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2023年5月7日 福音の力

2023年5月7日 福音の力
使徒の働き 26章17〜18節 池田恵賜 主任牧師

さて、今日は「福音の力」というテーマでお話しします。まず「福音とはなにか」ということ、次に「福音の力と自分の力」について、そして最後に「福音の力の源」についてを見ていきましょう。

1 福音とはなにか

初めに「福音とはなにか」ということです。

英語で福音は“ゴスペル”や“グッドニュース”と言います。これは「良い知らせ」という意味で、イエス・キリストの教えのことを指します。この“グッドニュース”、良い知らせを「良い知らせ」だと理解するためには、“バッドニュース”も知らないといけません。よく漫画や映画のセリフに出てくる「良い知らせと悪い知らせがある。どっちから聞きたい?」というやつです。

グッドニュースとバッドニュース

「福音の力」ということを考えるときに、私たちは“Good”と“Bad”両方の知らせを知る必要があります。言い方を変えると“Bad News” を知らないと、“Good News”の本当の価値が分からないのです。“Bad News”とは、どんな知らせでしょうか?

それは「神の前にすべての人は罪人であって、神に裁かれる」ということです。「すべての人は罪人であって神に裁かれる」と聞くと、多くの人は「私はそれほど大きな罪を犯していない」と考えます。そう考えるのは、私たち一人ひとりが「善悪の基準」を持っていて、その基準に従って生きているからです。しかし、困ったことにこの基準は一人ひとり微妙に違うのです。ある人にとっては許せないことであっても、他の人にはどうでもいいことだったりするのです。そして、この基準のわずかな違いの部分で争いが起きてしまうのです。

これは「初めの人アダムとエバが、神のことばに逆らい、善悪の知識の木の実を取って食べ、何が良いことで何が悪いことかを自分で判断するようになったからだ」と、聖書は教えます。それまでは「神様」という絶対的な基準があって、善と悪は判断されていました。しかし、人がそれぞれ自分の基準を持ち、自分の正しさを主張し「これは良い」、「これは悪い」と判断するようになった結果、争いが起こるようになったのです。

これは個人レベルでも、国のレベルでも言えることです。争いが起きると、当事者はお互いに「正義」という名の剣を振りかざして戦います。何が良いことで何が悪いことかの判断基準が、神から人に移ったときに人々の間で争いが絶えなくなったのです。そこで神は、神の基準を人々に示されました。それが、いま佐藤牧師がシリーズで語っている「十戒」です。

十戒の細かな説明は佐藤先生のメッセージに委ねますが、十戒が文字として与えられたときユダヤ人はそれを一生懸命に守ろうとしました。しかし、その背後にある「神の心」にまで思いを馳せることはできなかったのです。そして、いつしかユダヤ人の行動は、神の思いと全くかけ離れてしまったのです。ですからイエス様は地上に来られたとき、十戒の本当の意味を教えられました。

マタイ5:21-22を読んでみましょう。

昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対していかる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。”マタイ5:21-22

イエス様は、ここで十戒の6番目に書かれている「殺してはならない」という戒めを取り上げました。そして『実際に殺人を犯していなくても、兄弟に対して怒る者、「ばか者」「愚か者」と言う者は、殺人と同じ罪を犯している』と言うのです。イエス様はここで、十戒で明らかにされた基準は、その行為そのものだけでなく、心や言葉のレベルにおいても適用されるとしたのです。

もし、心の中で思ったことや言葉で言ったことも裁きの対象になるのなら、いったい誰が神に前に立ったときに「私には罪がありません」と言うことができるでしょうか。そうです。私たちは誰ひとり例外なく神の前で「罪人」と宣告され、裁きを受けなければならないのです。そして、その裁きとは「永遠の滅び」です。これが“Bad News”です。

2 福音の力と自分の力

しかし、同時に“Good News”ももたらされました。イエス・キリストによって、「滅びから救われる道が開かれた」というのです。これが“Good News”、福音です。この福音には、私たちを永遠の滅びから救い出す力があります。しかし、この福音の力について話す前に、私たちは自分の力で自分を救い出すことができるのか、私たちのもつ強さと弱さということについて考えておきましょう。

ときどき「教会は女、子ども、弱い人の行くところだ」と言う人がいます。そういう人は、教会に行く人のことを「自分を頼ることができないで、神頼みをする弱い人たちだ」と考えているのでしょう。では、私たち人間の強さとは何でしょう。人間の強さとは何によってはかられるものでしょうか。健康で体力があること、権力や財力を持っていること、地位や名誉があること、人脈があること、才能や技術があること、メンタルが強くて逆境でも心が折れないこと。強い人というと、大抵の人はこのようなことをイメージするのではないでしょうか。

確かにこのようなものは、この世で成功するため、いい生活を送るため、幸せになるためには大事なことのように思います。しかし、このような「人の強さ」を身につけることが人生の目的になっていたり、これらにより頼んだりする人生は危ういものです。

なぜなら、これらのものは永続するものではないからです。健康も、権力も、財も、地位も、名誉も、才能もやがて衰えていったり、失われていったりするものなのです。例えば、自分や家族の誰かが事故にあったり、病気になったりすることでも変わってしまいます。

いま自分が「強い」と思っている人は、その強さはどこから来ているのか、なにによってその強さは支えられているのかを考える必要があります。なぜなら、やがてあなたの強さを支えているものが取り去られるときが来るからです。このような「強さ」ということを考えるとき、パウロのこの言葉は考えさせられます。

Ⅱコリント12:9-10を読んでみましょう。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。”Ⅱコリント12:9-10

ビジネスマンは、社会で弱さを見せたら負けだと教えられ、人前で弱さを見せないようにします。そして自分を覆う様々な鎧兜を身につけます。弱さを隠すためにつけた鎧兜は、一度身につけるとなかなか外すことはできません。

しかし、パウロは「私は弱いときにこそ強い。私は自分の弱さを誇ります」と言うのです。パウロは、当時のユダヤ社会ではエリート中のエリートでした。生まれながらにしてローマの市民権を持ち、律法の知識においても、律法を守ることにおいても非の打ちどころのない人物でした。そんな彼が人前で堂々と「自分の弱さを誇る」と宣言しているのです。なぜそのように言えたのでしょうか。それは彼が「福音を信じて、福音の力を受け取ったからだ」と言えます。

人前で弱さを出せば、相手につけ込まれるかもしれません。しかし、神様の前で弱さを出しても、神様はそこにつけ込むようなお方ではありません。むしろ、私たちが神様の前に弱さを認めるときに、神様は私たちの弱さの中で働いてくださるのです。パウロは、自分が弱さを覚えるときにこそ、神の力を体験したのです。だから「私は自分の弱さを誇ります」とまで言えたのです。自分の弱さを認めることは勇気のいることです。心の強い人でなければできません。そうです。自分の弱さを素直に認めることのできる人は、実は強さを持った人なのです。私たちは神の前で自分の弱さを認める強さを持つ必要があります。

弱さとは自分の失敗だったり、罪だったりします。蓋をして隠してきた過去の傷かも知れません。でも、それらを勇気をもって神の前に出すなら、神様はあなたを受け止めてくださいます。「私が弱音を吐いたら、神様はがっかりするのではないか」とか、逆に「怒られるかもしれない」、「裁かれるかもしれない」と心配する必要はありません。

ヨハネ3:17にこのように書かれています。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。”ヨハネ3:17

イエス様が来られたのは、私たちを裁くためではなく救うためなのです。むしろ神様は私たちが自分の力の限界、自分の弱さを認めて神の前に来るのを待っておられるのです。そしてイエス様はそんな私たちを救う「福音」を伝えるために来られたのです。マルコ1:15です。

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」”マルコ1:15

これが、イエス様が公生涯に入られたときの第一声でした。私たちは自分の力に頼っている限り、この福音にあずかることはできません。むしろ自分の力の限界を認めて、弱さを神の前に出すことが必要なのです。あなたが地上で得た地位も、名誉も、財も、権力も、友達も、家族もあなたを救うことはできません。私たちは福音の力を受ける前に、自分の力ではどんなに努力しても自分を救えないことを知る必要があります。

福音の力

それでは、この「福音」にはどのような力があるでしょうか。そのことに目を留めていきましょう。パウロは自分が救われたときに語られたイエス・キリストのことばを引用して、このように語っています。使徒26:17-18です。

わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』”使徒26:17-18

「わたし」とはイエス様、「あなた」はパウロ、「彼ら」は異邦人のことです。ここに福音の力が書き記されています。福音は、私たちの目を開かせ、闇から光の支配に移し、サタンの支配から神に立ち返らせ、罪の赦しを得させ、神の国を相続させる力があるのです。

パウロは、まだサウロと呼ばれていた頃、クリスチャンを迫害するためにダマスコという町に向かっていました。その途上で、彼は天からの光に包まれイエス様と出会います。そのとき彼の目は見えなくなりました。ここに神様からサウロへのメッセージがあります。それまでサウロは「自分は誰よりも真理を知っている。律法を忠実に守っている。自分こそ見えている者だ」と自負して行動していたのです。しかし、実際にはそんな「自分の力に頼っているサウロこそ盲目で見えていない者だ」ということを教えるために、神様は彼の視力を奪われたのです。そして、サウロはアナニヤという、彼が迫害しているクリスチャンから祈ってもらったときに、再び目が見えるようになったのです。

サウロと同じように、私たちも自分の力に頼って生きているなら未だ盲目の者なのです。「福音は人々の目を開き、闇の支配から光の支配に移すものだ」とパウロが語っているのは、まさにパウロ自身が体験したことなのです。そして、これは私たち一人ひとりに向けて語られている言葉でもあります。あなたはこの福音の力を体験しているでしょうか。

信仰によって福音の力を受ける

この福音の力は「信仰によって」与えられます。18節にあるように「わたし ―すなわちイエス様― を信じる信仰によって」罪の赦しが与えられ、神の国と神の用意してくださる祝福を相続することができるのです。

信仰によって与えられる福音の力は、私たちの実際の生活に変化を与えます。私もこの福音の力を体験したとき、自分の人生を通してこの素晴らしさを表していきたいと献身の人生へと導かれました。聖書に出てくるザアカイという取税人はイエス様と出会い、福音の力を受けたとき「自分の財産の半分は貧しい人に分け与え、だまし取ったものは4倍にして返します」と言いました。ザアカイは財産により頼む人生よりも確かな人生を見つけたのです。

このように福音の力は、私たちにハッキリとした人生の目的を与え、揺るぎない人生の土台と、死で終わることのない永遠に続く希望をもたらすのです。この福音の力をあなたから取り去るものは何もありません。

3 福音の力の源

そして、最後に私たちはこの「福音の力の源」を知る必要があります。この福音の力は、どこから始まっているのでしょうか。それは神の愛です。神の愛については、これまでも何度も語ってきました。神の持っておられる無償の愛、相手によらないアガペの愛です。神様はノアの洪水の後に、人間についてこのように語っています。創世記8:21cです。

「人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。”創世記8:21c

「人が思い図ることは幼いときから悪である」と言われています。神様は私たちが罪深い存在であることをよくご存じです。それでもあきらめずに私たちを愛してくださるのは、神が私たちを愛すると決断されたからです。愛は感情ではなく決断です。それは愛する相手に対して責任を持つということです。これがアガペの愛です。

神様は「幼いときから悪を思い図って」ばかりの私たちを「愛する」と決断して、イエス・キリストを地上に送られ、救いの道を開かれたのです。これは神が思いつきで決めたことではなく、旧約時代からすでに計画され、準備されていたことでした。ガラテヤ3:8を読んでみましょう。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。”ガラテヤ3:8

「福音」という言葉が出てくるのは、新約聖書からです。しかし福音、“Good News”が与えられることは、既に旧約時代から明らかにされていたのです。福音の力の源となっているのは、この変わることのない「神様の愛」です。これこそ揺るがない私たちの土台です。

罪を犯し、弱い自分を認識するたびに「神様はこんな私を愛すると決断してくださった」と思い起こし、悔い改めをもって、この神の愛に立ち返りましょう。神様はいつでも、何度でもあなたを赦し、抱きしめ、神の愛の大きさを教えてくださるのです。

この大きな神の愛は私たちの生き方を、私たちの考え方を、私たちの行動を変えていきます。自分のことばかり考え、暗闇の支配の中で周りが見えずに、「今が良ければ」、「自分が良ければ」と生きていた私たちの目が開かれ、私たちは神の愛の視点、永遠の視点に立って物事を考え、行動できるようになるのです。これが福音の力を受けて生きるということです。

今日もこの福音の力に満たされて歩んでいきましょう。

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