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2023年11月12日 石巻オアシス教会10周年記念礼拝「繋がる力→」

2023年11月12日 石巻オアシス教会10周年記念礼拝「繋がる力→」
ヨハネの手紙 第一 4章7〜12節 池田恵賜 主任牧師

今日は石巻オアシス教会の10周年記念礼拝です。

振り返ってみますと、石巻オアシス教会が誕生する大きなきっかけとなったのは2013年1月26日の出来事でした。この日、一般財団法人オアシスは評議委員会を開き、当時八幡町にあった復興支援センター「お茶っこはうすオアシスに常駐するスタッフが必要です」とお話ししました。すると、そのとき評議委員として出席しておられた趙先生がスッと手を挙げて「私を石巻に遣わしてください」と言われたのです。その応答を受けて、本郷台キリスト教会は趙先生を牧師として石巻に派遣することを決めました。そして、その年の11月10日に石巻オアシス教会として1回目の礼拝が持たれることとなりました。

その日から10年が経ったわけです。オアシス教会を通して、これまで16名の方々が洗礼を受けられました。石巻オアシス教会がここまで導かれたのは、ひとえに神様の恵みです。また、そこには神様の御声に聞き従った趙先生ご夫妻の献身があったことを覚えます。心から感謝いたします。石巻オアシス教会を10年間導いてくださった神様が、これからどのように導いてくださるのか共に期待して歩んでいきましょう。

さて、今日私が皆さんにお分かちしたいテーマは「繋がる力」ということです。震災の復興支援から始まったこの働きをここまで続けてこられたのは、様々な方々と出会い、繋がって助けられてきたからです。神様が与えてくださった一つひとつの出会いがなければ、ここまで続けてくることはできませんでした。石巻オアシス教会の10周年にあたって改めて「繋がる力」ということを感じています。

私たち一人ひとりの力は弱くても、繋がることで強くなれます。一人ひとりの力は限られていても、繋がることで大きな可能性を持つことができます。聖書を見ても「繋がる力」は大切だと分かります。イエス様は、自分の後継者として誰か一人を選ばれて訓練したのではなく、十二弟子を選ばれました。また、あるときイエス様は弟子たちを二人1組にして、ご自分が行かれるつもりの村々に遣わされました。それは、私たち人間が一人ひとりは欠けのある存在で一人では倒れてしまうけれど、誰かと一緒に働くことで助け合うことができるからです。伝道者の書にはこのように書かれています。

“二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。”
伝道者の書4:9-10

私たちは、誰かと繋がっているなら倒れても立ち上がることができます。他の誰かと繋がることで助け合い、支え合うことができるようになり、一人よりも大きな働きができるのです。これが「繋がる力」です。

しかし、例えば私たちは毎日多くの人たちとすれ違っていますが、そこで「繋がる力」が発揮されることはありません。なぜなら、私たちはすれ違うだけの人と自分とが繋がっているというふうには意識していないからです。まずは、お互いが繋がっているという意識を持たなければ「繋がる力」は発揮されません。私たちはお互いに何か共通する部分があれば、繋がっていることを意識しやすくなるでしょう。例えば、田舎が一緒とか、出身校が一緒とか、同じ趣味を持っていると分かると、お互いの距離はグッと縮んで繋がり易くなります。しかし、距離が縮まって共通の話題があるというだけでは「繋がる力」が発揮されるまでには至りません。

「繋がる力」が発揮されるためには共通の目的意識が必要です。

1. 共通の目的意識を持つ

「繋がる力」を理解するために一人の人を紹介したいと思います。みなさんは賀川豊彦という人物をご存じでしょうか。賀川豊彦の名前を聞いたことがないという人でも、「農協」や「生協」というのは聞いたことがあると思います。賀川豊彦は、大正から昭和にかけて現在の農協や生協のシステムを作った人です。農業協同組合、生活協同組合、労働組合といった「協同組合の父」と言われています。賀川豊彦は二十歳の時に結核にかかり死を覚悟します。その経験から、彼は残りの人生で貧しい人たちを助けることを決意し、当時東洋一の規模となっていた神戸のスラム街に移り住みます。そこで食料を配ったり、捨てられた赤ん坊を引き取って育てたり、無料塾を開いて学校にいけない子どもたちに勉強を教えたりしたのです。彼の功績の大きさは、彼がノーベル平和賞の最終候補に3度も挙がったことからも分かります。やがて賀川は、留学の道が開かれアメリカに渡ります。そこで大きな転機となる光景を目にします。アメリカの労働者がストをして自分たちの権利を主張していたのです。その時、賀川は「目先の困っている人を助けるだけでなく、貧困を防ぐ社会の仕組み作りが大切だ」と気づくのです。帰国した賀川は再びスラム街に戻り、「弱い者であっても手を取り合い、助け合い、支え合うことができる。正当な権利を主張し、世の中の仕組みをより良く変えられる」ことを訴え相互扶助、助け合いの精神を持った協同組合を立ち上げます。そして、当時は資本家の労働力としか見られていなかった労働者に一致団結する必要性を説きます。それまでの労働者は、たとえ仕事で大けがをしても何の補償も受けられずに切り捨てられるだけでした。切り捨てられた労働者は働くことができずスラム街に住むようになり、悪事に手を染めていくのです。そこで生まれた子どもたちもまた同じ道を歩んでいくという悪循環が生まれていました。そんな彼らに対して賀川は社会的弱者が助け合い、負のスパイラルから抜け出せるような仕組みを作っていったのです。

弱い者同士であっても、共通の目的意識を持って繋がるなら「繋がる力」は発揮されるのです。この「繋がることによって発揮される力」というのは、最近でいうとクラウドファンディングという形になっていたり、FacebookやTwitter(X)などのソーシャルネットワークの会社が力を持っていたりすることからも分かります。

2. 「繋がる力」の限界

しかし、共通の目的意識を持って「繋がる力」が発揮されたとしても、それで十分ではありません。先ほどの賀川豊彦の協同組合の働きですが、やがてなかなか変わらない世の中の仕組みに対して、暴力を用いて変えようとする過激な人たちが出てきました。時代の流れもあったと思いますが、大正、昭和にかけて日本という国はまだまだ法治国家として未成熟でした。抑圧されていた労働者の中から暴力に訴えてでも国や政治の仕組みを変えようとする者、またお金絡みで不正な利益を得ようとして裏切る者などが出てきたのです。そこで賀川はそれらの運動から身を引く決断をするのです。

残念ながら「繋がる力」にも限界があるのです。「繋がる力」が発揮されるためには、共通の目的意識が必要なのですが、逆を言えば共通の目的意識がなければ「繋がる力」が発揮されないのです。また、その目的が一緒でも手段が違えば「繋がる力」は分裂してしまいます。

ですから、私たちクリスチャン、そして教会は「繋がる力」を持つだけでは十分ではありません。今日のメッセージタイトルは「繋がる力」としましたが、「力」の後ろに「矢印」をつけています。この矢印は「繋がる力」から次に進むという思いを込めての矢印です。

では「繋がる力」の先にあるものとは何でしょう。
「繋がる力」の先にあるものは「繋げる力」です。

3. 「繋がる力」→「繋げる力」

「繋げる力」とは、共通の目的意識がなくても、または全く関係がない所にも、繋がりを作り出すことのできる力のことです。いわば、全く関係のない人や集まり、いや関わりたくないと思っている人たちとさえ繋がりを作ろうとする力です。

私たちは関わりを持ちたくないと思ったらなるべくその人から遠ざかろうとします。自分の居心地のいい場所を作って、そこに留まろうとします。しかし、私たちの救いの原点を考えるなら、私たちは居心地の良いところに留まり続けることはできないのです。繋がりを持つことができない究極の関係は、罪人である人間と神様との関係です。人は自らの意思で罪を犯し神に背を向け、神との関係を断ち切ってしまいました。そのときから「罪」という壁ができて神と人との関係は断絶しました。もはや神の側から人に、人の側から神に繋がりを持つことができなくなってしまったのです。しかし、その壁を打ち破り、神と人との関係を「繋げる力」が働いたのです。

繋がりを持つことのできない神と人との関係を「繋げる力」、それはイエス・キリストの十字架の力です。イエス・キリストの十字架によって神と人との関係は修復され、私たち人間は十字架によって神様と繋がることができるようになったのです。このイエス様の十字架の「繋げる力」は、神と人との関係だけでなく、人と人との関係にも働きます。私たちはイエス様によって、この「繋げる力」を与えられたのです。Ⅰヨハネ3:16にこのように書かれています。

“キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。”
Ⅰヨハネ3:16

「イエス・キリストが私のために十字架で死んでくださった」このことを信じることによって、神の愛が分かるのです。この神様の愛こそ「繋げる力」の原動力です。そして、その愛によって私たちはどのような人をも愛することが出るようになるのです。Ⅰヨハネ4:7-12にはこのように書かれています。

“愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。”

神の愛を受けた私たちにキリストの十字架によって「繋げる力」が働き、関係が切れてしまったあの人とも繋がることができるのです。そのようにして、神の愛がキリストの十字架によって救われたあなたから広がっていく姿がこの聖書箇所には書き記されているのです。

本郷台キリスト教会には「10×10」というビジョンが与えられています。それは2014年に与えられ、10年間で日本に10倍の祝福が与えられるというビジョンです。2014年に10年ということで与えられたので、来年が約束の10年目ということになります。このビジョンの根底に流れているのは神様の日本に対する愛です。しかし、このビジョンが与えられる前から神の愛は私たちの中に注がれていました。

2011年3月11日、東日本大震災で大きな被害が出ていると聞いたときに、すぐに私の中に被災地支援に行かなければという強い迫りが与えられました。東北の沿岸部は一度も訪れたことのない地域でしたが、被害を受けた人たちを助けたいと感じたのです。すぐに教会で緊急役員会を開いたところ、全員が賛同してくれて教会として被災地支援をすることができました。そして皆さんと出会えたのです。繋がりのなかったところに繋がりができたのです。この背後にはイエス様の十字架による「繋げる力」が働いたのだと感じています。そして、きっと趙先生の内にも同じ思いが与えられて石巻に遣わされてきたのでしょう。

3.11。「あのことがなければ」そう思います。特に近しい人を突然の震災で亡くされた方々の痛みは、私には計り知ることはできません。しかし同時に、被災されたある方が震災後、振り絞るようにして、私にこう言ってくださいました。「震災は、私から家族も、家も奪った。怖い、辛い思い出だけど、でも、でも、この震災がなければ、あなたたちと出会えなかったのよね」と。私はこの言葉を忘れられません。

過去に起こったことについて、「あのことがなければ」という思いを消すことはできません。また、その過去を変えることもできません。ですから、これからの人生で、「あのことがあったから」と、言えることを一つずつ増やしていけるようにと願うのです。私たちはそのためにこれからも石巻の方々と共に歩んでいきたいと願っています。

そのために、私たちは「繋がる力」の先にある「繋げる力」を、イエス様の十字架からいただき、神様の愛を広げていきましょう。そして、石巻のまだ繋がっていない人たちにも祝福が広がっていくように、またさらに牡鹿半島にも広がっていくようにと願わされています。

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