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2024年4月14日 目を天に向けて

2024年4月14日 目を天に向けて
詩篇 123篇1節 木島浩子 伝道師

私たちは先月イースターの礼拝をささげました。朝のお祈りの配信でも、イースターで受けた恵みを何人もの方が語っておられ、感動が新たになりました。

2000年前の今頃はちょうど、イエスさまが復活の御身体で使徒たちにお会いになり、ともに過ごされた時期に当たります。使徒たちにとって、十字架刑というあまりにもむごい形での別れ、そして3日後の再会は、単に悲しい、とか、嬉しい、という許容量をはるかに超えた衝撃だったでしょう。さらに、40日後、今度は天に上げられ、見えなくなってしまったのです。主が昇天された、という事実を、彼らはどう受け止めたでしょうか。今日はその場面に目を留めてみたいと思います。

使徒1:3~11です。

イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日に渡って彼らに現れ、神の国のことを語られた。使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのはこの時なのですか。」イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
使徒1:3~11

彼らは主が雲に包まれて見えなくなるまで、見つめていました。現代ならスマホを必死でかざすでしょうか。実際にその場にいなかった人も、SNSで繰り返し見て、画像の真偽に甲論乙駁するかもしれません。

2000年前の弟子たちは、主が上げられた、という「現象」だけをとらえたのではありません。昇天された主のことばが、彼らの心をとらえたのです。みことばは、人の記憶に残るだけではなく、人が生きる本当の目的を思い出させます。「思い出す」をもっと能動的に言うと、「思い起こす」となります。心の奥に埋もれ、眠っている思いを、みことばが揺さぶり、起こすのです。そうすると目で見たことの意味も明確になります。

主の昇天は、みことばの3つの真実を、彼らに思い起こさせました。

1 イエスは人となられた神である

一つ目。主が語られた通り、①イエスは人となられた神である、ということです。

当時、人の目に映っていたのは、自分と何ら変わらないイエスの姿でした。母マリヤより生まれ、30歳になるまで大工をしており、ごはんを食べたり眠ったりする普通の男性です。ナザレのイエスが、本当はどなたであるかを思い起こせる人は稀有でした。神と信じた人も中にはいた、とそれが特記事項になるほど稀だった。例えば、ルカの7章2節から9節に出て来るローマの百人隊長です。部下の病の癒しを願いながらも、「あなた様を、私のような者の屋根の下にお入れする資格がない」と、神のことばに拠り頼みました。主は、「わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことはありません」と驚かれました。…ということは、主が生まれ、歩かれたイスラエルに、イエスを尊敬した人はいても、神と信じてみことばを思い起こした人が見つからなかったということです。

父なる神は、御子が洗礼を受けられた時、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と宣言されました。稲妻のような御声を弟子も聴いたのです。しかし、それが何を意味しているのか、深く思い起しません。超自然的なわざを見ては、この方はどういうお方なのだろう、世の基準に収まらない教えには、どういう意味だろう、と、ただ戸惑っていたのです。

そんな弟子の心に、主は切り込まれます。十字架が迫った時でした。

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」
マタイ16:15ー17

天の父は、「いと高き所から霊を注ぐ備え」をされました。イエスが神の子だという告白の上に教会は建ちます。告白は、神の霊の注がれる拠点です。天からのみことばはむなしく地に落ちず、しっかりと思い起こすところに実現するのです。しかし、ペテロはこの直後、主の十字架の予告に「主よ、とんでもないことです。あなたにそんなことが起こるはずがありません。」と否定します。神であれば十字架はありえない、との思いです。

もし、十字架につけようとする者がたちどころに打たれたりすれば。あるいは十字架に架かられても主が平然と降りられたら。いや、最初から神の姿で天から降って来られたら。人はみことばなしに、神を恐たでしょう。皆裁きを恐れ、礼拝したでしょう。しかし主はそうはなさらなかった。私たちと同じ姿をとり、人の世話を受け、ラブリーや、ジョイジョイの子どもたちと同じ幼子になられ、中高生、ランウエイの人と同じ時代を通って成長されました。人の罪を、身代わりにお受けになるためです。イエスはみことばのとおり、すべての罪の贖いを成し遂げられ、本来の場所に上げられたのです。

昇天は神が人となられ地上に来られた、そのことが最も明らかにされた瞬間でした。

「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上げられた方でもあります。
エペソ4:9~10

罪の本質は、自分が高くなることです。能力、地位、生活、すべて他者より上でありたいという願望です。それは、神の上に立とうとしたサタンの性質を人が招き入れたとき以来のものです。

主イエスのほほを打ち、愚弄した兵士、妬み、偽りの告訴をした律法学者を見るとき、私の内に全く同じ本質があることが思い出されます。

思い出には、美しいアルバムにまとめたり、ことばで飾ったりできるものもあるでしょう。それらは思い出すのが楽しいから形に残すのです。しかしそればかりではない。忘れたい思い出もある。嫌な思い出の中に嫌な人、いやな出来事、いやな自分が見えるから、削除しよう、見ないでおこうとしてきた。その中に主との思い出が注がれたのです。私の思いの底辺にまで入って来られ、あなたを愛している。あなたの罪をここから背負っていく、ここをわたしの愛に満ちた場所にしよう、と言って下さった。主は人をご自身で満たすために降り、もろもろの天よりも高く上げられたお方なのです。

ペテロも、上げられた主を見ながら、地上で主がどんなに低く、自分がどんなに高くあったかを思い出したでしょう。彼が十字架の主を、自分とは関係がないと三度も言い泣き崩れたこと、人生が崩壊したと思ったこと。そこに復活の主が入って来られ、愛いっぱいに満たされた。罪の思い出は十字架のあの釘の跡に吸い込まれて自分は傷のない者にされた。それが、永遠の、救いのアルバムです。一人ひとりが、アルバムの中に、思い起こすのです。自分は土の器であるけれど、中身は天からのもので満たされ、生きる者であると。

2 イエス・キリストは今、生きておられる

二つ目。主の昇天は「イエス・キリストは今、生きておられる」ということを思い起こさせます。

主は、ほとんど人知れずベツレヘムでお生まれになりました。しかしお生まれの700年前から、ベツレヘムから統治者が出ると、主の預言者が知らせていました。去られるときにも、いつの間にか去られたら、弱い私たちの性質は、悲しがるだけではなく疑うようにもなるでしょう。イエスはやはり過去の人に過ぎないと、歴史とともに忘れ去るかもしれません。しかし、みことばが語られてなお、「あの方は雲に紛れて消滅してしまった」とは告白しません。昇天は、超自然的なことをことさら重要視する人や、目で見てもなかなか信じられない人が語る物語ではありません。真実の表明です。

それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。
ルカ24:45~49

この約束は果たされました。これこそ主が生きておられる証拠です。心が開かれる前は、自分の経験や常識で聖書を読みます。普通できない。自分にはありえない。書かれていても、そうならない。聖書のみことばには力があると思っても、閉じた心には入ってきません。しかし、使徒たちの心は開かれました。神が、証言する力を与えたのです。神の約束は、生ける神が果たされます。

3 主がまた地上に来られる

そして3つ目。主の昇天は「主がまた地上に来られる」ということを、思い起こさせました。

イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
使徒1:10

主は同じ有様でまたおいでになる。いつでしょうか。白い衣を着た人は、それについては言及しません。弟子たちはすぐ、と信じて、働きました。明日では遅い、と思いながら福音を伝えました。彼らは「おかえりなさい、イエスさま、あなたが地上におられたなら取り戻したはずのあなたの息子、娘たちもほら、ここにいます」と言いたいために働いたのです。ユダヤとサマリアの全土に、ヨーロッパに、地の果てのような日本に、今福音が伝わっているのは、「おかえりなさい、イエスさま!」と叫ぶ望みを、彼らが思い起こしていたからです。歴史の中で、今という時代がどれほど、主の帰って来られる日に近づいているのか、同時に主はどれほど忍耐され、あの息子が立ち返るまで、あの娘もまだ帰っていない、と胸をたたいて先延ばしにしてこられたか。もうこれ以上は、という日が迫っていることを、本当に思い起こす時なのです。

私たちは教会暦さえ刹那主義で捉えがちです。クリスマスを祝い、イースターを祝う。普段仏教徒の方も、テーマパークもこぞって祝う。しかし昇天の日のことは深く思い起こすことが少ないように思います。福音書を通読しても、マタイにもマルコにもヨハネにもない。書いたのはルカです。福音書の最後、主の昇天をもって一旦筆を置き、次に同じ主の昇天の場面から使徒の働きを書き起こしています。ルカは、主の昇天が天と地を結ぶ要だと綴りたかったのでしょう。それは世の初めと終わりを引き寄せる祈りの要でもあります。

同じくルカが書いた9章を見てみましょう

これらのことを教えてから8日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く輝いた。そして見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話しているのであった。
ルカ9:28~31

ここに旧約時代の巨匠がいます。モーセは奴隷だった民族を解放した指導者です。それは単なる自由のためではなく、イスラエルが真の神を礼拝する国家となり証しとなるためでした。しかし民は頑なで、モーセに逆らい、彼自身、約束の地の手前で召されていきます。エリヤも、すべての権威者を敵に回し、主により頼む国こそ勝利と宣言した預言者です。時にはいのちを取ってくださいと懇願するほどそれは厳しい生涯でした。その二人がイエスさまと何を話したのか。31節に「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」、とあります。聖書の欄外の註を見ると、ここは「成就しようとしておられる出発」と書かれているのです。元のことばは「出発について」なのです。

モーセは語ったのではないか。「主よ、あなたの十字架こそ、神の国への出発です」。エリヤも告白したでしょうか。「あなたの十字架と復活は、闇の力を完全に封じます。地上に回復の雨を降らせます」。語り合った後、モーセとエリヤは御子を礼拝したでしょう。主の昇天は単なる地上での別れではない。神の歴史の再出発です。主は再出発のため、祈っておられたのです。

ルカ9章の51節でも

さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。

と記されています。書き出しは、十字架に架かられる日、ではなく、復活の喜びが近づいて来た、でもありません。「天に上げられる日が近づいて」来た。もうその時だ。だから主は進まれたのです。

主の御顔は今も昇天の日の約束を握る教会に向けられています。石巻に、牡鹿に、本郷台に向けられています。世界に向けられています。みことばに耳を傾けるあなたに向けられています。約束の聖霊が注がれるように、とりなしてくださっているのです。

だれが私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
ローマ8:34

とりなす主のみこころ、それは、

時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって一つに集められることです。
エペソ1:10

天の栄光はモーセやエリヤにさえも隠されており、天の故郷は地上の憧れでした。しかし、教会は今、天上の栄光と祝福を地上に運ぶための主の身体とされています。ユダヤ人しか救われないと思っていた使徒たち、私はただしく他者は間違っている、そう考えていた私。でもそうではなかった、ユダヤ人も異邦人もない、地上に人の数ほど違いや壁があっても、最終的に一つとしかなり得ないただ一つの国があるのです。その国の王座を、私たちは見上げているのです。

ルカの書いた「上げられた主」の記録、それはもともとテオフィロという地位の高い人物に宛てた手紙でした。テオフィロは、おそらく主の十字架は知っていた。復活も噂に聞いていたでしょう。でもイエスが本当に神の子であったか、疑っていたと思われます。

処女の受胎告知を信じられない、自分と十字架との関係が分からない、聖書の史実に釈然としない。奪ったり奪われたりしながら、それでも何とか良い人生を目指していきたい。それがテオフィロ像です。そんな彼に、手紙が飛び込んできたのです。

テオフィロ様、私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。
使徒1:1

その日まで神の福音は、ばらばらなパズルのパーツのようだったかもしれません。しかし届いた手紙には、主が天に上げられ、その後約束が果たされたことが記されていました。人々の中にキリストが生きて働き、聖霊に励まされ、前進していった事実です。

今、同じ手紙を読む私たちにも、同じ聖霊が働いておられます。
これは抗えない真実です。主のことばの権威です。
ご一緒に、目を天に上げて祈りましょう。

愛の主の復活を感謝します。主との出会いを感謝します。あなたは高く上げられました。天の御座から、聖いお方の圧倒的な力を注いでくださることを感謝します。しかし、ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになります。あなたにだけ希望を置く私たちに、あなたのみわざが現わされます。

イエス・キリストの御名で、告白し、祈ります。アーメン。

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