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2024年1月1日 元日礼拝「神の祝福の箱」

2024年1月1日 元日礼拝 「神の祝福の箱」
サムエル記 第一 7章1〜12節 池田恵賜 主任牧師

あけましておめでとうございます。2024年になりました。今年は本郷台キリスト教会にとって大きな節目となる年です。教会創立60周年で、10×10ビジョンの約束の年です。またミッション3000のビジョンが与えられてから30年目となります。

1. 10×10ビジョン

今日はその中でも、特に10×10ビジョンについて触れたいと思います。「10×10ビジョン」は、10年で日本に10倍の祝福が注がれるというビジョンです。つまり、「日本に1000万人のクリスチャンが与えられる」というビジョンになります。私がこのビジョンを与えられたときに「恐れを持って受け止めた」と、以前に証ししました。その恐れの一つが、「10年で1000万人が救われる」なんて言い出しても、10年後には誰も覚えていないのではないか、忘れられているのではないかということでした。しかし少なくとも、皆さんは覚えてくださっているので、その恐れは無くなりました。

むしろ10×10ビジョンを自分のビジョンとして受け止める方々が多くなっているように感じます。特に私の心に留まっているのは、10×10ビジョンを自分のこととして受け止めて2年間の日本縦断宣教旅行を始めた金ジングク兄とまどか姉、また10×10ビジョン実現のために予定を変更して日本に残る決断をしたマーティ宣教師夫妻、そして、10×10ビジョンを神からのチャレンジとして受け止め、国政にチャレンジし国会議員となられた金子道仁先生です。

金子先生は社会福祉やチャーチスクールなどの働きを通して地域教会が貧しい人々、弱い人々を助けキリストの光を輝かせられるように国政の場で取り組んでくださっています。

のあISでも不登校生やクリスチャン子弟の教育に取り組んでいますが、いま追い風が吹いていると感じています。昨年1月まで不登校特例校、現在では「学びの多様化学校」と名称を変えていますが、この学校を「全国で60校造る」と掲げていた文部科学省が、3月になり急に「学びの多様化学校を全国で300校造る」と方針を変えたのです。その追い風に乗って、いまのあISも学校法人取得に向けて動いています。ぜひお祈りください。

10×10ビジョンに対して「風が吹いてきたな」と感じたのは、ビジョンが与えられてから7年目の2021年になってからです。この年に1年延期されていたオリンピック・パラリンピックが無観客開催となり、すべての宣教チームも来日できなくなりました。それならば、その期間日本のために祈って欲しいと呼びかけた「100万時間祈祷」が転機となりました。この期間で世界98ヶ国、11万人のクリスチャンが、日本のために36万時間もの祈りを献げてくださいました。このときから様々なところで主の働きが動き始めました。やはり、祈りは主の働きを進める大きな力となります。

本郷台キリスト教会の中にも10倍の祝福のために立ち上がっている方々が多くおられ、祈りが積まれていることを感謝と期待を持って受け止めています。10×10ビジョンについては、後でもう少し触れていきますが、まずは今日の元日礼拝のために静まる中で与えられたみことばに聞いていきましょう。

今日与えられているみことばは、第一サムエル記7章1節から12節ですが、この箇所を読む前に、この箇所の前に起きた出来事について触れておきましょう。

2. 「神の箱」を巡る騒動

第一サムエル記4章、5章、6章は、モーセの十戒が刻まれた二枚の石の板が入っている「神の箱」を中心に話が進行していきます。「神の箱」に関しては、聖書の中で「主の箱」、「あかしの箱」、「契約の箱」など様々な呼び方がされていますが、すべて同一のものを指していますので、今日は「神の箱」で統一したいと思います。

4章から6章には、ペリシテ人とイスラエル人の戦いが記されています。ペリシテ人とは、現在のパレスチナ人のことです。いまも痛ましい争いが行われていますが、この当時からイスラエルとパレスチナは戦いをしているのです。先日イスラエルの方と話す機会がありましたが、イスラエルでも、パレスチナでも多くの人は平和を望んでいます。なんとかして平和がつくり出されるように祈り続けていきたいと思います。

さて、サムエル記の記事に戻りますが、4章でのペリシテ人との戦いで「神の箱」は奪われ、イスラエルのリーダーで祭司であったエリと、その息子ホフニとピネハスも死んでしまいます。その後、神の箱はペリシテ人の地に持ち込まれますが、神の箱を安置した町では人々に腫物ができるなどの災いが起きます。そのため神の箱はペリシテの町々をたらい回しにされますが、各地で災いが起きます。そこで、とうとうペリシテ人は贈り物をつけて神の箱をイスラエルに送り返すことにするのです。

ペリシテとの国境の町、べテ・シェメシュの人々は返された神の箱を見て喜びますが、そのとき箱の中身を見てしまったため、70人もの人々が神に打たれて死んでしまいます。それを見て恐れた人々は、近くのキルヤテ・エアリムという町に使者を遣わし、神の箱を引き取ってもらうことにします。

ここから7章が始まります。その後どんなことが起こったか、1節から12節をお読みします。

キルヤテ・エアリムの人々は来て、【主】の箱を運び上げ、丘の上のアビナダブの家に運んだ。そして、【主】の箱を守るために彼の息子エルアザルを聖別した。箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は【主】を慕い求めていた。サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって【主】に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を【主】に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」イスラエル人はバアルやアシュタロテの神々を取り除き、【主】にのみ仕えた。サムエルは言った。「全イスラエルを、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために【主】に祈ります。」彼らはミツパに集まり、水を汲んで【主】の前に注ぎ、その日は断食した。彼らはそこで、「私たちは【主】の前に罪ある者です」と言った。こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに向かって上って来た。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。イスラエル人はサムエルに言った。「私たちから離れて黙っていないでください。私たちの神、【主】に叫ぶのをやめないでください。主が私たちをペリシテ人の手から救ってくださるようにと。」サムエルは、乳離れしていない子羊一匹を取り、焼き尽くす全焼のささげ物として【主】に献げた。サムエルはイスラエルのために【主】に叫んだ。すると【主】は彼に答えられた。サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし【主】は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。イスラエルの人々は、ミツパから出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベテ・カルの下にまで行った。サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで【主】が私たちを助けてくださった」と言った
サムエル記 第一 7章1〜12節

「神の箱」は、神の臨在の象徴です。モーセがシナイ山で十戒を授けられてから、その箱は常にイスラエルの中心にありました。ヨシュアがリーダーとなってヨルダン川を渡ったときにも、まず「神の箱」を担いだ人々が川に入り、川の水が干上がったところをイスラエル人は渡ったのです。士師記の時代も、サムエルの時代も「神の箱」は大切に保管されていました。

その「神の箱」がペリシテに奪われるという大事件が起こり、Ⅰサムエル記4-6章でそのことが詳細に描かれています。しかし、7章に入ると急にトーンが変わり、キルヤテ・エアリムに神の箱が置かれ「20年が過ぎた」とあります。あっという間に時間が経過し、なにか「神の箱」のことが脇に追いやられたような印象を受けます。実際、この後「神の箱」にスポットライトが当たるのは、数十年後のダビデの時代になります。ダビデ王が神の箱をエルサレムに運び上る場面です。

「神の箱」は神の臨在の象徴であるとともに、祝福でもあります。ダビデ王が神の箱をエルサレムに運び上ろうとしたときにもひと騒動あり、結果的に神の箱はオベデ・エドムの家に保管されることになります。このとき、神はオベデ・エドムの全家を祝福されたとあります。Ⅰ歴代誌13:14です。

神の箱は、オベデ・エドムの一家とともに、彼の家に三か月とどまった。【主】は、オベデ・エドムの家と、彼に属するすべてのものを祝福された。Ⅰ歴代誌13:14

このようにダビデの時代には神の箱が祝福の基となったことが記されています。しかし、サムエルの時代「神の箱」はイスラエルにとっても、ペリシテにとっても祝福となっていなかった様子が読み取れます。ここから、本来は祝福であるはずの「神の箱」が祝福にならなかった原因を考えていきましょう。

3. 「神の箱」が祝福にならなかった原因

(1)べテ・シェメシュの場合

まずべテ・シェメシュの人々の場合です。

ベテ・シェメシュの人々は、「神の箱」は神の臨在を表す聖なるものであるから「触れたり、見たりすると死ぬ」と神によって警告されていたことを知らなかったのか、知っていたけれど軽く考えていたのかは分かりませんが、とにかく神の警告を無視して、箱の中身を見て裁かれてしまいました。べテ・シェメシュの人々への裁きは「神のことばを軽んじ、神を神としていなかったことへの裁き」と言えます。

同じように私たちも、神を神としない態度で神の前に出ても祝福を受けることはできません。神の前に出るときに、私たちは神の前にひれ伏し、神のことばに聴き従う姿勢を持つ必要があります。

(2)ペリシテ人の場合

次にペリシテ人の場合です。ペリシテ人は、神の臨在を表している「神の箱」を偶像と同じように扱いました。人間の手で作った偶像の神々と同じところに「神の箱」を安置したのです。すると翌日、偶像の神々が神の箱の前に倒れているという現象が起きました。

私たちクリスチャンは全能なる神を「偶像と同列に扱う」ということはしないと思いますが、自分の思い通りに事が運ぶことを願って「神を利用しようとする」危険性はあります。

たとえば神の箱が奪われる直前、イスラエルの指導者は神の箱を戦場にまで運び出して、イスラエル軍の士気を高めるために利用しました。これは神様のみこころを損なう行為でした。

神は全能なる神で、人格をお持ちのお方です。

神に造られた人間こそ「神の前にへりくだり、神を礼拝し、神のみこころを求める」必要があるのに、このときのイスラエルの指導者たちは、自分たちの目的達成のために神を利用したのです。これは全能なる神を偶像の一つや、人間の道具として扱う行為で、神を神の立場から引き下げることです。神はこのような姿勢を裁かれます。

(3)キルヤテ・エアリムの場合

更にキルヤテ・エアリムの人たちはどうだったでしょうか。

受け取った「神の箱」を「アビナダブの家に安置し、息子エルアザルを聖別して神の箱を守らせた」とあります。とても丁重に神の箱を扱っている様子を読み取ることができます。しかし、聖書は続けて「神の箱はそこに留まり長い年月が経った」と記しています。後にオベデ・エドムの全家を祝福されたときとは温度差があります。どうしてそのような違いが起きたのでしょうか。

キルヤテ・エアリムの人々の「神の箱」に対する態度は、いわば「触らぬ神に祟りなし」という態度です。べテ・シェメシュで災いを興した「神の箱」を恐れて、「願わくは自分たちに災難が降りかからないように」という扱いをしたのです。「神の箱」を腫れ物に触れるように扱うのは本来の目的と違いますし、何よりも神の本質を誤解しています。そのような誤解した態度で神と接しても祝福とはなりません。

さて、ここまで、本来祝福であるはずの「神の箱」が祝福にならなかった原因を見てきました。ここからは祝福を受け取るために必要なことを見ていきましょう。

4. 祝福を受け取るために必要なこと

(1)神を神とする

一つ目は、「神を神とする」ということです。

神は人格をお持ちのお方で、私たちの祝福を願っているのです。私たちを祝福するためにひとり子イエス様さえ犠牲にされたお方なのです。ですから、私たちは神を誤解したり、恐れたり、遠ざけたり、利用したりしてはいけません。「神を神として、神の前にへりくだって、神に聞き従う。」これが、人が神の祝福を受ける鍵となるのです。

(2)悔い改め

二つ目は、「悔い改め」です。

神の祝福を留めてしまうのは、私たちの内にある偶像です。

神の人サムエルは、イスラエルに対して「あなたがたの中から偶像を取り除きなさい。そして主に仕えなさい。私はあなたがたのために祈ります」と言いました。その言葉を聞いたイスラエルは、神の前に断食をして出ました。そのとき神はイスラエルに勝利を与えられたのです。

私たちの内にも、たとえ神の声を聞いても「これだけは譲れない」という思いや願い、あるいは恐れが沸いてくるかも知れません。しかしそのようなものがあるならば、それらは偶像となり、神の祝福を留めてしまいます。ときに断食をもってでも、私たちは主の前に出る必要があります。イスラエルは民族として神から離れてしまっていたことを認め、皆で断食をして集まり、悔い改めました。そこから神の祝福が始まったのです。

さて、私たちには10×10という祝福の約束が与えられています。この祝福の約束が祝福となるためには、まず私たちが神を神として、神の祝福を信じる必要があります。そして私たちの内にある神様以上になっている偶像を取り除く必要があります。

私の内に神様の語りかけを「聞けなくしているもの」はないでしょうか。

私の内に神様の語りかけを聞いても「従えなくしているもの」はないでしょうか。

そのようなものがあるならば、それこそ私の中で神様以上になっている偶像です。それを取り除くために私たちは神の前に出て祈る必要があります。

そして、最後にもう一つ10×10ビジョンに関してコメントしてメッセージを終えたいと思います。私が10×10ビジョンを受け取ったときに恐れたのは、それが日本という「国に対するビジョン」だったからです。これは一人で担いきれるビジョンではありません。既に多くの方々が共に担ってくれていますが、ぜひ皆さんもともに担ってください。あなたの心に、祈りに日本を刻み込んでください。

そして担ってくださる方は、自分や自分の家族、自分の教会だけの祝福を求めるところに留まらないようにしましょう。神の祝福は惜しみなく注がれて、どこまでも広がっていくからです。自分の置かれている地域、近所の方々の祝福を求めて祈りましょう。自分が遣わされている学校や職場の祝福を求めて祈りましょう。

祈り始めると困難な状況が明らかになってくるかもしれません。しかし、そここそが祝福の始まりとなるところです。現在、神のみこころがなされていないところに祝福の種を、福音の種を、愛の行ないを蒔いていきましょう。それらは、必ず大きな祝福となって刈り取ることになるからです。私たちは神からの祝福を受け、それをさらに豊かな流れとして次の世代に流すために召されているのです。Ⅰペテロ3:8-9です。

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。Ⅰペテロ3:8-9

今年、私たちの教会は「地域の必要に応える教会」から「地域に必要とされる教会」へと変えられていき、日本の教会にとって良いモデルとなり、祝福となることを信じて求めていきましょう。

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