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2023年2月26日 キリストの心を心とする(4)〜謙遜を学ぶ〜

2023年2月26日 キリストの心を心とする(4)〜謙遜を学ぶ〜
マタイの福音書 11章29節 佐藤賢二 牧師

今私たちは「キリストの心を心とする」というテーマで学んでいます。これまでの3回は、「自我の問題」、「要塞の問題」、「赦しの問題」という、私たちの心の内側に光を当てて、主に深く探っていただくような内容でした。そして今回からは、いよいよキリストご自身のご性質に、焦点を合わせていきたいと思います。今週のテーマは「謙遜を学ぶ」ということです。

日本人にとって、「謙遜」というのは一つの美徳でもあります。しかし、聖書が言う「謙遜」とは、日本語の「謙遜する」と言うことばとは、必ずしも一致していません。例えば、私が「さとけん、カッコイイね!」と褒められた時、「いいえ、いいえ。私なんてそんな、まだまだです」と応えるのが、日本語で言う「謙遜する」ということなんだそうです。つまり、意図的に自分を低める、というのが日本語の「謙遜」の考え方です。これが行き過ぎると、自己卑下になってしまいます。一方、「さとけん、カッコイイね!」と褒められた時、「そうですか、ありがとうございます。嬉しいです!」と応えるのは、「謙虚」と言うのだそうです。どちらも、控え目な態度という部分では一致していますが、「謙虚」の方が、相手の言ったことを素直に受け止めるという意味で、気持ちがいい感じがします。そういう意味で言うと、この「謙虚」の方が、「ありのままの自分を受け止める」という意味で、聖書の言う「謙遜」に近い気もします。しかし御言葉を学んでいくと、やはり根本的な部分で、これらは聖書の示している「謙遜」とは、別物なのだということが分かります。では、聖書の言う、「謙遜」とは何なのでしょうか。今日は、この「謙遜」という事について、ご一緒に考えていきたいと思います。

ではまず、本日の聖書箇所を開きましょう。マタイの福音書11章29〜30節です。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
マタイの福音書 11章29~30節

ここで、「わたしは心が柔和でへりくだっている」とあります。なかなか、私たちは自分のことを「へりくだっています」とは言えないですよね。もう、そう言った瞬間に、「謙遜」ではなくなってしまう気がするからです。

1. イエス様の謙遜に学ぶ

でも、イエス様だけは、本当にそのように言うことができたお方でした。イエス様の生涯は「謙遜そのもの」だったからです。そして、そのイエス様が、私たちを招き、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言っておられるのです。

皆さん「くびき」というのは何かご存知でしょうか。これがくびきです。

「くびき」とは2頭の牛をつないで、一緒に歩かせ、働かせるための道具です。2頭の牛がバラバラに動こうとすると、木と首が接しているところに力がかかって、痛みます。だから必然的に、2頭の牛は一緒に動くことになります。イエス様のくびきを負うということは、このようにしてイエス様の歩みに合わせて、イエス様と歩調を合わせて歩むということなのです。

イエス様は、「謙遜」そのもののお方でした。ですからイエス様と共に歩み、喜んでイエス様の姿に倣おうとするなら、私たちも「謙遜」を身につけていくことが出来るようになるのです。イエス様の「謙遜」を最もよく表している箇所は、ピリピ2:6-8です。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
ピリピ人への手紙 2章6~8節

このみことばから伝わってくるのは、イエス様が、徹底的に「もっと低く、もっと低く」と自分を捨てて歩まれたということです。イエス様は、「いえいえ、私なんか、まだまだです」と「謙遜して」口先で自分を低くしたのではありません。そうではなく、自ら喜んで低くされるという歩みを選び取ってくださったのです。

皆さんは、喜んでしもべとなることが出来るでしょうか?しもべとは、「奴隷」のことです。自らの権利を主張せず、他の人に徹底的に仕えるのが「奴隷」の役割です。あなたは「奴隷」となることを喜びとすることが出来るでしょうか?

でも、イエス様は、そのように歩まれたのです。神のあり方すらも捨てて、私たちのために「奴隷」となってくださったのです。なぜイエス様は、「神のあり方を捨てて」「奴隷となる」ことを選ぶことが出来たのでしょうか。それはイエス様が、「父なる神様の愛」に絶対的な信頼を置いていたからではないかと思うのです。たとえ自分が、神のあり方を捨てたとしても、自分がどんなに人に蔑まれたとしても、またどんなにむごい死に方をしたとしても、父なる神の愛は絶対に変わらない。そしてそのみこころに従って、しもべとなりきることが出来るなら、父は必ずそれを祝福へと繋げてくださる。そのように、信頼しきっていたからなのではないかと思うのです。

2. 身を低くするために必要なもの

これは私たちも同じです。私たちは、まず自分がどれほど価値のある存在かが分かっていないと、喜んで自分を低くすることは出来ないのです。そして、その価値は、自分がどんな状況に置かれたとしても決して変わらない。そのことに、心から信頼できてはじめて、喜んで自分を低くする道を選び取れるのではないでしょうか。その鍵は、周りとの比較の中ではなく、神様との絶対的な関係の中に生きるということです。

このことについて、図を用いて説明してみたいと思います。

ここに3人の人がいます。

左の人は、自分を実際の自分よりも大きく見せようとしています。これを虚栄心と言います。こういう人は、承認欲求がとても強くなります。そして人と自分を比べて、優越感を感じることで自分の価値を確認しようとします。当然、自分を低くするなんてことは出来ません。

逆に右の人は、自分を実際の自分よりも小さくしています。これを自己卑下と言います。こういう人は、他人と自分を比較して、いつも劣等感を感じています。「自分なんてダメだ」という思いが強いので、本当の意味で自分を低くすることが出来ません。

それに比べて真ん中の人は、等身大の自分を正しく受け止め、受け入れることが出来ています。これが「謙遜」です。虚栄心も、自己卑下も必要ありません。なぜなら、比較の世界から解放されて、ありのままの自分を受け入れることが出来ているからです。こういう人は、自らの意思で自分を低くすることを選び取ることが出来るんです。

またそういう人は、周りの人のことも心から祝福し、そのありのままの素晴らしさを伝えてあげることが出来ます。「謙遜」な人に祝福されると、その人も比較の世界から解放されるようになるのです。

でも実際には、「ありのままの自分」を知り、「それを受け入れる」ということは、そう簡単なことではありません。その鍵となるのは、私たちを造られた神様との絶対的な関係です。

神が私を造られた。私は造られた者に過ぎない。そして、この神の守りなしには一瞬たりとも生きていくことは出来ない。でも、そんな神様が、個人的に私に目を留めてくださり、愛してくださっている。私たちは、神様との正しい関係に生きる時、そのようなことに目が開かれ、神様の愛のうちに「ありのままの自分」の姿を見出すようになるのです。

この「ありのままの自分」という自己認識には、2つの側面があります。

1つ目は、「私は神様に無条件で愛されている、最高傑作だ」ということ。もう1つは「私は神様なしでは、全く取るに足らない存在だ」ということです。神様は、この全く取るに足らない私を、最高に愛してくださっている。この神様への全き信頼と服従、これこそが「謙遜」を生み出す鍵なのです。そして、私が低くなればなるほど、神様の素晴らしさが100%現れてくださる。そういう信頼のもと、喜んでしもべとなることを選び取ることが出来るのです。

さて聖書の中で、イエス様の他に「地上の誰よりも謙遜だった」と言われる人物がいます。皆さん、誰だか分かるでしょうか。それは、モーセです。民数記12章3節にはこのようにあります。新改訳の第3版でお読みします。

さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
民数記 12章3節(新改訳第三版)

3. モーセの謙遜に学ぶ

モーセと言えば、イスラエルの民を引き連れてエジプトから脱出し、海を分け、シナイ山で十戒と呼ばれる神の掟を受け取った、あの偉大なリーダーです。そのモーセが、誰よりも謙遜と言われるのは何故なのでしょうか。この言葉が書かれたのは、モーセが実の姉であるミリアムと、実の兄であるアロンから批判を受けた時のことです。彼らは、モーセだけが神様と特権的に話をしている状況をねたんでいたのです。すると、神様はミリアムとアロンを呼び出し、こんなことを語ります。

なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか。
民数記12:8

ここで、神様がモーセのことを「わたしのしもべ」と呼んでいることに注目したいと思います。この「しもべとなる」ということこそが、謙遜である人の一番の特徴だからです。「しもべ」という称号は、神の国にとって最も栄誉ある称号なのです。

モーセは、神のしもべとして、神様からの信頼を受けていました。彼は、神の前で身を低くし、神のしもべとして仕えました。そして、人の前で身を低くし、人々のしもべとして仕えたのです。モーセには、いつも困難な状況があり、常に民からの批判にさらされていました。しかし、それら一つ一つの前に身を低くし、いつも神様の指示を待ち望みました。だから、批判されてすぐにカッとなって言い返すようなことはありませんでした。神の前にも、人の前にも身を低くしていたのです。だからこそ、彼は「誰にもまさって非常に謙遜であった」と言われたのです。

でも彼は、生まれながらに謙遜だった訳ではありません。彼も、少しずつ、少しずつ、謙遜を学んでいったのです。今日は、このモーセの訓練のプロセスに焦点を当てて、私たちもどの様にして「謙遜」を身につけていくことが出来るのか、4つのステップに分けて考えてみたいと思います。

(1)主の御手で砕かれる

まず第1のステップは、「主の御手で砕かれる」ということです。モーセはその生涯の初めから、神様からの特別な計画を持って生まれました。モーセは、ヘブル人でありながら、エジプトの王子として育てられるという、非常に特殊な立場に置かれていました。その当時、ヘブル人はエジプトで奴隷として虐げられていました。そして、モーセが40歳になった時、彼に大きな転機が訪れます。同胞であるヘブル人に対して、憐れみの心が与えられたのです。出エジプト2:11-15を見てみましょう。

こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。次の日、また外に出てみると、見よ、二人のヘブル人が争っていた。モーセは、悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言った。彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜した。しかし、モーセはファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った。
出エジプト記 2章11~15節

モーセは、ヘブル人の側に立って、正義の行いをしたつもりになっていました。意地悪をしているエジプト人を打ち殺し、ヘブル人を助けたのです。しかし、その行為は誰にも喜ばれることはありませんでした。ヘブル人からも受け入れられず、ファラオからの怒りも買い、結局そこから命からがら逃げ出すしかないという最悪の結果になってしまいました。モーセが、自分の力や立場を過信し、それによって解決しようとしたからです。

私たちは、しばしば、この様にして「痛い思いをして砕かれる」という経験をします。そしてモーセのように、その場所から逃げ出し、もうダメだ。ああ自分はなんて愚かなヤツなんだと、自分の姿に涙することがあるのです。それは、自分の失敗からかもしれません。または、自分ではどうすることも出来ない不可抗力にようものかもしれません。例えば、震災やコロナ禍もそうです。会社の業績不振とかもそうです。人間関係のトラブルもそうです。いずれにせよ、そういった何か自分の思いとは違う「痛い思い」を通らされているとするならば、その中には、必ず神様の取り扱いがあるのです。

ですから、「痛い思い」は、主の訓練の始まり、「謙遜」を身につけるための主の訓練の第一歩として、信仰を持って受け止める必要があります。そこで終わりではありません。そこから、始まるのです。

(2)主が導かれた場所で心を決める

第2のステップは、「主が導かれた場所で心を決める」ということです。モーセは、ファラオのもとから必死になって逃げて、ミディアンという場所に行き着きました。モーセはミディアンの井戸の傍で、ある人の娘たちと出会います。そこで、彼女たちが他の羊飼いたちに嫌がらせをされているのを守りました。そして、娘たちの父にせがまれるまま、この家族と一緒に暮らすことにするのです。出エジプト2:21-22にはこうあります。

モーセは心を決めて、この人のところに住むことにした。そこで、その人は娘のツィポラをモーセに与えた。彼女は男の子を産んだ。モーセはその子をゲルショムと名づけた。「私は異国にいる寄留者だ」と言ったからである。
出エジプト記 2章21~22節

ここで心に留まるのは、「モーセは心を決めて」とあることです。私たちは、不本意な形で、ある状況の中に導かれることがあります。自分の願っていた進路ではなかったとか、自分の理想としていた環境ではなかった、こんなはずではなかったと感じることもあると思います。でも、その場所で、「心を決めて」生きるということが大切です。こんなはずじゃなかったという思いで、いつまでも現実から逃避していては、その場所で神様が与えようとしておられる訓練を一つも受けることが出来ないのです。

私は大学を卒業して、5年ほど会社員として働いていました。進路選択の時に、神様のために仕えたいと思いつつも、その時は積極的な導きを感じられずに、ある意味消去法でその仕事をしていました。初めの1、2年は本当に試練でした。でも、そんな「いつかはやめる」「腰掛けでいい」という感覚を、主は取り扱ってくださいました。そして思わされたのです。「私が、ここでしっかりと心を定めて仕え、必要なレッスンを学ぶことが出来なければ、神様は決して次のステップに導いてくださらない。」なぜなら、神様が置かれたところには、すべて意味があるからです。神様は、それ以降の仕事を祝福してくださいました。そして、その後には、きちんと主に仕える道も開いてくださいました。それは、あの時に「心を定めて仕える」と決心したことが大きかったと思うのです。

(3)日常生活の中で忠実に仕える

第3のステップは、「日常生活の中で忠実に仕える」ということです。モーセは、そこでツィポラという妻と、ゲルショムという子供が与えられ、しゅうとイテロの羊を飼っていました。聖書の中では、この部分はほんの数節で終わる出来事なのですが、なんと彼はその生活を40年間続けたのです。

しかし、この何気ない日常に、しっかりと身を置き、忠実に仕えるということ大切な訓練はありません。子育ての中では、うまくいかないこともたくさんあります。誰も準備ができたから親になるという人はいません。子育てをしながら親になるのです。羊飼いとしての仕事も同様です。羊と触れ合い、1匹1匹を大切に養い育てる思いで接することを通して、自らの技術も、人格も練られていくのです。

今年、私たちは、10×10の実現を来年に控え、ファミリー牧者が強められ、増やされることに本腰を入れたいと願っています。主任牧師である、恵賜先生がそのために覚悟を決め、講壇から降りる決断をし、メッセージの機会すらも私に委ねてくださり、本腰を入れて取り組んでくださっています。先日は、ファミリー牧者のための一泊二日のリトリートも行いました。

今、アメリカのアズベリーという神学校でリバイバルが起こり、圧倒的な聖霊の臨在の中、讃美と祈りと悔い改めと和解のわざが続いているというニュースを聞かされています。リバイバルは、今も現実のものなのです。そして主は、この地においてもリバイバルを起こしてくださると信じます。でも、歴史上、そのリバイバルが本当に成功したかどうかというのは、この後に分かるというのです。それが単なる一過性のもので終わるか、それとも彼らが養い育てられ、地域に違いをもたらしていくことが出来るかどうかは、小グループの存在にかかっているのです。

ですから、ファミリー牧者の皆さん、そして、今はまだ自分が牧者になるなんてイメージできない皆さんも、リバイバルに備えて今から心を整えていきましょう。私たちは、家族を養う、羊を養うという日常生活の中で忠実に仕えることを通して、自分自身も成長させられるのです。

(4)主の前で正直に本気で祈る

第4のステップは、「主の前で正直に本気で祈る」ということです。モーセは、そのミディアンの地での40年を経て、いよいよ神様からの語りかけを受けます。燃える柴から、「モーセ、モーセ」と自分を呼ぶ声を聞き、その場所が聖なる場所であることを示されます。そして、神様からの召命の御言葉をもらうのです。出エジプト記3:7、10です。

主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
出エジプト記 3章7、10節

モーセは、元々ヘブル人に対する憐れみがありました。しかし、かつての経験から痛い思いをし、すっかり自信も失っていたのです。でも、そんな自分に、神様は今、語りかけてくださった。モーセはここで、正直な思いを神様にぶつけます。そして、モーセは神様と会話の中で格闘するのです。

「私は、いったい何者なのでしょう。」(3:11)
「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。」(4:1)
「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。・・・私は口が重く、舌が重いのです。」(4:10)
「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」(4:13)

これらの言葉は、かなり弱々しい言葉にも受け取れます。モーセは、ここでただ「謙遜していた」のでしょうか?それとも、ただ逃げたかったのでしょうか?そうではありません。ありのままの自分自身が見えているからこそ、自分の正直な思いを神の前に注ぎ出していったのです。

当然、かつての失敗が頭によぎったことでしょう。自分がいかに傲慢であったかが、身に染みるほど見えてきたことでしょう。あの後の、辛い、嫌な経験が、心に蘇ってきたかもしれません。でも彼は、逃げ出さずに、祈ったのです。そして、神様と祈りの格闘をした後、結局最後には、モーセは神様に従順に従って立ち上がったのです。神様が働かれるためには、モーセの「弱さ」と「従順」と「信頼」が必要でした。モーセはもはや、自分の力で行うのではない。これは100%神の御業なのだということが分かっていました。それこそが、モーセが学んだ「謙遜」なのです。

謙遜な人というのは、「謙遜して」何もやらない人ではありません。むしろ、「神のしもべ」として、「はい、仰せのままに」と従って仕えることが出来る人です。でも、自分が「全く取るに足らない存在である」ということと、「私が無となればなるほど、神様は100%働いてくださる」ということを知っているからこそ、自分を捨てて仕えることが出来る人です。もちろん、そこには祈りの葛藤があります。でも、最後には「はい従います」と言えることが、謙遜なのではないでしょうか。「謙遜」とは、自らを低く、もっと低くすることです。私がゼロで、神様が100となってくださることを待ち望むことです。水は低いところへ、低いところへと流れます。神様の力も、低いところへ低いところへと注がれるのです。「謙遜」こそが、神様の力を一番体験できる道なのです。

皆さんはどうでしょうか。喜んでしもべとなることが出来るでしょうか?主は、あらゆることを通して、私たちを砕き、整え、私たちが謙遜の道を歩むことが出来るように、導いてくださっています。それは、あなたが最も輝く生き方なのです。なぜなら、自分の力ではなく、完全に主に信頼して歩むとき、主がすべてのすべてとなってくださるからです。

イエス様は、私たちのために喜んでしもべとなってくださいました。イエス様は、私を決して見捨てることはしません。このお方が、私たちを「謙遜」の道へと招いておられるのです。私たちも、イエス様のこのへりくだった姿に学び、キリストの心を心として、歩ませていただきたいと思います。

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