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2023年3月12日 キリストの心を心とする(5)〜憐れみと共感〜

2023年3月12日 キリストの心を心とする(5)〜憐れみと共感〜
マタイの福音書 9章35~36節 佐藤賢二 牧師

皆さん、コロナ禍になって丸3年。ようやく明日3月13日に、ついに日本でもマスク着用のルールが緩和され、これからは個人の判断ということになりました。今後、段階的に政府のコロナ対策は緩和されていくということですが、まだ恐れを感じておられる方も多いと思います。個人的には早くそんなことは気にせずに、安心して過ごせるようになればいいなと思いますが、教会はいろいろな方が、集まっていますので、状況を見極めつつ、その都度適切に対応して行きたいと思います。

しかしこの3年間、私たちの生活、そして物事の捉え方もずいぶん変わってしまったように思います。ソーシャルディスタンス、リモートワークが当たり前になって、以前より人と人との直接的な接触が極端に減りました。それは、物理的な距離だけでなく、精神的な距離にも影響を与えています。

でも私たちは、そんな中にあるからこそ、自分自身を点検して行きたいと思います。神様は私たちに、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みるようにと言っておられます。そして、イエス様が愛したように愛し合い、そのことを通してこの世に違いをもたらすようにと、私たちを導いておられるのです。

今日は、「キリストの心を心とする」というシリーズの第5回目として、「憐れみと共感」というテーマで考えていきたいと思います。

さて、皆さんは、「憐れみ」という言葉を聞いてどんな印象をお持ちでしょうか。皆さんはそんなことはないと思うのですが、私は実は、この「あわれみ」という言葉を教会で初めて聞いたとき、何かとても変な感じがしたのを覚えています。なぜかと言うと、私は「人をあわれむ」なんていうのは、上から目線で、人を見下した、偽善的な態度じゃないかと感じたのです。ちょっと、ひねくれていますよね。でも、正直なところ、私はそれまで「あわれむ」なんて言葉をまともに使ったことがなかったので、よく分からなったのです。もちろん、聖書が言う「憐れみ」とはそんなものではありません。

イエス様の「憐れみ」は、私たちの教会の働きの、最も中心的な原動力です。なぜなら、それがイエス様ご自身の原動力だからです。教会に与えられている「ミッション3000」というビジョンは、イエス様の「憐れみ」を共有することが原点にあります。そして、このイエス様の「憐れみ」を、必要としている方々の所に届けることが、「キリストの心とともに」遣わされるということなのです。

ですから、今日は皆さんと一緒に、聖書的な「憐れみ」とは何なのか、学んでいきたいと思います。それではまず今日の御言葉を見ていきたいと思います。マタイ9:35-36です。

それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
マタイの福音書 9章35~36節

ここでイエス様は「群衆を見て深くあわれました」とあります。この「あわれまれた」という言葉は、ギリシヤ語で「スプラグニゾマイ」という単語が使われています。

1. 内臓が痛むほどの強い思い

スプラグニゾマイを直訳すると、「内臓の、強い思い」です。誰かの痛みや苦しみを見たときに、自分もその人と同じように痛み苦しむ、はらわたがちぎれるような強い痛みを持つ、というのがこの「あわれみ」なのです。これは、単なる同情や、共感を超えて、自分も共に痛み苦しむというのが根底にあるのです。

イエス様は、高いところから下々の苦しみを見て「ああ、可哀想に」と言うだけの神様ではありません。そうではなく、自ら、神のあり方を捨てられないとは考えないで、人となって、しもべとして歩んでくださったお方なのです。ヘブル4:15にはこうあります。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ヘブル人への手紙 4章15節

私たちの大祭司とはイエス様のことです。イエス様は、私たちの弱さを「分かるよ」と言って、実際に知っていてくださるお方なのです。なぜなら、イエス様はすべての点において、私たちと同じように試みに遭われたからです。そして、私たちのすべての弱さや痛みを味わい尽くし、実に十字架の苦しみさえも耐え抜いてくださったのです。イエス様だけが、本当の意味で私たちの痛みをわかってくださるお方です。先程の「スプラグニゾマイ(あわれみ)」という言葉は、聖書の中で、たとえ話を除けば、すべてイエス様に対してのみ使われている言葉です。「憐れみ」というのは、イエス様の性質そのものなのです。

そしてイエス様は、その憐れみを感じた時、その原因となっている問題に対処するために、必ず何らかの行動を起こされました。誰よりも低いところまで降りてきてくださったお方が、ともに痛んでくださるだけでなく、その痛みを取り除くために行動してくださる。それが、イエス様の「憐れみ」なのです。先程のマタイの9章36節をもう一度見てみましょう。

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
マタイの福音書 9章36節

イエス様が、ここで深く憐れまれた、はらわたがちぎれるほどに痛まれたのは、人々が人生の方向性を見失って、まるで迷える子羊のようになっている様子を見たからです。人間は、まことの羊飼いである神様との生きた関係がなければ、弱り果てて倒れてしまう存在です。神様なんていらない、自分の力で生きていけると考えて頑張っているようだけれど、本当は心の奥底で満たされないものを抱えている。そんな一人一人の霊的な必要を見て、イエス様は心を痛められたのです。

そんな彼らのために、イエス様はどのような行動を起こされたのでしょうか。それは、福音を宣べ伝えることと、あらゆる病気とわずらいを癒すことでした。ヤコブ2:15-17にはこのようにあります。

兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
ヤコブの手紙 2章15~17節

もし私たちが、目の前に病気や怪我で苦しんでいる人がいるのに、「神様を信じれば救われます」とだけ言って何もしないなら、そんな信仰は死んだものだと言っているのです。イエス様の愛を、具体的に表すこと自体が宣教なのです。もちろん私たちが、ことばで福音を宣べ伝えるということは重要です。でもそれは、相手に信じさせるためというよりも、私たちの信仰と生き方を宣言することだと思うのです。もし私たちが実際にその福音に生き、その姿の中に確かにイエス様が現れ出てくださるなら、主の時が来た時、イエス様ご自身がその方の心を捉えてくださると思うのです。私たちにできることは、ただ管になることだけです。イエス様が、憐れみを注ぎたいと思っておられる方のところに行って、その愛と憐れみが伝わるように仕えること。そのような器とさせていただきたいと思います。

2. 良いサマリア人

では私たちは、どのようにしたらイエス様の憐れみを、届けていくことができるのでしょうか。このことについて、有名な「良いサマリア人」の話から、学んでいきたいと思います。ルカ10:30-37をお読みします。

イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
ルカの福音書 10章30~37節

ある人が強盗に襲われて、半殺しにされた状態で倒れていました。そこに、3人の人が通りかかりました。一人目は、神に仕える祭司でした。祭司とは、神と人との間に立ち、とりなすために、神殿で仕える人のことです。今で言ったら、牧師と言っても良いでしょう。牧師であるさとけんは、その倒れた人に気づくと、道の反対側を通り過ぎて行ってしまいました。二人目は、レビ人です。レビ人は、神殿で祭司の働きを助ける役割を持っていました。今で言ったら、礼拝のための奉仕者でしょうか。彼は、その倒れている人を見ると、やっぱり反対側を通り過ぎて行ってしまいました。三人目に来たのは、サマリア人でした。サマリア人は、もともとユダヤ人と同族で同じ神を信じる人たちです。でも、他国からの侵略を受けた時に民族の純潔を守ることが出来ず、ユダヤ人からは忌み嫌われていた人たちでした。今で言ったら、神を信じてはいるものの、何らかの理由で教会に来ることが出来なくなってしまった人と言ってもいいかもしれません。そしてなぜか、このサマリア人だけが、倒れている人のことをかわいそうに思い、介抱してあげたとあるのです。この「かわいそうに思う」という言葉に使われているのが、「スプラグニゾマイ(憐れみ)」なのです。皮肉なことに、神に仕えているという人が神様の心を持たず、神様から離れていると思われていた人が、神様の御心を行っているというこの例え話は、とても考えさせられるものです。

3. 憐れみを働かせるために

初めの二人はなぜ、倒れている人を見ても通り過ぎていってしまったのでしょうか。逆に、なぜサマリア人は彼を助けることが出来たのでしょうか。この例え話から、「憐れみを働かせるために」どうすれば良いのか、ということを3つのポイントで考えてみたいと思います。

(1)忙しさを克服する

まず第1のポイントは、「忙しさ」の克服です。「善きサマリア人の実験」という、有名な心理学上の実験をご存知でしょうか。1970年代に、プリンストン大学で神学を学ぶ学生を対象に行われた実験です。まず、学生に対して、先程の「善きサマリア人」を題材に、思いやりの大切さについて語る原稿を書かせます。そして、一部の学生に対しては、説教の時間まで、まだ少し時間があるので焦らなくていいと話しました。しかし、残りの学生に対しては、説教の時間が迫っていると告げました。後者の学生は、大慌てで走って行きます。そして、目指す建物に到着すると、扉の前に一人の男が咳をして苦しそうにうめいています。実は、この男は実験のための役者です。そして、この光景は、こっそりと録画されていたのです。すると、急いでいなかった神学生は60%以上が男を手助けしたのに対し、時間がないと信じ込まされていた学生は、10%しか助けようとしなかったというのです。

このことから何が分かるでしょうか。私たちは、「思いやりや憐れみが大切」だと頭で理解していたとしても、自分が忙しい、急いでいる、余裕がない状態では、実際に行動に移すことができないということです。よく言われることですが、「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。祭司やレビ人は、神殿で神に仕える人でした。しかし、その務めが忙しすぎて、目の前にいる必要を抱えた人に目を留められなくなっていました。一方、サマリア人はそのような務めはなかったけれど、いつでも神様の御心を実践する準備が出来ていたということです。

今、皆さんの生活はどうでしょうか。忙しさで、心を失っていると感じることはないでしょうか。自分のライフスタイルの何かを変えてみる必要があるかもしれません。それぞれの状況がありますので、そう簡単なことではありません。ぜひ、牧会ファミリーや、身近な人と話し合って、どうしたら自分はもっと神様とともに過ごし、神様の御心を行うゆとりを持った生活ができるのか、考えてみていただきたいと思います。

(2)恐れを克服する

第2のポイントは「恐れ」の克服です。祭司やレビ人は、道端で半殺しになっている人に触れると、ひょっとしたら律法の規定を犯してしまうかもしれないという「恐れ」がありました。そうしたら、自分の本来の務めが出来なくなってしまう、そう思って通り過ぎていったのではないかとも言われています。彼らが怪我人を助けようと思えば、自分の仕事や立場に不利益を被ることとなり、大きな犠牲が必要だったことでしょう。憐れみを働かせなければならない状況というのは、いつも想定外のことです。前例がないこともたくさんあると思います。今までやったことがないことに、踏み出すというのはリスクが伴います。でも、イエス様は、あえてその枠を飛び出して、愛と憐れみを私たちに教えてくださったのです。ヨハネ第一4:18にはこのようにあります。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
ヨハネの手紙 第一 4章18節

私たちの心が「恐れ」に支配されている時、私たちは思考停止となり、それ以上行動できなくなります。しかし「愛」に支配されている時、「恐れ」は締め出され、その愛を行動に移すためにはどうしたら良いのか、神様が知恵を与えてくださるのです。コロナ禍では、誰かを助けようとしても、自分が感染してしまうかもしれないというだけでなく、自分が感染させてしまうかもしれないという恐れがありました。でも、この期間も、多くの方々が、お互いを思いやり、愛に満たされ、感染された方のところに食事や日常品を届けたりして、助けあっていたのを知っています。

今、皆さんはどうでしょうか。何か、憐れみを働かせることが出来ない、一歩踏み出すことができない要因となっている「恐れ」があるでしょうか。このことも、ぜひ分かち合って考えてみていただきたいと思います。

(3)限度を見極める

第3のポイントは、「限度を見極める」ということです。つまり、自分一人ですべてを負い過ぎないということです。私たちは、究極的には自分ではその人を救うことは出来ません。その人の必要を満たしてくださるのは、ただ主お一人です。ですから、私たちは、どんなに良い愛の働きを実践することが出来たとしても、それはただ主ご自身が働いておられるのだという自覚と謙遜さが必要です。

サマリア人の例で考えてみましょう。彼は、まず自分のできる精一杯の手当をしました。傷口にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をしてあげました。そして、彼を自分の家畜に乗せて、宿屋まで連れていって介抱してあげました。そして、宿屋の主人にお金を渡し、介抱をしてくれるようにお願いしました。でも、もし手当をされていた人が、少し元気になり、宿を出ていこうとするサマリア人にこのように言ったらどうでしょうか。「あなたは、私がこんな状態なのを見捨てて行ってしまうのですか。ああ、あなたも所詮、私を見て見ぬふりをして通り過ぎていったあの人たちと同じなのですね。せめて、もう少し回復するまで面倒を見ることは出来ないのですか。」人によっては、その言葉を聞いて、自分の予定を大幅に変えて、そこに残ることを選ぶかもしれません。でも、もしそれが、自分で喜んで選び取るのではなく、罪悪感に駆られてそうするようになっていたら、気をつけなければなりません。なぜなら、それは恐れに支配されて行動することであり、結局そこから抜け出せなくなってしまう危険性があるからです。

では、どうしたら良いのでしょうか。このサマリア人から学ぶことができるのは、「自分の限界を自覚する」ということです。彼は、想定外の出来事に、自分のできる精一杯の犠牲を払いつつ向き合いました。でも、彼は自分の生活はおろそかにしませんでした。これは決して自己中心ではありません。そして、自分の限度がわかっていたからこそ、宿屋の主人に介抱を頼んだのです。私たちは、究極的には、自分は無力であるということを知る必要があります。そして、その感じた痛みを、祈りの中で、そのままイエス様に対して吐き出してあげる必要があります。苦しんでいるその人の痛みを、その人の代わりにイエス様の元に持っていくのです。

守秘義務等が守られる範囲であれば、他の信頼できる人にその状況を伝え、祈ってもらいましょう。そうでないと、私たち自身が潰れてしまうのです。でも逆に言うと、私たちは、イエス様の愛を届ける管として遣わされ、同時に人々の痛みをイエス様に届ける管となりきるならば、この世界に神の国をもたらす器として用いられることが出来るのです。神様は、時々、あのサマリア人を選ばれたのと同じように、誰か一人の人を選んで、その心にイエス様と同じ痛みを与えてくださることがあります。私たちの教会で始められた、地域に仕えるための様々な働きはすべて、そのようにしてスタートしました。

今から20年以上前のことになります。一人の若い姉妹が、主に志を与えられて、ある児童養護施設で働いていました。そこには、親がいない子たち、または何らかの理由で親元に置いておくのが相応しくないと判断された子供たちが住んでいました。そこにいるスタッフは、みんな献身的に子供たちのことをよく考え、仕えていたそうです。ある時、そこに住む5歳の女の子が、親元に一時帰宅することになったそうです。でもなんとその日、その女の子は実の親からの虐待を受けて帰らぬ人となってしまったというのです。その知らせを受けた、その姉妹は、それこそ、はらわたがちぎれるような痛みを感じました。そして、教会に来て、恵賜先生に涙ながらに訴えたと言います。「この子にも、この親にも、必要がたくさんあるのが分かっていたのに、結局届くことが出来なかった。でも教会だったら、それが出来ると思うのです。本当にその必要に応えることが出来るのは神様だけです。もしそのような働きができるのだったら、私はそのために立ち上がります。」彼女のこの思いは、教会の中で共有されました。次々と祈りの手と、協力者が与えられました。そして、子供たちの居場所となり、家族みんなの必要に届くことを目指す保育園「ふぁみりーさぽーと・のあ」が誕生したのです。

昨日はちょうど、のあの卒園式でした。私の3番目の娘も卒園となり、寂しい思いもあります。しかし、卒園児の保護者からは、「本当にのあで良かった。こんなに子供たち一人一人に目を注いでくれて、家族にまで気を配ってくれて、本当に助かりました。」という声が次々と聞こえてきました。現場では色々な葛藤があると思うのですが、でも、初めのスピリットがしっかりと行き届いて、神様が一人ひとりに触れてくださっているからこそ、聞かせていただいた声だなと思ったのです。

もちろん、それを継続していくのは、また別の困難があると思います。でも大切なのは、主と同じ思い、主と同じ痛みが与えられた時、それを主からの召しと信じて一歩踏み出し、立ち上がることなのです。そうすれば、次の一歩は主が導いてくださるのです。私たちに出来ることには限度があります。でも、主は無限の愛を注いでくださるお方です。だから、私たちはいつも主の前に出て、主がその愛を届けたいと思っておられる方々の所に、ただ管として遣わされていくのです。私たちがすべて負うのではありません。でも、主からの思いが与えられた時、そのことに素直に応答して、遣わされるものとして頂きたいと思います。

今年、私たち一人一人もう一度主の前に出て、傷ついた人たちの所に、キリストの心とともに遣わして頂きましょう。

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