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2023年4月30日愛に生きる私たちの十戒(3)〜ねたむ神の思い〜

2023年4月30日愛に生きる私たちの十戒(3)〜ねたむ神の思い〜
出エジプト記 20章4~6節 佐藤賢二 牧師

今私たちは、「愛に生きる私たちの十戒」というシリーズを学んでいます。「十戒」というと、「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」という風に、私たちの生活を規則で縛り付けてしまうようなものというイメージを抱きがちです。しかし「十戒」とは、私たちを縛るためのものではなく、むしろ私たちが神様の愛のうちに自由に生きられるようにと与えられた「愛の贈り物」なのです。「十戒」は、神様とイスラエルの民との間の「愛の関係」をもとに与えられたものです。だからこそ、十戒の第1戒は、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」という教えから始められているのです。

今日は、第2戒に入りますが、タイトルを「ねたむ神の思い」と付けさせて頂きました。ともに期待しつつ、主の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。それでは、今日の御言葉です。出エジプト記20:4-6をお読みします。

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
出エジプト記 20章4~6節

これが「十戒」の第二戒です。特に、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」という部分が、この第二戒の中心ということが出来ます。第一戒が、「ほかの神があってはならない」であったのに対し、第二戒では「偶像を造ること」が禁じられています。これは、別に銅像とか、粘土細工とか、絵画とか、そういうものを造ることが全て禁じられているということではなく、「礼拝の対象となるようなものを自ら造り出す事を禁じている」と言うことが出来るでしょう。今日は、この箇所から語られていることを、3つのポイントでお話をさせて頂きたいと思います。

1. 神がねたむとはどういうことか

まず、第一のポイントは、「神がねたむとはどういうことか」ということです。神様はこの箇所で、ご自身のことを「ねたみの神」だと言っています。「ねたみの神」とは、一体何なのでしょうか。私たちは「ねたみ」と聞くと、何か悪いこと、何かネガティブなことなのではないかと考えます。実際に、第1コリント13:4にはこのように書かれています。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
コリント人への手紙 第一 13章4節

ここは、「愛の讃歌」と呼ばれる聖書の中でも特に有名な箇所です。そして、ここには、はっきりと、「愛は人をねたまない」と書かれているのです。あれ?ちょっとおかしいと思いませんか?言うまでもなく、「神は愛です」。そして「愛は人をねたみません」とあります。だから、「愛である神は、人をねたまない」はずなのではないのでしょうか。それなのに、どうして神様はご自身のことを「ねたみの神」だと言われるのでしょうか。

私たちは、ここで「ねたみ」には2種類あるという事を理解しておく必要があります。

1つ目の「ねたみ」は、否定的なものです。これは、「人との比較で、相手の方が優れているので、羨ましいという感覚」の事を指します。皆さんは、人をねたんだことはあるでしょうか。人それぞれ、長所と短所があると思いますが、私には昔から自分で自覚している長所があるんです。それは胴が長いということなんですね。長所ですからね。でも私は普段は、どうしてもその長所でではなく、短所に目が行ってしまうんです。そうです。私は昔から「足が短い」ということが、コンプレックスだったんです。いや、別に過去形ではなく、今でもそうです。ですから、身近に足が長い人がいると、その人に対する敵意と、自分自身の劣等感が入り乱れた、何とも言えない感情を抱くわけです。それが、「ねたみ」です。他にも、いろんなことを人と比べて、ああ自分はダメだなあ、あの人はあんなことができていいなあと羨ましく思ったりしているのです。それが、「ねたみ」という感情なのです。神様が、「ねたみの神」という時、こういう種類のねたみを言っているわけではありません。神様が、偶像の神と、ご自身とを比較して、ねたむなんてことはありません。ましてや「自分の方が劣っている」と感じて偶像を羨ましく思ったり、劣等感を感じたりするなんてことはあり得ないんです。なぜなら、私達の神様は天地万物を造られた、全知全能の主であるからです。ですから、神様が「ねたむ」という時、このようなレベルのねたみを言っているのではないということがお分かりになると思います。

それでは、もう1種類のねたみとは何なのでしょうか。それは、「自分のものが奪われる、ということへの危機感」であり、また「それを奪おうとする者への敵意」のことです。これは「愛の関係」という土台を前提とした、ねたみと言っても良いかもしれません。これは先週も少し触れましたが、夫婦の関係において、お互いに愛を誓ったはずなのに、相手がその関係から離れていくことに関して、それを許せないという思いです。この「ねたむ」という言葉は、新共同訳聖書では「熱情」「熱情の神」という風に訳されています。聖書には、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」という表現がありますが、語源としては同じです。主は、私達のことを、熱心に、熱情をもって愛しておられます。それゆえに、その愛の対象である私達が、神ならぬものに奪われてしまうことを許すことが出来ないのです。

主は、イスラエルの民に十戒を与えるにあたって、まず初めにその愛の関係を思い起こさせました。そして、この一点だけは譲ることが出来ない、まず初めに、ここだけははっきりしておきたいと語っておられるのです。神様は熱烈に私たちを愛しておられる。それが、「わたしは、ねたみの神」だと、神様が仰っている真意です。それゆえに、私たちは、決して自分のために偶像を造るようなことはしてはならないのです。

2. 偶像の誘惑

第二のポイントは、「偶像の誘惑」ということです。そこまでして神様が、偶像に気をつけなさいと言っているにもかかわらず、人はなぜか偶像に惹かれ、偶像を造る、偶像を刻むということをしてしまうのです。出エジプト32:1をお読みします。

民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
出エジプト記 32章1節

モーセがシナイ山で、神様から「十戒」を受け取っているまさにその時、イスラエルの民は、モーセの兄アロンの元に集まって来て、「さあ、私たちを導く神を、私たちのために造ってください」と願っているのです。なんということでしょう。彼らは、自ら、偶像の神を造ることを求めたのです。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。彼らは、待てど、暮らせど、何日経ってもモーセがなかなか山から降りて来ないという現実に直面していました。ひょっとしたら、モーセは山の上で死んでしまったのかもしれない。そう思うと、彼らは、この先のことが不安になりました。そして目に見えない神様を、そしてその神様のことばを、忍耐して待ち望むということができなかったのです。私たちは、不安になると手っ取り早い解決法を求めてしまう傾向があります。彼らは、何か目に見える形で、より頼むべきものが必要だと考えました。彼らがかつて奴隷とされていたエジプトでは、偶像の神々が満ちあふれていましたので、彼らもその影響を受けてしまっていたのかもしれません。そんな民の要求に、アロンは答えます。2節から4節。

それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」
出エジプト記 32章2~4節

アロンは人々から金を集め、鋳型を造って、金の子牛という偶像を造りました。そして、事もあろうに、「これが、あなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と宣言したのです。これは、何という侮辱でしょうか。彼らは、まことの神を、偶像という形に、押し込めてしまったのです。この「金の子牛の鋳物」というのは、彼らが勝手に思い描いている神の姿の象徴です。「金」というのは、「富」や「物質主義」の象徴でしょう。「子牛」というのは、「力」や「生産性」の象徴ということができるかもしれません。また「鋳物」で造るというのは、自分たちの都合のいい形に神を造り上げるということです。ですからこれは、自分たちが主導権を握りたいという「傲慢さ」の象徴と言えるかもしれません。こんなものが、エジプトから彼らを導き出した神であるはずがありません。しかし、彼らは、こういう神を勝手に思い描き、それを形にして、それを心の拠り所にしようとしたのです。ローマ1:22-24aにはこうあります。

彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
ローマ人への手紙 1章22~24節

世の中の偶像というものは、すべて人間の心の欲望や、何らかの願望の投影です。その形を造る時点で、こういう神であって欲しいという願望が反映されているのです。

日本には、いろんな神がいます。ちょっとインターネットを調べたら、「ご利益の種類から、神様と神社を探す」なんてサイトも出てきました。そこで並んでいるご利益というのは、大きく分けて「金運」「縁結び」「子宝」「学業」「健康」「交通安全」「仕事」「芸術」「厄除け」という項目で分類されていました。そして、そのご利益を求めている人が、必死になってそれに応えてくれる神様を探し求めて、拝むということをするわけです。私たちにも、それらの願望がないわけではありません。しかし、自分の都合のいいように叶えてくれるという偶像の神々を、ふらふらと探し求めるような態度を持つことを、まことの神様は悲しまれるのです。すべてのものを造られた、唯一のまことの神様は、私達の全ての願いや必要を知っていてくださるお方です。そしてその上で、わたしに祈りなさい。わたしに求めなさい。わたしに信頼しなさい。それらを全部わたしに委ねなさい、と言われるのです。

もちろん、主の愛を知っている私たちは、あえて偶像を刻んだり、偶像を拝んだり、そんな愚かなことはしないと思います。でも、私たちは、気をつけなければいけません。目に見える偶像は刻まなかったとしても、知らず知らずのうちに、色々なものを心の中で偶像化してしまう弱さが、確かに私達のうちにもあるのです。キリスト教界を見ていると、残念ながら「牧師」が偶像化してしまうということもあります。また、「特定の教え」や「神学」が偶像化してしまうということもあります。もちろん、何が正しいか、間違っているかを見抜く成熟さは必要です。でも、特定の神学のみを無批判に受け入れ絶対視するようになってしまったら、それは偶像化している危険があるということです。「癒しの賜物」だったり、何か「特定の霊的な体験」が偶像化してしまうこともあり得ます。自分の好きな「礼拝音楽」、「ワーシップの仕方」が偶像化してしまうこともあります。

偶像というのは、私たちが「こうあって欲しい」と思うものが形になったものです。ですから、当然魅力を感じるでしょう。でも、それらのものが、どんなに良いものだったとしても、それが私達の心の中で偶像化してしまうならば、今度は私たちの心がそこに縛られていくのです。偶像は、私たちが考えることを奪います。そして、偶像を礼拝するならば、今度は偶像が提供する価値を、無批判に受け入れるようになってしまうのです。その結果どうなるでしょうか。私たちの心が、まことの神様ご自身と向き合うことができなくなってしまうのです。私たちは、偶像から、自分たちを守らなくてはならない。私たちは、偶像ではなく、「神のことばを通して啓示される神様」と絶えず交わり、みこころを求めて歩んでいく必要があるのです。

3. ねたむ神の思いに応える

第三のポイントは、「ねたむ神の思いに応える」ということです。

いつも夫婦の話で申し訳ありませんが、家内は私のことをとても大切にしてくれます。でも、もし、家内が、私が好きだからと言って、私の人形を作り、その人形で満足してしまっていたらどうでしょうか。恐らくその人形は、理想化された私の姿になっていて、私よりも足が長く、私よりもイケメンで、私よりも優しく出来ているかもしれない。でも、もしそれで彼女が「私はケンちゃんが大好きなのー」と言って、本物の私がここにいるにも関わらず、その人形に夢中になっているとしたらどうでしょうか。私は怒ります。ねたみます。私の場合は、足の長い人形にも敵意と劣等感を感じてしまうかもしれません。とにかく、本物と交わることが出来るのに、話をすることも出来るのに、偽物に心を奪われている様子に、ひどく心が痛むと思うのです。

神様も同じです。今、あなたの心の王座に、心の中心に何があるでしょうか。神様ご自身でしょうか。それとも、偶像化された神様でしょうか。私達の心を、偶像に、決して神ならぬものに明け渡してはなりません。あなたが、満たされない思いを抱えている時、それをまことの神様以外のもので慰めようとしてしまってはいけません。神様は、「なぜ、わたしのもとに来ないのか」と、あなたを激しくねたまれるのです。

神様は、その創造の始めから、私たちを「神様の愛を受ける対象」として造られました。しかし、人間は罪を犯して、神様から離れてしまいました。その時から神様は、何とかして私たちを取り戻したい、愛の交わりを回復したいと思って私たちを探し求め続けてくださったのです。そして、私たちを取り返すためであればどんなことでもする。そのような覚悟で、私たちにその愛を語り続けてくださいました。そして、その神様は驚くべきことをするのです。そのひとり子イエス様のいのちを私たちのために犠牲にし、その血潮の代価によって父なる神様の懐に私たちを取り戻してくださったのです。私たちは、もはや自分自身のものではありません。第1コリント6:19-20を読みます。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
コリント人への手紙 第一 6章19~20節

私たちは、代価を払って買い取られたのです。その代価とは、イエス・キリストの流された血潮です。ですから、私たちはもはや自分自身のものではありません。私たちは、聖霊の宮なのです。だから、私達のこの宮の中に、この心に、他の神を刻んではならないのです。

今日、もう一度、私たちは心に留めたいと思います。神様は、ねたむ神様です。熱烈な愛で私たちを愛してくださっているお方です。私たちは、決して私たちの心に偶像を刻んではなりません。私たちを偶像の宮ではなく、聖霊の宮として明け渡す必要があります。私たちは、私たちを造ってくださった方、私たちを贖ってくださった方と、直接交わる特権が与えられているのです。

今日、もう一度、主の熱烈な愛の中にとどまることを決意しましょう。そして、私たち自身を、きよい、聖霊の宮として、もう一度主に明け渡し、すべての慰めを与えてくださる神ご自身に、自分の人生をお捧げしていくことが出来るように、共に求めていきたいと思います。お祈りをいたします。

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