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2023年1月22日 キリストの心とともに(1)

2023年1月22日 キリストの心とともに(1)
イザヤ書 61章1節 池田恵賜 主任牧師

この二週間、今年教会に与えられたイザヤ61章1節のみことばから「父なる神がイエス・キリストをこの世界に遣わされたように、私たちも聖霊とともに貧しい人たちのところに遣わされている」ということを見てきました。そして、神様は私たちを友としてくださり、ご自身のご計画を予め語ってくださるということ、私たちを神の器として用いるために私たちの自我を砕かれるということを見てきました。その上で、私たちは神が遣わされるところへ自分の意思で一歩踏み出す決断が必要だとお話ししました。

今日も、まずイザヤ61:1aをご一緒に読んで始めていきましょう。

【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。”イザヤ61:1a

今日は「貧しい人に良い知らせを伝えるため」というところに目を留め、とくに「貧しい」という言葉に焦点を当てていきましょう。

1. 貧しい人たちに関する聖書の教え

貧しい人に関する教えは、聖書全体に点在していて30分ですべてを話すのは難しいのですが、今日は特に大切なポイントと、そこから私たちが聞くべきメッセージを簡潔にお話しできればと思います。開く聖書箇所も多いですが、聞いてくだされば結構です。ファミリーシートに聖書箇所がプリントされていますので、後でご確認ください。

まず「貧しい」という言葉についてですが、聖書の中で「貧しい人たち」というと、社会的に弱い立場に置かれている人々を指す場合が多く、例えば、障がいをもって生まれた人とか、病人や奴隷、在留異国人などで、自分でその状況から抜け出す力がない人たちということができます。

2. 貧しい人に対する二つの解釈

そのような「貧しさ」や「貧しい人たち」に対して、ユダヤ人の間には二つの解釈があったようです。一つは「貧しさというのは神の祝福の外側にあるものだから、貧しい人というのは神に呪われるような行為をした人たちであり、そのような人には関わらない方がいい」という解釈です。もう一つは「貧しい人たちに関わり、彼らを顧みることは神の喜ばれることだ」という解釈です。一見相容れないように見える解釈ですが、どちらも聖書を根拠にしています。見ていきましょう。

(1)神の祝福から外れることで貧しくなる

まず「豊かさは神の祝福であって、貧しさは神の呪いだ」という考え方です。申命記28:1-2,8を見てみましょう。

“28:1 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
28:2 あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
28:8 【主】はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。”

主の御声に忠実に聴き従う者は祝福されるというみことばです。次に申命記28:15,20-21を読んでみましょう。

“28:15 しかし、もしあなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
28:20 【主】は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと混乱と懲らしめを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、たちまちにして滅びる。これは、わたしを捨てたあなたの行いが悪いからである。
28:21 【主】は疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが入って行って所有しようとしている地から、あなたを絶ち滅ぼす。”

主の御声に聞き従わない者は呪われるということが書かれています。これらのみことばから、祝福されている人は主に従っている人で、病気などで貧しさの中にいる人は主の御声に聴き従っていない人たちだという解釈が生まれてきたのです。

たとえば、マタイ19章でイエス様が「金持ちが天の御国に入るのは難しい。それよりらくだが針の穴を通る方が易しい」と言ったとき、弟子たちは「それなら一体、誰が救われるのか」と言って驚いたとあります。それは彼らが「神の祝福を受け、豊かになった人が天国に入れないなら、誰が天国に入ることができるのか」という解釈に立っていたからです。

(2)貧しい人を顧みる

このような解釈に対して、もう一つは「貧しい人を顧みることは神に喜ばれることである」という解釈です。申命記24:12-13を見てみましょう。

もしその人が貧しい人なら、その担保を取ったままで寝てはならない。日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は自分の上着を着て寝て、あなたを祝福するであろう。また、そのことはあなたの神、【主】の前であなたの義となる。”申命記24:12-13

担保として取れるものが上着しかない貧しい人に対して、上着を取ったまま夜を過ごさせてはならないと、貧しい人を顧みるように命じられているのです。そして、その行為は「主の前であなたの義となる」とあり、神様が正しい行為として見てくださることが書かれています。またレビ記19:9-10には、

あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、【主】である。”レビ19:9-10

と勧められています。自分の土地の収穫であっても落穂は拾い集めず残しておき、土地もなく収穫もできない人たちがそれを拾い集めて自分の食料とすることができるようにしなさいという教えです。自分の土地を持ち、収穫がある人たちは、憐れみの心を持ちなさいというのです。

このように旧約聖書には、「貧しさは神の祝福の外側にある」という教えと、「貧しさの中にいる人たちを顧みなさい」という二つの教えがあるのです。そして聖書を読むとイエス様の時代、一般庶民の間では、前者の「貧しい人たちは神の祝福を経験していないので、罪があって神から罰せられている人たちだ」と考える人が多いように見受けられます。

3. イエス様の貧しい人たちに対する態度

では、イエス様は貧しさの中にいる人たちに対してどのような立場に立っておられたのでしょうか。イエス様は、後者の「貧しい人々を顧みなさい」という立場に立っておられたようです。イエス様はあるとき、多くの財産を持ち、律法をすべて守ってきたという人が「どうしたら永遠のいのちを得ることができますか」と聞いてきたときに、このように答えています。マタイ19:21です。

イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」”マタイ19:21

「財産を売って貧しい人たちに与えなさい」とは、かなりハードルの高い要求です。これはイエス様が無理な要求をこの人に突きつけたということではありません。この聖書箇所は、とても興味深い箇所で、ここから一つのメッセージをすることができるほどですが、今日は今日のテーマである「貧しさ」から外れないようにしたいと思います。このやり取りから分かることは、イエス様は富が与えられた者、財産が与えられた者たちが貧しい人たちに対して憐れみの心を閉ざし、貪欲になることに対して警告を与えているということです。

イエス様は別の箇所で、遺産の分け前について兄弟間での争いの仲裁をお願いしてきた人にこのような話をしています。ルカ12:13-21です。

“群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」”ルカ12:13-21

私たちが豊かになるのは、確かに神の祝福です。そして祝福された人に、神は憐れみの心を持つように求めておられるのです。しかし、神の祝福によって与えられたものを、まるで自分だけのもののように扱い、憐れみの心を閉ざす者は貪欲な者であって、神の前に何一つ宝を積んでいないというのです。

イエス様の時代のユダヤ人は貧しい人を裁きの対象と見るだけでした。しかし、イエス様はその人たちに憐れみを示してくださったのです。

4. 貧しい人たちに関わることが大切な理由

次に、その理由について見ていきましょう。イエス様は、なぜ貧しい人たちに憐れみの心を持つようにと教えられたのでしょうか。少なくとも二つの理由があるように思います。

一つは、貧しい人たちに関わることは「イエス様に繋がる」ことだからです。マタイ25章で、イエス様が終末の話をしたときに、空腹である者に食べさせること、渇いている者に飲ませること、旅人に宿を貸すこと、裸の人に服を着せること、病気の人を見舞うこと、牢にいる人を訪ねることは、わたしにしたことだとして、このように言います。マタイ25:40です。

すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』”マタイ25:40

貧しい人、困っている人の中にイエス様がおられて、彼らに仕えることはすなわちイエス様に仕えることなのだというのです。人間的な表現をすれば、私たちはイエス様に返しても返しきれないほどの恵みをいただいています。いま私たちがイエス様に遣わされた場で貧しい人、弱い立場にいる人、困っている人を助けることは、イエス様に対してしていることになるというのです。そのような意味で、私たちは貧しい、弱い立場にいる人たちに仕えることによって、そこでイエス様と出会うことができるのです。

もう一つの理由は、弱い立場の人を助けることによって、自分自身が神の前に「貧しい者である」ことを自覚するためです。

私たちは本来、神の御声に聞き従わず、神から離れ滅びる者でした。聖書で言うところの弱い立場に置かれた人たち、自分で自分を救い出す力のない貧しい者とは私自身のことなのです。聖書の「貧しさは神の呪いだ」というときの「貧しさ」は、社会的に弱い立場に置かれた人たちのことではなく、霊的に神から離れた私たちの状態のことを指しているのです。ヨハネ9章で盲目の人に対して弟子たちが「この人が罪を犯したのですか。両親ですか」と聞いたとき、イエス様は「そのどちらでもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と言って、社会的弱者が罪ゆえに神の祝福の外側にいるのではないことを明らかにしました。

貧しい人たちに関する聖書の二つの教え、「貧しさは神の呪いだ」という教えと「貧しい者を顧み、憐れみなさい」という教えは、義であり愛である神が「罪人である私」を見たときのことを表しているのです。義なる神に対して罪を犯し、神の祝福の外側にしか立てない私たち。そんな私たちになんとか憐れみを与えようとする神の愛が、この二つの教えに表されているのです。このギャップを埋めるためにイエス様は神の在り方を捨てて人となってくださったのです。「貧しい」私を救うためです。

三浦綾子さんの小説「塩狩峠」で、神の愛が分からない長野青年は、自分を救いに導いた伝道師からのアドバイスで「良きサマリア人」のみことばを実践しようとします。そして、自分を利用してばかりの同僚、三堀にとことん神の愛を示そうと決心します。しかし、あるときに自分こそが強盗に襲われ、倒れて助けを必要としている人そのものであることに気づくのです。そしてイエス・キリストこそ、倒れている自分を助け出してくれた良きサマリア人であったと知り、彼の人生は変えられていきました。

私たちは、自分こそが神の前に倒れている貧しい者であることを知る必要があります。その上で神の助けを受けとって、はじめて立ち上がることができるのです。いま私が生きているのはただ神の愛によるのだと知ったとき、はじめて私たちは神の使命を受け取って、貧しい人たちに良い知らせを伝える働きができるのです。

5. 地域の必要に仕える教会として

本郷台キリスト教会は、地域に仕える教会をビジョンに掲げて様々な働きをしています。しかし、このメッセージを準備している中で、私は「自分たちはできている」と決して言えないと思わされました。本郷台キリスト教会ではこれまで、社会の狭間にいて助けを必要としている人たちの必要に応えたいという重荷を与えられた人を中心に働きがスタートしてきました。何人か同じ思いが与えられた人たちが集まり、祈り始めて働きがスタートします。働きがスタートすると、次に、働きを軌道に乗せ、継続性を持たせるための取り組みをします。安定した運営や良い人材の確保のため、経済的に安定するように取り組みます。そのために助成金を受けたり、法人格を取ったりもしてきました。そうすることで安定もしますが、一方で様々な規則や制限も加わってきます。そして結果的に制度外の人たちに対して動けなくなるということも経験しました。

そんなときに私が振り返るのが、10年も前に当時の栄区長からお茶っこはうすにいただいた手紙です。

「お茶っこハウスのスタッフの皆様

新年おめでとうございます。
石巻の未曾有の被害の中、いち早く現地に入られ、復興に向けた取組がなされていることに深く敬意を表します。また、先日は、ご多忙の中、訪問させていただきありがとうございました。
皆様方のお取組みがきっかけで、11月には本郷台駅前で石巻焼きそばや女川の特産物の販売を実現できました。多くの区民が復興に向けて何らかの貢献ができたと大変喜んでいました。また、私たちも石巻や女川の皆様との交流につなげられそうです。ありがとうございました。

先日、お茶っこはうすをおじゃました際に、ある女性の方のお話がとても印象に残っています。
娘さんが女川で津波により亡くなられ、今は、自助努力で修繕した自宅でお孫さんとともに暮らしているそうです。仮設住宅の方々は注目されているが、自分たちのような存在もわかってほしいと言われていました。ハウスでおいしいお茶を飲むのが楽しみとも言われていました。しかし、どう声をかけてよいのかわかりませんでした。ただ、聞くだけでした。もっと、聞いてさし上げればよかったと後悔もしています。自分の無力感を痛感しました。
皆様のような地域に根ざした取組をつなげていくことが何よりも大切なのかもしれません。行政は、ある一部を担えるだけです。制度外のことには、機能不全に陥ってしまうだけです。今回の訪問で、お一人お一人のこころに寄り添う、献身的な活動の重要さを学ばせていただきました。

寒い日が続きますが、どうぞ、お体を大切に石巻復興のために取組を進めていただきますようお願いします。また、石巻の状況なども教えていただければ幸いです。栄区民全体で、石巻、女川を支えていけないか考えています。区役所としても何らかできることがあれば対応します。よろしくお願い申し上げます。

2012年1月5日 横浜市栄区長 尾仲 富士夫」

制度の中に入れば「安定」は得られるかもしれませんが、制度外のことになると機能不全に陥ってしまいます。「教会」というコミュニティは制度に囚われずに、困っている人を見たらいつでもすぐに助けられる存在でありたいと願います。

たとえば、今回のウクライナ避難民支援のようにです。そのためには、実際に動けるスタッフがいて、それをサポートする人たちがいて、何よりも「神の憐れみの心」が中心にあることが大切です。教会がそのように動いたときに、周りの人も神の祝福の働きに巻き込んでいくことができるのです。今回も受け入れチーム以外に、教会の外から日本語を教えてくださる方や、彼らの作った物を買ってくださる方、彼らのアルバイト先の方々、自治会の方々など、多くの方のサポートをいただけていることは感謝なことです。

最後にこの教会の主任牧師として、「本郷台キリスト教会は、今年与えられたイザヤ61:1にあるように、主が遣わされる場所にどこへでも出ていき、遣わされた先で出会う弱い立場に置かれている人々に対して、イエス様に仕えるように仕えます」と宣言します。

働きの現場に行って仕える人、その働きを祈って支える人、ともに一つとなって「キリストの心とともに」福音の良い知らせを伝えていきましょう。

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