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2023年7月2日 愛に生きる私たちの十戒(8)〜聖霊の宮として歩む〜

2023年7月2日 愛に生きる私たちの十戒(8)〜聖霊の宮として歩む〜
出エジプト記 20章14節 佐藤賢二 牧師

「愛に生きる私たちの十戒」というシリーズの第8回目になります。今日も早速、聖書をお読みしていきましょう。出エジプト記20:14です。

姦淫してはならない。
出エジプト記 20章14節

はい、これが十戒の第7戒ということになります。先週に引き続き、無茶苦茶シンプルです!でも、先週の「殺してはならない」が当たり前だよねと思えたのに比べると、この「姦淫してはならない」という戒めは、やっぱりそうだよねと誰もが思えるものではないのかも知れません。特に私たちが生きている時代、この国において、クリスチャンではない人にとって、ひょっとしたらクリスチャンであるという人にとっても、「姦淫してはならない」という戒めが当たり前と認識されていない状況があるのかなと思うのです。私はつくづく思うのですが、日本という国は「性」に関するモラルがとにかく低い、貞操観念が低い国だなと思うのです。というか、拠り所とするべき価値観がない国だなと思うのです。

私は高校生の時にアメリカに留学をしたのですが、その時の私は、正直、アメリカに行けば、「性」に関しての振る舞いも含めて、自由奔放に生活できると思っていたんです。私のイメージです。でも、実際にアメリカに行ってみると、ちょっと印象が違ったんです。確かに、自由に振る舞う人たちも多かったのだと思います。でも、一方で、この「性」という問題に関しても、守るべき価値観がはっきりとあって、それを守っていこうとする人と、そのような価値観があることは知っているけれど、それを無視して歩む人たち、という構図があったように思うのです。それに比べて日本は、そもそも性的な関係を、夫婦の関係だけに留めておくような、絶対的な倫理観はありません。貞操観念というものがないわけではありませんが、それは時代とともに変わっていく脆いものなのです。そして、今ではそんなものを持ち出したら「古臭い」と言われるだけで、結局基準となるのは、周りの人々の目だけという風になってしまっているように思うのです。

若者たちを取り囲む世界では、付き合いが始まったらからだの関係を持つのが当たり前と考えられています。しかも、さまざまなメディアがそのことをさらに助長している状況です。学校教育においてなされている「性教育」は、結婚前にからだの関係を持つことを止めるよりも、避妊教育の徹底という形になっています。そこには、一人一人がどれほど高価で尊い存在なのかという観点や、結婚が本来どれほど素晴らしいものであるのかという事は、抜け落ちているのです。なぜなら、そのような基準や価値観が、今の日本には存在しないからです。

最近も、芸能人の不倫について、やたらとニュースで報道されていますが、あれは一体何なのでしょうか。私はニュースのタイトルを見るぐらいであまり詳細は分かりませんが、なぜか有名人が不倫等でトラブルになると、ほら見たことかと言わんばかりに、その人を叩きまくるのです。あれは一体、何をしたいのでしょうか。もちろん、批判される側の問題もあるのでしょう。でも、そもそも「性」に関してのモラルが低い日本において、勝手に人を偶像化しておいて、その汚れた部分を見つけたら、ここぞとばかりに引きずり降ろす。ある意味、ここに日本社会に縮図を見るような気がするのです。そもそも絶対的な価値観がない世の中にあって、一歩足を踏み外したら周りから袋叩きにされる。私たちは、彼らのような目立つ立場にある人たちのためにも祈らないといけないと思います。イエス様は、彼らのためにも十字架の上でいのちを差し出してくださった。彼らの人生は、好奇の目に晒されて、ただ人々に消費されていって良いようなものではないのです。私たちは、彼らを裁くのではなく、嫌悪するのでもなく、へりくだって神様の愛を指し示す存在でありたいと思います。願わくは、彼らがイエス様の愛を知って、立ち直って歩んでほしい、そう思うのです。

今日は、そんなことを念頭に置きながら、祈りの中で示された3つのことについて、お話をさせていただきたいと思います。

1 「戒め」との向き合い方

まず、第一のことは、「『戒め』との向き合い方」についてです。

十戒をはじめ、聖書の律法には「〜してはならない」という「戒め」がたくさん出てきます。「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」。こういう戒めがあると、何か私たちは、自由が制限されたような印象を持ってしまいます。そして、「何が許されていて、何が禁じられているのか」という議論に終始してしまう傾向があるのです。ここで気をつけなければならないのは、そのことによって「肝心の人間が置き去りにされてしまう」ことがないようにしなければいけないということです。

私たちの陥りやすい罠の1つ目は「律法主義」です。

「自分はそれを守っているから大丈夫」と考えたくなる傾向です。これの問題点は、形式的に守ることで満足してしまい、「戒め」が与えられた本当の意味を考えられなくなってしまうということにあります。

私たちの陥りやすい罠の2つ目は「裁き」です。律法主義の基準で人を裁き、「あいつはダメだ」と指差すことです。

また、逆に自分がそれを守れなかった時には、「自分はダメだ」と自己嫌悪に陥ったり、恥の思いで心がいっぱいになってしまうということがあります。

私たちの陥りやすい罠の3つ目は「ギリギリを攻める」ということです。私たちは、戒めの範囲を定めたら、ギリギリのラインを彷徨う傾向があるということです。

前に学生伝道に携わっている牧師先生が、このように話していました。若い人たちに、性的な問題に関して「どこまでだったらOKなんですか?キスだったらOKですか?」などと聞かれることがあるそうです。まあ、真面目に生きようとする若いクリスチャンにとっては、切実な問題です。先生は、そういう時には、「私は、ここまでだったら良いという線は決めません。どこまででもきよくありなさい」と答えるそうです。先生は言うんです。本当の問題は、「心が破る方向に向かっている」ということであり、ここまでならOK、ここを超えたらダメだというラインを決めるのは意味がないということなのです。

そう考えると、私はこうした「戒め」というのは、実はこういう感じなのかなと思ったんです。

この図は、近づけば近づくほど逃げられなくなっていくブラックホールのようなイメージです。そこに近づかなければ、自由に動くことが出来ます。でも、近づくにつれて危険が増していき、ついには自由が奪われて抜け出せなくなってしまうのです。「〜しては行けない」という戒めは、ここにそういう落とし穴があるよという指標なのです。

先週も見ましたが、イエス様は、私たちが、怒ったり、「ばか者」といったりしたら、それはもう人を殺したのと同じ裁きを受けるのだと言われました。だから、上の図で言うならば、「戒め」の指し示す中心部分から、どれだけ離れていたとしても、私たちはこの戒めに聞き続けていく耳と、繊細な心を持つ必要があるという事です。そして、悔い改めに早いものでありなさいということなのです。

また、イエス様は「姦淫してはならない」という戒めに関しても、このように述べています。マタイ5:27-28です。

『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
マタイの福音書 5章27~28節

こんなことを言われたら、世の中の男性はみんなアウトです。もちろん、私もそうです。そして、思春期、独身時代を、このことでどれだけ葛藤しながら生きているか、わたしにもよく分かります。何も男性に限ったことでありません。女性の皆さんの中にも、同じように「情欲」というものはあるでしょう。イエス様に、こんなに高い基準を示されている中で、誰が胸を張って自分の歩みを誇ることが出来るでしょうか。誰も出来ないんです。でも、だからと言って、みんなそうだからと開き直るのも違います。私たちの内側には、いつもこの「姦淫の種」が宿っている。そういう自覚のもと、へりくだって神様の前に出て、どこまでもきよくあることを求めて、きよめられ続けていく必要があるのだと思うのです。

一方で、逆の側面もあります。どんなに壊滅的と思われる状況に陥ったとしても、私たちは何度でもやり直すことが出来るということです。神様は、私たちを愛し、どんな状況の中にあっても、全ての事を働かせて益としてくださるお方です。神様は、どんな状況からも救い出してくださるお方なのです。それが、イエス様にある希望です。私たちは、そのことを伝えていく必要があるのです。

ローマ13:9でパウロは、「戒め」についてこのような解釈をしています。

姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。

どんな戒めであっても、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉に要約される。つまり、私たちは「戒め」を、ただの守るべき掟としてではなく、「何が隣人を愛することなのか」を考える手がかりとして見るべきなのです。

神様に愛されている、大切な誰かがそこに存在している。そして、その人を本当に愛するために何ができるのか。「隣人を愛する」というのは、現実の生活の中のリアルな人格と向き合い、その中で神の御心は何なのかを問い続ける作業だと思うのです。「戒め」というのは、それを考えるための大切な指針です。ですから人間を置き去りにして、「戒め」だけを論じるようなことは、無意味なことなのです。

2. イエス様の向き合い方

それでは、私たちは隣人と実際にどのように向き合って行ったら良いのでしょうか。今日、第2のポイントである、「イエス様の向き合い方」から学んでいきたいと思います。ヨハネ8:3-6をお読みします。

すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
ヨハネの福音書 8章3~6節

ここに、「姦淫の場で捕えられた女」とあります。これは一体どういう状況なのでしょうか。あえて定義するなら、「姦淫」とは、結婚関係以外の性的な関係の事を言います。ですから、この女が一人でその罪を犯していたということはあり得ないんです。そこには当然、相手の男の人がいたのです。それなのに、なぜかこの女性だけが、姦淫の現場で捕えられたのです。この女の人は、一体どんな思いだったのでしょうか。一体、どんな事情があったのでしょうか。いきなり連れて来られて、人々の好奇の目に晒されて、恥ずかしかったでしょうし、悔しかったでしょうし、騙されたという思いがあったかもしれません。もちろん、後悔もあったでしょう。

しかし、律法学者やパリサイ人たちは、この女は律法によって裁かれるべき存在としてしか見ていませんでした。彼らには、隣人を愛するなどという視点はなかったのです。そして、これを、普段から「愛と赦し」を問いている、あのイエスを告発するいい材料だと考え、彼女をイエス様の元に引きずり出したのです。そんな彼らにイエス様はこのように対応しました。7節と9節をお読みします。

しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
ヨハネの福音書 8章7、9節

「あなたがたの中で、罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」ここで印象的なのは、それを聞いた人が「年長者から順番に」一人、また一人とそこを去っていったという情景です。人を裁くということは、実は最も自分自身が問われる行為です。私たちは、胸に手を当てて考えた時に、誰も人をバッサリと裁くことは出来ないんです。長く生きれば生きるほど、それがよく分かる。自分がどれほど醜い存在であるか、キッパリと割り切って歩むことが出来ない存在であるか、ということがわかるのです。
そして、話はこのように続きます。10節、11節。

イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」
ヨハネの福音書 8章10~11節

最後に残ったのは、その女の人と、イエス様だけでした。もし、彼女に石を投げる資格がある人がいるとしたら、それは罪のないイエス様だけです。でもイエス様は「わたしもあなたにさばきを下さない。」と言われました。そして続けて、はっきりとこう言われたのです。

「行きなさい。もうこれからは、罪を犯してはなりません。」

イエス様がさばかなかった、イエス様が赦されたというのは、「別にそれがどうでもいいことだった」ということではありません。イエス様は、この女の人が立ち直ることが出来るように、「行きなさい」と押し出し、そして「これからは決して同じ過ちを繰り返してはいけません」と、彼女が向きを変えて歩むことが出来るように、その指針を与えたのです。

私たちは、もちろんイエス様ご自身ではありません。でも、イエス様の心をいただいています。私たちは、キリストの心とともに、今年、この世界に遣わされているのです。ですから、遣わされたその場所で、実際に生きているその生身の人物を目の前にして、イエス様がどのようにその愛を表そうとしておられるのか、その知恵をいただきながら、隣人を愛していきたいと思うのです。

3. 聖霊の宮として生きる

今日、第3番目のポイントは、「聖霊の宮として生きる」ということです。第1コリント6:19-20にはこのようにあります。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
コリント人への手紙 第一 6章19~20節

パウロがこの手紙を書き送ったコリントの教会は、当時いくつもの深刻な問題を抱えていました。教会内には分裂や対立が深まり、偶像礼拝が蔓延り、主の晩餐や聖霊の賜物への無理解から教会は大きく混乱していました。それに加えて、性的不品行の罪が横行して、教会は深く傷ついていたんです。そこでパウロが示したのは、「あなたがたのからだは、神から受けた聖霊の宮である」という、神様の恵みの事実だったんです。どんなに、姦淫を禁止したとしても、またそれを厳罰化したり、禁欲を勧めたりしてもどうにもならない人間の罪と弱さに対して、パウロがさし示したこと。それは、私たちの内側に神様ご自身が生きておられるという事実でした。

私たちは、もともと「神様のかたち」として造られた存在です。そして、私たちがどんなに神様から離れようとも、神様の側からは決して私たちを見捨てない、離さない。そして愛し続けてくださっているのです。「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。」とあります。イエス様は、私たちが、誰も知らないところで、淫らな思いを抱き、情欲にさいなまれ、罪と汚れにまみれて歩んでいるのを百も承知の上で、その罪を背負って十字架にかかって死んでくださったのです。このイエス様の愛のゆえに、私たちは自由に生きることが出来る。価値ある存在として生きることが出来る。そのような存在として、互いを尊敬して、本当の愛に生きることが出来るようになるのです。ですから、私たちは「聖霊の宮」として、このからだをもって神の栄光を表していくことが出来るように、祈りつつ歩んでいきたいと思うのです。

今、この時代にあって、教会が、クリスチャンが、この分野においても世の光となっていくことが出来るように祈りましょう。まだ若い独身の皆さんは、ぜひ、妥協しないで戦っていただきたい。結婚が、また神様によって与えられた「性」が、本当に祝福されたものとなるように、待つことの大切さを学んでいってもらいたいと思います。

今、この中にも、痛みや苦しみ、戦いの中にある人が多くいると思います。過去の痛みや、今現在通らされている、それぞれの戦いがあると思います。そのような方は、ぜひ本当に信頼できる、同性の信仰の友に分かち合って、そこに勝利が与えられるように祈ってもらってください。その話を聞いた人は、決して裁くことなく、逆になんでもOKとするのでもなく、キリストの心をもってその方の戦いに耳を傾け、イエス様の愛と力がその人を覆ってくださるようにと祈ってください。

神様はあなたを愛しておられます。あなたは、代価を払って買い取られたのです。
主の祝福が豊かにあるようにと祈ります。

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