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2024年2月11日 よろこび ひろがる リバイバル④

2024年2月11日 よろこび ひろがる リバイバル④
ピリピ人への手紙 2章12節 池田恵賜 主任牧師

この数週間、日本宣教の歴史からリバイバルをテーマに考えています。

今日は大正、昭和の時代に二度リバイバルを経験したホーリネスのリバイバルから見ていきましょう。ホーリネスはこのリバイバルを通して大きく成長したのですが、二度目のリバイバルの最中に教団が分裂するという痛みを経験しました。そこから10×10のリバイバルを待ち望む私たちが気を付けるべきことを考えていきたいと思います。

1. ホーリネスの歴史

博牧師の出身教団でもある日本ホーリネス教団は1901年(明治34年)に、創設者の中田重治とカウマン夫妻によって、東京神田で「中央福音伝道館」として始められました。

日本の宗教学者の池上良正は、ホーリネスの群れをこのように評しています。

「初期ホーリネスのもとに集まった人たちの多くは、『思想の人』というより、『実践の人』であった。受容層が一部の旧士族層、知識階級や学生などに限定されがちだった近代日本のキリスト教界にあって、初期ホーリネスはこれらに収まりきれない幅をもっていた。多くの信徒たちの関心は、哲学や思想よりも祈りや癒しなどの実践であり、宣教の場でも単純で平明な言説が好まれた」(「近代日本のキリスト教」池上良正)

「中央福音伝道館」は設立当初、教会や教団ではなく、超教派的な伝道団体として活動していました。毎晩100名以上を集めて伝道集会を開いたり、寄宿舎を備えて聖書学校として訓練生を受け入れたりしながら、日本各地に定期的な巡回伝道をしていました。

とにかく中田重治もカウマン宣教師も伝道熱心で、まだ福音が伝えられていない「未伝地に福音を伝えたい」という情熱に溢れていました。神田の次にターゲットにしたのが山形県の楯岡という町でしたが、その町が選ばれた理由は当時の路線図で「そこが終着駅だったから」ということです。彼らの「未伝地に福音を伝えたい」という情熱が伝わってくるエピソードです。

そして各地に福音伝道館を設置し、彼らの働きの拠点としていきます。その後、神田の中央福音伝道館は手狭になり、新宿の柏木に移転し「聖書学院」と名称を変えます。1905年に彼らの働きは「東洋宣教会」と名付けられ、日本国内だけでなく東アジア宣教も視野に入れていることが分かります。働きを通して救われる人が多く起され、1917年に東洋宣教会は、「東洋宣教会ホーリネス教会(通称:日本ホーリネス教会)」となり、教団としての働きがスタートしました。

初めにお話ししたように、日本ホーリネス教会は大正、昭和の二度にわたりリバイバルを経験しました。そのどちらも聖書学院での熱心な祈りから始まっています。

特に昭和のリバイバルにおいて、熱心な祈りはやがて踊りとなり、皆が熱心に祈りつつ、踊ったので、とうとう食堂の床板が抜け落ちてしまったという話が残っています。

この昭和のリバイバルでは、聖書学院の校庭に5000人入る大天幕が張られ、大勢の信仰決心者を得ました。1928年の時点で教会数160、会員数8400人でしたが、5年後の1933年には教会数434、会員数19523人と倍以上の成長を遂げています。

また日本国内だけでなく、満州、朝鮮半島、台湾、ブラジルにも宣教して、教会を設立しています。

しかし、残念なことにそのリバイバルの最中に日本ホーリネス教会は、創設者の中田派と聖書学院の教授派に分かれてしまいます。その原因を見ていきたいと思いますが、まず前提となっている時代背景を共有しておきましょう。

2. 明治初期~昭和初期: 天皇制とクリスチャン

先ほども少し触れましたが、明治初期のクリスチャンは士族階級出身者が多かったのです。しかも、その中からキリスト教界の指導者となった人たちのほとんどが旧幕府出身者でした。つまり明治維新によって没落した家の人たちです。彼らは政府の中枢で活躍することはできなくなりましたが、向学心に燃え、英語や西洋の近代文化を学ぼうと宣教師たちのもとに集まってきたのです。そのような中で宣教師の人格に触れ、福音を信じ、救われていったのです。

一方で、彼らを含む日本人は何百年にもわたり「人間が神となれる」という思想の中で育ってきました。実際に天下統一をした豊臣秀吉は「豊国大明神」として祀られ、徳川家康は「東照大権現」として祀られています。ですから、初期のクリスチャンたちは救われたとはいえ、そのような神観の影響を受けていました。加えて士族階級出身ということで強い愛国心を持ち合わせていました。

以前お話したように1873年に高札が撤去されましたが、1889年には大日本帝国憲法が発布され「天皇主権」ということが明確にされました。しかし、これに対して当時のクリスチャンたちは声を上げることをしませんでした。「天皇主権」ということに、特に問題意識をもっていなかったのです。

明治生まれの中田重治は、クリスチャンになった後でも天皇に関してこのように発言しています。

「日本は元来このひとりのご人格者によってすべ治められてきた国で、このおかたを、『みこと』と仰ぎ尊んできたのである。これは実に驚くべき思想で、聖書の教えるところと一致するのである」(中田重治全集第2巻)

「天皇主権」とする日本の天皇制は、聖書の教えと何ら矛盾しないというのです。そして中田は戦時中、自分の教団の牧師たちに対して宮城遥拝をするように通達を出しているのです。宮城遥拝とは、日本と東洋諸国からなる「大東亜圏」に住む人々が天皇への忠誠を誓う印として、皇居に向かって敬礼をする行為です。

この時代の皇室に対する、このような対応は中田に限ったことではありませんでした。中田と同時期に活躍したキリスト者である内村鑑三、賀川豊彦なども基本的に同じでした。

新潟聖書学院の中村敏先生は、この時代の天皇制に対するクリスチャンの受け止め方について、このように言っています。

「天皇制に代表される日本精神と聖書に教えられるキリスト教精神を共存させる主張は当時のキリスト者の間にほぼ共通してみられるものであり、中田も例外ではなかったのである」(「中田重治とその時代」中村敏)

このような考え方は「日本人は選ばれた民族である」という偏った選民意識と、「国家神道は宗教ではない」という政府の見解もあり、当時の日本人クリスチャンの意識の中に当然のこととして刷り込まれていたのかもしれません。

昭和初期、当時日本で最大教派の日本基督教会の大会議長で、戦時中、一つにまとめられた日本基督教団の初代統理を務めた富田満は、日中戦争の始まる前年1936年の時点で、天皇を「現人神である」と発言し、「これはキリスト教の神観と通じるものだから、キリスト教徒はこの日本精神に基づいて国策に忠誠を尽くすべき」という趣旨の話をしています。

そして日本のキリスト教会は、欧米の植民地支配からアジアを解放し「大東亜共栄圏」を確立するという名目で始められた太平洋戦争に賛成し、協力したのです。それに基づいて日本の教会の指導者たちは、神の国を広げるという名目で日本が植民地支配した地域に積極的に出ていって伝道をし、アジアの諸教会に天皇を拝ませるという罪を犯したのです。

アジア諸国は、そのような当時の日本のキリスト教会を「日本キリスト教」または「日本帝国のキリスト教」と軽蔑の意味を込めて呼びました。

3. 政教分離について

ここで少し政教分離について話しておきましょう。

政教分離とは、政治と宗教を分けることです。そのように言うと「クリスチャンは政治に関わってはいけない」と思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。

政教分離の目的は、政府が「特定の宗教を国民に強要するのを禁止」することです。つまり、国民の「信教の自由を守る」ことが政教分離の趣旨です。

「信教の自由」はとても大切です。なぜなら神様が人に自由意志を与えたからです。エデンの園でさえも信教の自由はあったのです。私たちは神が人に与えたこの権利を決して侵してはいけません。

戦時に入る前から政府は、「国家神道は宗教ではない。だから天皇に敬礼するのは宗教行為に当たらない」との論理で国民に天皇崇拝を強要しました。

クリスチャンは、政教分離の権利を守るためにも積極的に政治に関わるべきだと思います。

天皇主権ということに対してキチンと声を上げなかったことを通して、結果的に日本の教会は、戦時中「天皇を神として拝むことは、神を拝むことと変わらない」と間違った教えを広めました。そして、ホーリネスのリバイバルも、同時期に展開して100万人以上に福音を伝えたという賀川豊彦の「神の国運動」も、この「戦時」という時代の波に飲み込まれていったのです。

現代に生きる私たちクリスチャンはこのような歴史からも学び、リバイバルの中にあっても目を覚ましてサタンに対抗すべく、絶えず祈りの手を挙げなければいけません。

4. 行き過ぎた再臨信仰

このような時代背景の中、ホーリネスのリバイバルは起きたのですが、分裂の決定的な理由となったのは、中田自身の「再臨信仰」でした。彼は当時アメリカから入ってきたディスペンセーション主義の終末観に立っていました。

さらに彼は、日本人はユダヤの失われた10部族の一つだという「日ユ同祖論」に立って、さきほどお話しした愛国心と相まって「日本が強くなることで、選民イスラエルを救うようになる」と主張し始めます。

そして、1933年に入ると「今年の9月21日に再臨が起こる可能性がある」との持論を展開するようになり、「もはや従来の伝道や教会形成のときではなく、ひたすらキリストの再臨とユダヤ民族の回復のために祈りに専心するように」と力説するようになっていったのです。「主が再臨される前に、聖められた聖徒たちは携挙される。もはや貯金、保険、教育、結婚など取るに足らぬこと。会堂も雨露がしのげればよい。」と主張します。

さらには、「再臨を求めて祈る者は、それを信じて冬物衣類を献げて祈るべきだ」とか、「本は藁屑だ。聖霊だけに頼るべきだ」と言われて、聖書学院の庭で衣服や本を燃やしだす者も出てきました。信徒らの中には、通常の仕事を放棄して再臨に備える者まで出てくる有様となりました。

そのような状況の中、聖書学院の教師たちが中田の指令に対して「NO」を言ったことからその関係に亀裂が走り、リバイバルの最中に教団は分裂してしまいます。再臨信仰をあまりにも強く打ち出したため、リバイバルの機運が高まるのと同調して、再臨待望の熱気はいよいよエスカレートしていき、とうとう脱線してしまったのです。

5. 信仰の同心円

私たちはこのような行き過ぎた主張に対して、どのように捉えたら良いのでしょうか。以前にも話しましたが、この図を見て整理していきましょう。

これは「信仰の同心円」の図です。私たちが何を信じているのか、それがどのような重要性を持っているのかを表した図です。中心にあるものほど重要です。

中心にあるのは聖書です。私たちは聖書を「神のことば」として信じています。そして聖書の中心はイエス・キリストの十字架です。クリスチャンならば誰でも一致できることです。

次の円は「教義」です。教義とは、公式な教会会議で定められた教えのことです。たとえば「三位一体」「キリストの二性一人格」です。「三位一体」とは、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神はそれぞれ独立した存在だが、「一つの神である」という教えです。

「キリストの二性一人格」とは、キリストは100%神で、同時に100%人であるという教えです。聖書に直接、「三位一体」とか、「キリストの二性一人格」という言葉は出てきませんが、私たちはそれを真理の教えとして信じています。この教義の部分においても、すべてのクリスチャンは一致できます。もし教義でズレたら異端と判断されます。

次の円の「教理」とは、聖書の教えを論理的、体系的にまとめたものです。たくさんの教派、教団がそれぞれの教理をもっています。教理には、いくつも違う立場があります。そして、この教理の分野では一致できません。一致しなくても良いのです。それは聖書が不完全であることを表しているのではなく、神様の大きさを表していると言えます。

そして「説」は、教理に至っていない分野です。

聖書から読み解くには、未だ十分な情報がないものや、あえて聖書が明らかにしていないトピックです。終末論や福音を聞かずに死んだ人たちの扱いなどはここに入ります。

終末論に関しては、いくつかの説があり、現時点でどれか一つを取って他を間違っているとは言えません。

私たちは間違った聖書の教えに惑わされないため、また聖書解釈がズレないために、教理の部分で自分の立ち位置を持つことは大切ですが、教えや解釈では一つになれないことも自覚しなければいけません。

確かに「自分の信じている教えが正しい」と信じなければ、前に進む力とはなりませんが、「自分の信じていることだけが正しい」となると、そのような集団はカルト化しやすいことも自覚しなければいけません。

このバランスを見極め、常に主の前に自分は何者でもないことを覚え、へりくだりつつ祈り、他者を認める者でなければいけないのです。それがキリスト者として「成熟する」ということです。

6. パウロの場合

パウロは初め「自分の生きているうちに再臨がある」と思っていました。

Ⅰテサロニケ4:17を読むとそのように受け取れます。

それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
Ⅰテサロニケ4:17

生き残っている「私たちが」と書かれています。Ⅰテサロニケはパウロの手紙の中でもごく初期に書かれた手紙です。ただその後、パウロは「自分が生きているうちに再臨が起こる」という主張をしなくなっています。

再臨がいつ起こるとかいうことは本質的な問題ではないからです。再臨まで生き残っていたとしても、先に召されたとしても大きな違いはありません。それは神様が主権をもって定めておられることだからです。

ですから、再臨について聖書から私たちが教えられる大切なことは、①イエス様が再びこの地上に来られるということ。②すべての人は肉体をもってよみがえり、神の前で裁きを受けるということ。➂イエス・キリストを信じている者は救われ、神の国に入るということ。④再臨の予兆を知ることはできるが、いつ起こるかはだれにも知らされていないということです。

6. 復活の信仰に立つ

最後に、私は、「再臨信仰」も大切ですが、いまの日本にもっと必要なのは「復活信仰」ではないかと思うのです。日本人は何かというと「死んだら終わり」とか、「死んで花実が咲くものか」とか、「死んで責任を取る」という言い方をします。

これらの言葉は「私たちの人生を最終的に支配するものは何か」という大切な問いかけをしています。

どんな生活を送っても最終的に死に飲み込まれる人生なのか、それとも死の力を打ち破り復活されたキリストが支配する人生なのか、そこをハッキリさせることによってその人の生き方が変わるのです。パウロはピリピ2:12でこのように言っています。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
ピリピ2:12

「自分の救いを達成するように努めなさい」とは、「死という絶望で自分の人生は終わるのではない。イエス・キリストの十字架によって、死は復活のいのち、キリストとともに永遠に生きる希望への扉である」と確信を持つことではないでしょうか。

「あなたの人生は死が支配して終わるものではない」このメッセージこそ、今の日本に必要なメッセージです。再臨が近づいていることは確かですが、だからと言って「いつ起こるか」「どうしたらいいか」と不安になる必要はありません。神が私たちとともにいてくださるからです。

大切なのは、自分の救いを達成するために、最後まで十字架を見上げて歩み続けることです。そうするならば、私たちは日々キリストに似た者へと変えられていきます。あなたを命がけで愛してくださったイエス様を見て、イエス様が与えてくださる十字架を背負い、イエス様の足跡に従って、復活の希望をもって生きるなら、あなたから祝福が溢れ流れていくのです。

その祝福は、死に対しても勝利するほどの力強いものなのです。

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