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2023年11月12日 信仰によるささげ物

2023年11月12日 信仰によるささげ物
ヘブル人への手紙 11章4節 木島浩子 伝道師

以前読みきかせのボランティアをしていたとき、リクエストが多かったのが、「セロ弾きのゴーシュ」という宮沢賢治の童話です。特に、猫が主人公を訪ねて来て、「これ、食べてください」、と、トマトを差し出す場面、「誰が貴様にトマトなど持ってこいと言った!第一そのトマトだって俺の畑のやつじゃないか!しかもまだ赤くもならないのを毟ったりして!」と、怒鳴られるところで、皆大笑いします。贈り物の精神に悖る、とわかるからです。さらに、猫なりに、訪問には手土産が要るかな、と思ったことへの共感とか、大人に叱られた時の自分の経験とか、青いトマトにいろいろな思いが重なるのかもしれません。

私たちが何かをささげる、というとき、その姿勢はどのようでしょう。また神さまは、ささげ物をどのように見られるのでしょうか。第一と第二礼拝では、創世記のアベルという人から、「信仰によるささげ物」について見ていきたいと思います。創世記4:1~8です。

人はその妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は主によって一人の男子を得た」と言った。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。アベルもまた、自分の羊の初子の中から肥えたものを持ってきた。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
創世記4:1~8

アベルは、人類最初の弟です。夫婦、親子に、兄弟という関係が加わりました。兄弟、という響き自体は、教会の黎明を思わせるような、弾力や広がりを感じます。

兄弟はエデンの園を知りませんが、園と自分たちの住む場所との境界線がどこか、知っていたかもしれないなと思います。聖書には、罪を犯した人が園に戻れないように、ケルビムと炎の剣が東に置かれたと書かれているので、兄弟たちも遠くにそれを見て、両親にいろいろ尋ねたかもしれません。「あれは何」、「どうしてあれがあるの」、「どうしてあの先には行けないの」……。

私たちは義務教育でたくさんのことを学びますが、アベルたちの学ぶ範囲は少なかったでしょう。世界史などは聖書のたった2ページ分でよかった。でも人が知らなければならない最も大切なことは、すべてそこにあります。創造主、人の罪、断絶。そして、神が示された未来です。

アベルはやがて来られる救い主については知りません。でも、罪を犯した人を、探しに来られ、皮の衣で覆われたお方、失望に終わらない希望を予告されたお方のことを聞いて、自分の主、としたのです。天地創造の話に、現代の多くの人は、ついていけない、と言います。大昔過ぎて、作り話にしか聞こえない、と。しかしアベルも、私たちと条件は同じでした。園から離れた者は、神を肉の目で仰ぐことはできなかった。

信仰は、どんなときにもまず、見えないものを受け取るかどうか、です。

信仰によって私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。
へブル11:3

「悟る」を詳しく訳した聖書で読むと、『信仰によって私たちは、「理解する」のです。』となっています。

初めは、神と人とが一緒にいました。何もかも完全でした。しかし、大きな欠けができました。神のことばへの信頼が欠けたのです。不完全になった地にアベルは住み、その中から信仰のささげものを持ってきたのです。これこそ回復への道です。カインもささげものを持ってきたのですが、主はアベルの方に目を留められ、カインの方には目を留められませんでした。

――理由として、アベルのささげ物はいけにえとしての血が流されたから、と言われることもあります。でも、主は、大地の実りを祝福される。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、とご自身を穀物に例えられたこともあるのです。――では、主はささげ物の何をご覧になったのでしょう。はっきりとした記載はありません。ただ、創世記にはこのようにあるのです。「主はアベルと、そのささげ物に目を留められた」。

ここに、主の大切な三つの視点があると思います。

1. 主はささげ物を、その人の信仰と切り離して見られない

一つ目、「主はささげ物を、その人の信仰と切り離して見られない」、ということです。主は「カインとそのささげもの」には目を留められなかったのです。カインに目を留められなかったのではありません。カインがささげ物からも主からも離れたときに、だれよりも心配し、声をかけられたのは主ご自身です。「神よ、どうして私が差し出した物には目を留められなかったのですか?」と、主はカインに尋ねてほしかった。交わりを通して、彼が主の心を知るようになってほしかったのです。

2. 主は、ささげものが砕かれているか

二つ目、「主は、ささげものが砕かれているか」をご覧になります。

まことに私が供えてもあなたはいけにえを喜ばれず、全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。
詩篇51:16

人は、霊も、体も、そのほか必要なすべてのものを神から受けました。主を愛さないことも、従わないこともできるほどの自由な意志もです。その中から、人が主に持っていける唯一のささげもの、それが、自ら砕かれた霊です。

私たちは、どこか、カインは殺人者、アベルは崇高な人格の持ち主、とイメージしがちですが、神さまの目には、二人とも最高に愛する息子たちです。そしてどちらも変わらない、罪を持った人なのです。ただ、アベルは、高く聖い神さまが、こんな自分を顧みてくださる、ということに砕かれたのだと思います。背きの罪を持った土のちりに過ぎない自分。しかし、主は心を留めてくださる、と。

天が地上はるかに高いように、御恵みは主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主はご自分を恐れる者をあわれまれる。主は私たちの成り立ちを知り、私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。
詩篇103:11

神が心に留めてくださる、ということで、私には思い出す出来事があります。ずいぶん昔ですが、うちの子供たちが学校からそれぞれ同じ封書を持って帰ってきたことがありました。それは就学援助金の申請書で、受理されると給食費や修学旅行の費用、眼鏡を購入する費用までが免除される、という内容でした。感謝して、4枚並べて記入していきましたが、項目の最後に、生活が窮乏している理由を具体的に書く、という欄があったのです。ここに年収を書き、源泉徴収を添付すれば余裕で審査に通る。通るけれども、窮乏の、「乏」の字は、詩篇23篇のあの字です。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」と、ピンチのたびに告白し、その通りに今まで養われて来た我が家ではなかったか。それなのに、今いそいそ乏しい理由を書くのはどうか。……でも、記入さえすれば、月々の給食費と、修学旅行費が無料になり、実際助かる。……悪いことをするわけではない、書いて出そう、と思ったりやはり告白と違うことはできない、としまい込んだり、期日ぎりぎりまで悩みました。しかし結局、私は申請書を4枚書いて提出したのです。ただ、窮乏の理由の欄はどうしても書くことができないで、空欄のままに。そうしたら、区役所から呼び出され、「記入に不備あり」で呼ばれたほかの人たちと窓口の前に並び、面接を受けることになりました。係の人に空欄で出した理由を問い質され、もう仕方なく、『聖書に、主は私の羊飼いとあって、やっぱり私は乏しくないはずなので』、と、用紙を受け取って帰ろうとしました。すると、木島さん、と、係の人が、私を呼び止め、「私、実はカトリックの教会の信者で」、とおっしゃるのです。そして「そういうことなら、まあ」と言ってハンコを押してくださったのです。

援助がなくても乏しくならない、と信じ、用紙をはじめから提出しなければ、主はそのように支えてくださったと思う。でも、最後の空欄は書けない、というたったそれだけのことにも、わたしは心を留めていたよ、わたしはあなたの告白に応える者だよ、と教えてくださった気がしました。今までどこにいても、何をしていた時も、何かをできなかった時も、主はずっと、私に心を留めて、愛してくださっていたと。

信仰がなければ神に喜ばれることができません。
へブル11:6a

と言われると、何か責められているようで、自分を劣等生のように思うことがありました。でも主がおっしゃりたいのは、その逆なのです。土のちりにすぎないあなた、しかしあなたの信仰は、わたしの喜びなのだよ、だから砕かれて、わたしを信じなさい、と言っておられるのです。

信仰は望んでいることを保証し、目に見えない物を確信させるものです。
へブル11:1

信仰は、自力で信念を保つこととは全く違います。信仰を保証し、確信させてくださる主がおられるのです。

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であったことが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。
へブル11:4

3. ささげ物の真価は、主が証明してくださる

三つ目、「ささげ物の真価は、主が証明してくださる」ということです。

アベルは、良いささげ物をしたのですが、その結果、妬まれ、殺されてしまいました。彼がささげた物がどのように素晴らしかったか、後世の者は誰も知りません。しかし、主が証しされました。アブラハムよりも、モーセよりも先に、アベルはわたしに最上のものを持ってきてくれた。あのささげ物に、わたしは希望を見た、と語られているように思うのです。

主の希望、それは教会の希望です。

新約聖書の祭司、律法学者たちは、主イエスのことばに信頼せず、嫉妬と、傲慢のゆえに主を十字架に追いやりました。人々にいけにえの信仰を教えていながら、自分の罪とは何かがわからず、罪が赦されるとはどういうことかもわからなくなっていたのです。しかし主は、真理の御霊を通して私たちに真のいけにえについて教えてくださいました。

……この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
へブル12:2

今私たちが見上げる主は、地上で砕かれきったお方です。

…彼は私たちの背きのために刺され、私たちの罪の為に砕かれたのだ。
イザヤ53:5

十字架でたった一度の完全ないけにえをささげ終え、主は今着座されています。それまでの礼拝では、毎回祭司が立ち続けていましたから、へブル人はこの手紙の内容を、にわかには信じられなかったに違いありません。「モーセの教えと違う」と。しかし、アベルはモーセ以前の人でした。誰に命じられたわけでもない、おそらく主ももってこい、とはおっしゃらなかった。でも、彼は、いけにえを持って来た。それは良いささげ物でした。

アベルと同じく殉教したステパノの最期も、聖書は伝えています。

しかし聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
使徒7:55

人々は、彼に対して、はらわたが煮えくり返るほどでした。でも主が証しされているのです。わたしは、あの時、御座から立ち上がって彼のささげ物を受け取った。とりなしのささげ物、人生をかけてわたしを信じたというささげ物を。わたしと彼の霊が一つになって、あまりにも感動し、着座したままでは受け取れなかったから、と。

エペソ4:5に、「主は一人、信仰は一つ…です。」とあるように、信仰のささげ物は、十字架の主という偉大なささげ物の本質とつながります。与え尽くしてくださったお方を喜ぶ力は、人生をささげる力となります。私の考え、私の物、私の権利、と思わなくなる解放の力です。それはまた、人を主に導く力です。聖霊の神は、わたしたちにエデンの園で注いだ霊をもう一度吹き込んで、キリストと交わり、ささげる力を与えてくださるのです。

第三礼拝は、石巻オアシス教会と繋がっての礼拝です。

私はかつて石巻に伺ったとき、ご家族や住む家を失った方々の深い悲しみを思い、恐れました。自分がさせていただけることなど何もない。話を聞き、祈ることだけでもできるだろうか。しかし、それすら不快に感じられるのではないか。ボランティアの私は一週間もすれば、ガスや水道の完備された家に帰り、生きている家族と会える身で、寄り添うなど傲慢ではないか、という恐れでした。でも、それは杞憂でした。石巻の兄弟姉妹は、本当に砕かれた心でご自分の痛み、呻きを主に注ぎ出されました。まっすぐ主に向かって祈られました。趙先生を通して流れる主の愛、人と人との愛に結ばれました。

感謝、感謝、すべてに感謝、という賛美が、未曾有の被災経験から生まれていることに、驚かない人はいません。日本はどうなるだろう、と注目していた世界に響き渡る信仰告白です。主は、このささげものをどれほど喜んでおられるでしょう。

私たちは皆弱く、太刀打ちできないことにぶつかると、どうしたらよいかわかりません。主を信じ、ささげるのが難しい時もあります。でもそこに、主の御座はあるのです。救い主が御座から立ち上がられる。ご聖霊はその御姿を私たちに見せ、目に見えない方を主と告白させてくださいます。

しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。
へブル12:22

アベルの血よりもすぐれたことを語る、とありますが、アベルの血が語ったとすれば、「私は主を愛していました。私のささげ物は従順を表すものであり、刑罰を受けるに値するものではありません。」との訴えだったでしょうか。その叫びは届きました。主が真実と認め、証ししてくださいました。しかし、主イエスの血は、「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という絶望の叫びです。御子は御父に見捨てられました。見捨てられたからこそ、私たちの罪を覆い、「父よ、彼らをおゆるしください、彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と、身代わりになれたのです。注がれた血は、アベルよりもすぐれた血。ケルビムの向こうから、炎の剣を越え、福音を持って来た血なのです。東と西が遠いように神から隔てられた私たちは神と和解し、呪いは遠ざかって行ったのです。

この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。
Ⅰヨハネ2:2

尊い血のささげ物を受け、あなたを礼拝します。私たちはあなたの愛で結ばれたからだです。そのように応答していく教会は、世に勝利し、世に仕える愛の教会です。

サタンは主についてある私たちより良く知っています。罪に対してあまりにも厳格で、一つの落ち度さえ赦すことができない神であると、偏った知識を刷り込むことのできる知恵もあります。ささげものをしなければいけない。しなければ喜ばれない。一生懸命しているのに認められないのはおかしい。あの人と比べてどうして…それらは待ち伏せた悪しき者に騙されてカインが持って行ったもので、主が求めるささげものとは違います。

私たちは弱さを覚える時、すぐ主の許に行きましょう。砕かれた主の御姿に似たものと変えていただきましょう。全世界が砕かれて、リバイバルをささげるために、主に従っていきたいと思います。

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。
へブル12:28

主をたたえ、お祈りいたしましょう。

ハレルヤ、信仰の創始者であられる主よ。あなたは、私たちの罪を、その血で贖い、あなたの許に帰ることができるようにしてくださいました。あなたは砕かれた信仰のささげ物を、喜んで受けてくださいます。あなたは信仰を完成して、神の国を完成するために、再びこの地に来られます。創造の御業は完全に回復し、兄弟姉妹は一つとされます。その日ために、今私自身を、あなたにささげます。用いてください。 イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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