お知らせ

2023年10月15日 最も小さい者たちの一人

最も小さい者たちの一人
マタイの福音書 25章40節 池田恵賜 主任牧師
(世界食料デー礼拝 第2・第3礼拝 オンライン配信なし)

(ハンガーゼロ ボリビア駐在スタッフ小西小百合さんの報告と証しを受けて)

さて、ここでみことばから短くお勧めをしたいと思います。マタイ25:40から見ていきましょう。

“すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』”マタイ25:40

このみことばは、ハンガーゼロの土台ともなっているみことばです。最後の審判のとき、王であるイエス様が正しい人たちの前に立って言われることばです。「わたしはあなたたちが最も小さい者たちにした奉仕の一つ一つを覚えています」というのです。

ここで言及されている「最も小さい者たち」というのは、誰のことでしょう。いま小西さんから伺ったボリビアの子どもたちは確かに「最も小さい者たち」でしょう。しかし、それだけでなく私たちの周りにも最も小さい者たちはいるのです。その人は困難の中にいる人かもしれません。病や何らかの弱さを抱えている人かもしれません。

「最も小さい者」と言われる人たちは、あなたが彼らのために何かしても、それに対して報酬を支払うことはできないでしょう。感謝を表すこともないかもしれません。しかし、「そのような人たちにした行為は、王であるわたしにしたことです。そして、わたしはあなたのしてくれたことを決して忘れない」と、イエス様は仰られるのです。なんと励ましになることばではないでしょうか。私たちが報いを求めずに「最も小さい者たち」助けるのはイエス様にしていることなのです。私たちはイエス様の前に立ったときに、そのように言われて天に迎え入れられたいものです。

最も小さい者たちの一人

さて、今日はまず「最も小さい者たちの一人」ということばに注目しましょう。

「最も小さい者たち」と複数形で記されています。つまり、助けを必要としている人たちは私たちの周りに複数いるのです。

「小さい者たち」とは文字どおり、まだ自分の力では食べていくことができない幼い子どもたちと捉えることもできるでしょう。弱さや生き辛さを抱えている人たちと考えることもできます。また子どもや弱さを抱えた人たちだけでなく、大人であっても誰かの助けが必要になるときがあります。自分の力ではどうすることもできない試練に遭っている人たちのことも含めて考えると、私たちの周りで「最も小さい者たち」といわれる人は、たくさんいることでしょう。

「最も小さい者たちの『一人』」というのは、そんな助けを必要としている人を十把一絡げに「神様、私の周りの困っている人たちを助けてあげてください」と、祈って終わりにするのではなく、その中の”一人”と具体的に関わりなさいということを言っています。周りにいる多くの助けを必要としている人たちの中の「一人」と繋がり、その人を助けるために行動する。あなたの手の届く範囲で、あなたの力を必要としている人に具体的に手を差し伸べる。イエス様は、そのことを求めているのです。

MDC(ミッション3000弟子訓練センター)

本郷台キリスト教会では「MDC」という教会内神学校を設けています。MDCとは、Mission3000 Disciple Center、日本語だとMission3000弟子訓練センターの略です。神様が本郷台に与えてくださったミッション3000のビジョン実現のために一年間、訓練を受ける場所です。いま来年度のMDC第11期を募集しています。本郷台キリスト教会の教会員のみなさんは、どこかの時点で入ってくださると良いと願っています。ぜひ祈ってみてください。

MDCでは、教会内神学校ならではの、一般の神学校ではやらないような授業もあります。

第1期生にはみことばの実践のときとして、当時チャペルのあった平和台の住宅地に一人で暮らしているおばあさんのところに週一回行って、お茶を飲んで話をするという授業がありました。その方はクリスチャンではないのですが、いつも1期生の訪問を喜んでくださっていました。それはまさに「一人の人と繋がってその必要に応える」という実践のときでした。

2期生は、ちょうどダイヤモンドチャペルが与えられた年で、外部から見学や研修に来られた方々をもてなすために、ひたすら台所に入って奉仕しました。「毎日、台所でクッキング」これがMDCの本当の名称だと2期生は言っています。「旅人をもてなす」。これが2期生に神様が用意した「小さい者たちの一人に仕える」奉仕だったのです。

もちろん、MDCでなくても「最も小さい者たちの一人」に仕えることはできます。助けを必要としている人たちはあちらこちらにいるのですが、大切なのはその一人と繋がり、報いを求めずに仕えることができるかどうかということです。「最も小さい者たちの一人」に仕えることができるかどうかは、あなたが本物の信仰をもっているかどうかにかかっています。

信仰によって生きる=神に愛されて生きる

先ほど読んだマタイの記事の前の節を読んでみましょう。マタイ25:37-39です。

すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』”

最後の審判のとき、イエス様の前に立った「正しい人たち」は「いつ、それをしましたか」と言って、自分たちのしてきた良い行いを特に意識していなかったようです。なぜなら、彼らは律法ではなく「信仰によって生きていた」からです。どういうことでしょうか?

今度はガラテヤ3:11-12に目を止めてみましょう。

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。”ガラテヤ3:11-12

「義人」、正しい人は律法ではなく、信仰によって生きているのです。信仰とは、目に見えない神が私を愛し、私のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んで、救いの道を開いてくださったということを信じることです。信仰に生きる人は、この神の愛を事実として受け入れ、神の愛に満たされて生きるのです。そのような信仰をもって生きる人は、「神の愛を実感して生きる」ことができます。反対に律法に生きる人は、信仰ではなく律法に従って生きているとあります。そのような人たちは掟に縛られて、「これをしたら裁かれる」、「これは律法に違反する行為だ」と、神の裁きを気にして生きているのです。

「神に愛されて生きる」のと、「神に愛されるために生きる」のは、大きな違いを生みだします。「神に愛されている」と、信じ生きている人は、意識しなくても神の愛を反映させながら、神に喜ばれる働きをするのです。

神に愛されている者として、最も小さい者たちの一人に神の愛を流す者と変えられましょう。

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