちとして、我々の似姿に造ろう。(創世記2:26a)

このように、人には、関係を持つ、責任を理解する、ことばで思いを伝える、いうほかの生き物にない人格が与えられました。同時に造られたばかりの人です。成熟した大人でありながら、すべてが新生児のように初体験なのです。木の実一つにしても、取ってみる、鼻に近づけてみる、口に入れてみる、歯で噛んでみる、体に入っていく、これが食べるということ!と、どんなにみずみずしい驚きで毎日神と語り、神のところから次の体験に向かっていったことでしょうか。

……教会の子供たちに家族へのサンキューカードを書こう、と促すと、「毎日ご飯を用意してくれてありがとう」とか、「一緒にキャッチボールをしてくれてうれしい」などと具体的に書く子が多いです。受け取る側の心にとが具体的な愛につながる恵みは

しかし、神と人にはもっと根本の対比があります。どんなに愛の交わりを持っているとしても、人は神と「並ぶ」とか、神を「分析する」とか、ましてや、やがて神を「超える」、などと考える余地がない。ことばを交わしている相手は、自分を存在せしめた創造主なのです。宇宙のどの銀河系も、地上のどの物質も生物も神がことばによって造り、保っておられる。にもかかわらず、このお方は、人に驚くべきことを言われました。

あなたは園のどの木からも思いのまま食べてよい。(創世記2:16~17a)

食に限ったことばではありません。「思いのまま」に込められたもの、これこそ、神さまのすべてをかけた人への贈り物、神の霊です。塵で形づくった被造物を、まるで神ご自身であるかのように霊的存在者とし、「思いのまま自分の意志で」と、神との関係までも委ねてくださったのです。

人は、だれにも縛られず自分で考え行動したとき、独自の自分を見出します。思いのままをことばにし、相手に受け止めてもらえると、自分の価値を実感できます。失敗した時も、良い悪いで決めつけられず、どうしてそうしたか、と思いを分かち合えると、悔い改めに導かれ、成長できます。この瞬間も、私たちは聴いたことばを思いのままに受けるのです。神さまは、人を極みまで尊重しました。神の目に、人があまりにも大切だから、誡めを置いたのです。

創世記2:17b「…善悪の知識の木からは、食べてはならない」と。私たちはどんなに思いを尽くしても、善悪の究極までを見通せません。人の目には悪いと見えても、神様はそこから善なる結果を引き出すことができ、やがてすべての悪は神の計画に織りなされ、天のタペストリーとなって輝く日が来ます。誡めを敬い、守ることは、限りある自分でなく、神の最善に期待できるという保証なのです。

誡めはまた、与えられた贈り物を守る法則です。

創世記2:17b「その木から取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われたようにです。

思いのままに選択し、行動したことには必ず結果が出ます。地上のすべてのものが重力によって保たれるように、思いも神の法則に守られるのです。誡めの敬いは、私たちを良い結果に導き、平安な人生を約束します。

ところが、地上に、保障と法則を奪う罪が入り込みました。

「園の木のどれからもとって食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」と、蛇は質問を投げかけました。蛇は神が言われなかったことを言っています。人はどうでしょう。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。」これは間違っていない。ただ、神さまが言われた一番重要なことばが欠落しています。「思いのまま」が、抜け落ちたのです。神のすべてをかけた贈り物を、人が軽んじたからです。まるで初めから自分のものだったかのように、神のことばから消し、誡めに背いてしまいました。

神さまが被造物にお与えになった「思いのまま」という贈り物から敬いが抜け落ちる。それは贈り主を不在とすることです。思いの中に敬うべき神がいない。そうすると、人は守りの法則からはずれ、不安を持ちながら生きるようになります。生まれる子どもにとって、父と母は安心の拠点であるべきです。しかし親自身に平安がなかったら、いのちの連鎖は不安の連鎖です。

私は、小学生だったある日、友達から文鳥のひなをもらったことがありました。毎日夢中でかわいがっていて、その日うっかり母から頼まれたことを忘れてしまいました。すると激高した母は、ひなに水をかけて死なしてしまったのです。母は愛情も豊かで私を深く愛してくれましたので、このエピソードだけを切り取ると誤解を呼びますが、私の心には刺さった出来事でした。母はいつも不安を抱えて生きていた人だったから。親だって完璧ではないから。と、思いつつも――何も死なさなくても――、と百万回くらい思いました。そうして百万一回目くらい思った頃に今度は自分も母親になったのです。私は愛情いっぱいの子育てをしようと思っていた。なのに、その良い思いのままにできない。怒ってばかり。母に向けていた責めがブーメランのように全部自分に戻ってきました。命を守る仕事にはみな免許や資格が要るのに、私は無資格で親になった、と思いました。その時、十誡が与えられる前の、聖書の中の父と母を思いました。

彼らも苦しみの子育てだったでしょう。思いのままなんて一生かなわない奴隷民族だったからです。支配国エジプトの脅威とならないよう生まれた男の赤ちゃんはナイルに投げ込まねばならなかったのですから、いのちの誕生すら不安の焦点です。たとえ生まれた子が女の子でも、「私がもし男なら親に殺されていたのだ」、と知る日が来る。また、女性はとるに足りなくて、男性は有能だから危険視したのか、と考えるかもしれません。条件つきの存在価値は奴隷の人格です。

しかし神さまは介入されたのです。モーセという指導者が立てられました。彼の母が思いのまま神を敬い、エジプトの命令より神を第一としたため生かされた人です。

縛られていたイスラエルに、神さまは、改めて贈り物を差し出すのです。

あなた方は、私がエジプトにしたこと、また、あなた方をわしの翼に乗せてわたしのもとに連れてきたことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聴き従い、わたしの契約を守るなら、あなた方はあらゆる民族の中にあって、私の宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト19:4)

わたしはあなたを宝とした。あなたはどうか。

民はみな口をそろえて答えた。『私たちは主の言われたことをみなすべて行います。』(出エジプト19:8)

…こうして十誡を授かったスラエルの民は、どうなっていくでしょうか。ネヘミヤの祈りです。

しかし彼ら、私たちの先祖は傲慢にふるまい、うなじを固くし、あなたの命令に聞き従いませんでした。彼らは聞き従うことを拒み、彼らの間で行われた奇しいみわざを思い起さず、かえってうなじを固くし、かしらを立てて逆らって奴隷の身に戻ろうとしました。彼らが自分たちのために鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ』、と言って、ひどい侮辱を加えたときでさえ、あなたは大きな哀れみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼は雲の柱が彼らから離れず、道中を導き、夜は火の柱が、行くべき道を照らしました。あなたは彼らを賢くしようと、ご自分の良き霊を与え、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いた時には水を与えられました。(ネヘミヤ9:16~20)

告白を読みながら、ここに私がいた、ここにもいた、奴隷の地に戻ろうとまでする私を神さまが引き留めたのだ。あの時も、神さまが助けてくださった。あんなひどいことをした時も、神さまが支えてくださった、と自分の日記が開かれているように感じました。

神が一緒に書かれた日記です。思いのままの自分を神さまがどこかであきらめたら、今ここにこうしていないのです。私たちが旅を続けることができる理由は、たった一つ。愛の神さまがおられるから。それ以外にはありません。

聖書の申命記では、出エジプト記に書かれた十誡が再度読み上げられています。荒野を旅する間に、最初モーセが読んだときにまだ生まれていなかった、あるいは理解できなかった人が大人になったからです。

申命記5:15「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。…」。改めて読まれた文面は少し変化しています。初めの世代に主は、あなたがたを鷲の翼に乗せて、と、語られました。エジプトがみるみる遠ざかり、海に消え、過去のものとなった日、救いは一方的な神のみわざだったのです。今度はイスラエルが頑なだった歳月を振り、40年の間いつも、あなたの手を取り、肩を抱いて来たよ、と愛のほとばしりを抑えられないかのように、神さまは一人ひとりに語りかけるのです。

当時のイスラエルは結婚も早く、今の中高生くらいで親なるのが普通だったでしょう。ここで十誡を聞いている人の中には、赤ちゃんを抱いたティーンエイジャーのパパ、ママがおり、その祖父母はまだ三十代、エジプトを発つ時幼子だった人は40代の曾祖父、曾祖母、という世代構成だったと思います。4世代がみな「私たちは主の言われたことをすべて行います。」と新しく戒めを敬ったのです。幼子はまだ敬い途中です。むしろ「父たちよ、子供を怒らせてはならない」と親の方に神は言われる。子供に暗唱させる前に、敬いは大人への誡めなのです。申命記はこう続きます。

「…それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。」これがエペソに見た約束です。神さまは私たちを奴隷状態から解放し、幸せの秩序につなげてくださいました。隣にいる父母の世代がみことばにさされ、胸をたたいて悔い改めている姿、ああ、私に親の資格なんてないけれど、主が助けてくださる、と信頼し、祈る姿は、次世代に、敬うDNAとして引き継がれるでしょう。また子供の世代が、神を敬い、神の家族に支えられ育っていく姿に、親たちの世代もどれほど励まされるでしょうか。神のことばに立つというカッベード、敬いの思いは、父、母に代表される人とのつながりを祝福し、他者の思いを尊重する共同体を建て上げます。

この神の家族に、今日あなたのお母さまもおられるでしょうか。実のお母さんのように愛し主に導いてくださった、そんな方がおられるでしょうか。また兄弟、姉妹と呼べる親しい関係の中で神と出会い、心の傷が癒された、そんな経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。自分をあくまでもただしいとし、神を敬えない者のため、神の御子は、わたしが責めを負いますから自由にしてください、と、罪を全部十字架に引き受けて、救いに招いてくださいました。あなたに与えられた思いで招きに応じ、救い主をともに礼拝しましょう。あなたのいのちはただ親から生まれ、一生を生きて終わる、そのようなものではありません。あなたに父と母を与え、一生の間最高の贈り物を与え、あなたを愛し続ける神と、ともに歩む人生なのです。

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