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2023年11月26日 リバイバルの鍵(2) 献げる祝福~メルキゼデクとアブラムと私

2023年11月26日 リバイバルの鍵(2) 献げる祝福~メルキゼデクとアブラムと私
コリント人への手紙 第二 9章10〜15節 池田恵賜 主任牧師

今日はリバイバルの鍵②として「献げる祝福」について見ていきましょう。

11月12日の浩子伝道師のメッセージで、カインとアベルのささげ物の話が出てきました。メッセージのポイントの一つは「ささげ物はその人の信仰と切り離されるものではない」ということでした。私はメッセージを聞きながら、改めて「献げる」ということが神と人との関係において大切なことなのだと思わされました。

ところで、カインとアベルはどこで「献げる」ということを学んだのでしょうか。少なくとも創世記3章までに「献げること」に関する記事は出てきません。アダムとエバが神様との切れてしまった関係を何とかしたいと思い、エデンの園を追い出されるときに自分たちの罪のために犠牲になった動物からヒントを得たのでしょうか。それとも神様から直接「献げる」ということについて語りかけられたのでしょうか。詳細は分かりませんが、創世記4章に入るとカインとアベルは当然のように神の前に出て、ささげ物を献げています。しかし、その「ささげ物」が人類初の殺人という罪を犯すきっかけになってしまったのです。神の前に出て、ささげ物を献げることが罪の入口となってしまいました。これは「神の前に献げるという行為を軽く扱ってはいけない」という一つの警鐘となる出来事です。

今日はともに「ささげ物」について聖書から見ていきましょう。今日のメッセージを、大きく二つの部分に分けます。前半は、神に献げるとはどういう意味を持つのか、「献げる意味」について。後半は「献げる祝福」について見ていきましょう。

1.「献げる意味」

まず献げる意味についてです。献げると言っても、「礼拝をささげる」とか、「讃美をささげる」とか、「賜物をささげる」などいろいろな側面があります。今日は限られた時間なので、ズバリ「献金/什一」という切り口で「献げる」ということを見ていきましょう。

インターネットで「什一献金」と検索すると「什一は旧約の教えであって新約では勧められていない」と説明しているページがいくつか出てきます。また什一献金が信仰の妨げになっているなんてケースも見聞きします。今日はそのようなことも含めてキチンと「献げる意味」について聖書から理解していきましょう。

まずハッキリしておきたいのは、現代において什一はいわゆる律法ではないということです。律法とは、これを守れば祝福を受け、守らなければ呪われるという教えです。ですから什一を献げなければ立派なクリスチャンにはなれないとか、まして什一を献げなかったから呪われるなんてことはありません。

ただ今日は、律法における什一を説明していると本題をお話しする時間が無くなりますので省かせていただきます。一例として、律法における什一の定めは民数記18:21-とか、ネヘミヤ記10:37-にあります。そこには什一を献げること、什一をレビ人が受け取ることなどが書かれています。関心のある方は、あとでご覧ください。

律法における什一とは別に、神に「献げる」という行為は、初めに話したようにカインとアベルの時代から行なわれていることです。そして「十分の一」という言葉が聖書に初めて出てくるのは律法が与えられる前、アブラハムの時代です。アブラハムがまだアブラムと呼ばれていた頃、ケドルラオメルという王がカナン地方を攻めて、アブラムの甥ロトを捕虜にしていきました。そこでアブラムは一族を率いて彼らと戦い勝利しました。戦いから戻ってきたアブラムを祝福したのがメルキゼデク王です。アブラムはこのメルキゼデク王に十分の一を献げたのです。創世記14:17-20を読んでみましょう。

アブラムが、ケドルラオメルと彼に味方する王たちを打ち破って戻って来たとき、ソドムの王は、シャベの谷すなわち王の谷まで、彼を迎えに出て来た。また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
創世記14:17-20

アブラムがメルキゼデク王に十分の一を献げたということから、私たちは「献げることの意味」について知ることができます。実はこのメルキゼデク王、旧約聖書のこの3節にしか登場していない人物です。注意深く読まないと目に留まることのないほどの短い記事ですが、このメルキゼデクのことを700年後、ダビデ王が取り上げます。詩篇110:4を読んでみましょう。

【主】は誓われた。思い直されることはない。「あなたはメルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である。」
詩篇110:4

ここはダビデ王が聖霊によって「メルキゼデクのような永遠の大祭司が与えられる」と預言した箇所です。旧約ではこの詩篇と創世記の2箇所にしかメルキゼデクの名前は記されていません。そして、これ以降メルキゼデクの名前が言及されることはありませんでした。

そんなメルキゼデク王に再び光を当て、そこに隠されていた霊的な意味を解き明かしたのは、ヘブル人への手紙の著者です。ダビデ王からさらに1000年近く経った新約時代のことです。ヘブル5:8-11を読んでみましょう。

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。
ヘブル5:8-11

ここでヘブル書の著者は、それまで注目されて来なかったメルキゼデクをイエス・キリストと繋げて解釈したのです。しかし、このメルキゼデクについて解き明かすのは困難で、読者であるヘブル人の心が鈍くなっているから「今は無理」だというのです。そして続くヘブル6章で彼らの霊的鈍さについて取り扱い、7章になって、ようやくメルキゼデクの説き明かしを始めます。今日はメルキゼデクについてすべてを解説する時間はありませんので、主題である「献げる」ということに関して見ていきましょう。まずヘブル7:1-8を読みます。

このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです
さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、同じアブラハムの子孫であるのに、民から、すなわち自分の兄弟たちから、十分の一を徴収するように、律法で命じられています。
ところが、レビの子らの系図につながっていない者が、アブラハムから十分の一を受け取り、約束を受けたアブラハムを祝福しました。言うまでもなく、より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受けるものです。十分の一を受けているのは、一方では、死ぬべき人たちですが、他方では、生きていると証しされている人です。
ヘブル7:1-8

大祭司キリストの型であるメルキゼデク

ヘブル書の著者はそれまで光が当てられることのなかったメルキゼデクという存在に光を当て、彼を永遠の大祭司としての「キリストの型である」としたのです。その根拠として、ヘブル書の著者はユニークな聖書解釈をしています。彼はメルキゼデクについて3節でこう言っています。「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです」。ここは別にメルキゼデクが天使のような存在だと言おうとしているのではありません。当然、メルキゼデクは被造物として造られた人間で彼には両親がいたはずですし、生まれた日も死んだ日もあるはずです。しかし、それらに関することは聖書に記されていません。そして、敢えて「聖書に記されていない」という部分にヘブル書の著者は霊的な意味を見出すのです。

その解釈の後ろ盾になっているのが、先に読んだ詩篇110篇4節です。ダビデ王が永遠の大祭司について預言した箇所です。ダビデ王が預言する前も後も、誰もメルキゼデクの存在を深く捉えていませんでした。しかし「系図も、誕生も、死も記されていないメルキゼデクという存在は、やがて来られる永遠の大祭司の型である」とヘブル書の著者は言うのです。

そのメルキゼデク王にアブラハムが十分の一を献げて祝福を受けたことは2つの点において意味があります。

ささげ物を「献げる側」と「受け取る側」

一つは、ささげ物を「献げる側」と「受け取る側」の役割が明確にされたことです。

アブラハムと言えば「ユダヤ人の祖」であり、また「信仰の父」としてすべての信仰者を代表する存在です。ヘブル7章4節以下を読むと、レビ人もアブラハムを通して什一をメルキゼデクに献げたのだと解釈されています。レビ人はアブラハムの子孫として生まれてくるからです。

律法では什一を受け取る側と定められているレビ人もアブラハムを通してメルキゼデクに什一を献げ、祝福を受けたのです。

メルキゼデクとアブラハムの間に律法は関係していません。ですからアブラハムは律法を守るためにメルキゼデクに十分の一を献げたのではありません。さらにメルキゼデクがキリストの型で、アブラハムが信仰の父として私たちを代表しているなら、これは「献げる」ということにおける「神と人との関係」を表しているのです。つまり「私たちは神にささげ物をし、神は私たちを祝福してくださるお方だ」ということを明らかにしたのです。

献げる相手を明らかにする

そして、もう一つの大切な点は、アブラハムのささげ物は「献げた相手がどのようなお方であるか」を明らかにした点です。4節にアブラハムは一番良い戦利品の十分の一を与え、メルキゼデクがどんなに偉大であるかを示したとあります。神へのささげ物は律法で定められているからするのではなく、私たちの神への畏れと感謝のあらわれです。私たちが何をどのように献げているかで、神をどのようなお方として捉えているかが明らかになるのです。

そしてカインの例でいうと、献げるという行為は神に近づくことでもあるので、サタンも狙っているわけです。心と信仰が伴わない献げ方は、罪の入口ともなるので注意が必要です。私たちは、私たちを愛してくださった神に心から最良のものを献げるのです。

これが、私たちが神にささげ物を献げる意味です。

2. 「献げる祝福」

次に後半部分、「献げる祝福」について考えていきましょう。まずイエス様のことばに目を止めましょう。マタイ23:23です。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
マタイ23:23

什一を献げていても正義とあわれみと誠実をおろそかにしていては本末転倒です。「神のみこころを実践しつつ、十分の一もおろそかにしてはいけない」とイエス様は語られました。そして新約聖書の中から「献げる」というときによく引用されるのがⅡコリント9:6-7です。

私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
Ⅱコリント9:6-7

この聖書箇所から「自分の心で決めたとおり喜んで献げられるものを献げれば良い」と理解している方もいます。しかし、その理解で止まっていてはもったいないほどの「献げる祝福」の原則が第二コリント9章には描かれています。

献げる祝福の原則についてここから二つのポイントを見ていきましょう。

献げることは蒔くこと

まず一つ目は、「献げることは蒔くことで、蒔くことは収穫を期待すること」です。人は収穫を期待するからこそ蒔くのです。ですから蒔くことは減ることでも、失うことでもありません。蒔いた人は収穫を期待するのです。では、私たちキリスト者はどこにどのように蒔くのでしょうか。続く8-9節を読んでみましょう。

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りてすべての良いわざにあふれるようになるためです。「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。
Ⅱコリント9:8-9

ここに素晴らしい約束が書かれています。私たちは貧しい人に惜しみなく分け与え、永遠に義とされるというのです。

東日本大震災のときアメリカのキリスト教系支援団体サマリタンズパースは軍用機をチャーターしアメリカから大量の支援物資を即座に送ってくれました。それらの物資を配布することで「キリストさんが来た」と東北に大きな証しとなりました。まさに困っている人に惜しみなく分け与えてくれたのです。日本もリバイバルが起きてそのような団体が立ち上がるように願います。

さらに蒔く者は、いつもすべてのことに満ち足りて良いわざにあふれるようになるというのです。蒔いたもの以上の祝福を蒔く者は受け取るのです。献げることは蒔くことで、蒔く者には収穫が約束されていることを覚えましょう。

献げることで神と深くつながる

「献げる祝福」の二つ目のポイントは「献げることは神との関係を深める」ということです。10節、11節を読んでみましょう。

種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。
Ⅱコリント9:10-11

神様は蒔く人に「まく種」と「パン」を与えてくださるお方だというのです。そして、それを増やし、増し加え、豊かにしてくださるのです。

みなさん自分の財産が増えるのは嬉しいですか?それが自分や自分の家族のためだけに増えるのではなく、周りの困っている人、弱い人々が祝福され、人々があなたゆえに神に感謝をささげるようになるというのです。そのようにして蒔く人に、神はさらに蒔く種を増し加えてくださるのです。これはもうリバイバルです。私たち献げる者は献げることを通して神の祝福を受け、神との関係が深まり、神がどのようなお方かを体験するのです。

クリスチャンにとって「神を信じた」というのは、ほんの入り口です。そこから「献げる」ことを通して、神の豊かさを体験し、神と深く繋がっていくのです。そして、その根拠となるのはイエス・キリストを私たちに与えてくださった神の愛です。

ですから、献げることをテーマにしたⅡコリント9章はこのように締め括られています。15節です。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。
Ⅱコリント9:15

この賜物とは神からの贈り物のことです。そう、イエス・キリストです。イエス・キリストを信じた私たちが、献げることを通して、すべてを惜しみなく与えてくださった神の愛に目が開かれるのです。

今日、献げる祝福の原則を理解したのなら、あなたが心で決めた一歩から始まって、やがてすべては神のものであり、ことばに表せないほどの神の愛によって私は生かされているということを悟り、神が惜しみなく与えてくださったように、私もまた惜しみなく与える者へと変えられるのです。

そのように献げるあなたの生涯を通して、神の栄光が現されますように。

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