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2023年12月24日 クリスマスの奇跡④〜羊飼いたちの物語〜

2023年12月24日 クリスマス礼拝 クリスマスの奇跡④〜羊飼いたちの物語〜
ルカの福音書 2章8~20節 佐藤賢二 牧師

今日は、「クリスマスの奇跡〜羊飼いたちの物語〜」と題してお話をさせて頂きます。

聖書には、「羊飼い」にまつわる話がたくさん出てきます。イスラエル民族というのはもともと放牧民でしたので、彼らにとって「羊飼い」というのは非常に馴染みのある職業なんです。実際、旧約聖書に出てくる、主要な人物の多くは羊飼いでした。

ダビデ王は、若い時から羊飼いとしての役割を立派に果たしていました。そして、羊たちを獣から守ったという経験を生かして、巨人ゴリアテを倒して名をあげます。彼は、「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」という有名な詩を残し、神様と人との関係が、羊飼いと羊の関係の様だと考えました。新約聖書の時代に入ってからは、イエス様ご自身も「わたしは良い羊飼い」だと語っています。私たちは迷える子羊で、イエス様こそが、私たちを養ってくれる良い羊飼い。それが、聖書から私たちが思い浮かべる「羊飼い」のイメージなのではないでしょうか。そこには、神様と私たちとの麗しい関係が表されているのです。

でも、イエス様が生まれるころ、実は「羊飼い」の地位はとても低いものだったと考えられています。なぜなら、彼らは羊を飼っていたため、安息日を守るなどの、様々な律法を、文字通り守ることが出来なかったからです。「羊飼いたち」は、その理由が何であれ、律法を守ることが出来ない。だから当時の社会では「羊飼いたち」は蔑まれ、彼らの言うことは信用されず、裁判で証言することすらも許されなかったといいます。このように、当時「羊飼いたち」というのは、社会の底辺にいる貧しい人たちだったのです。

でも、そんな「羊飼いたち」に、素晴らしい知らせが届きました。今日は、新約聖書ルカの福音書から、ご一緒にその箇所を見てみたいと思います。ルカ2:8-20です。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
ルカの福音書 2章8~20節

ここは、夜番をしている羊飼いたちの所に、突然、御使いが現れて「救い主が生まれた」という素晴らしい知らせを届けたという場面です。イスラエルの民は、この「救い主」が与えられるという預言を、とてつもなく長い間待ち望んでいました。でも実際にその待ち望んでいた救い主がこの世に生まれた時、そのニュースがいちばん初めに知らされたのが、祭司長でも律法学者でもない、また時の皇帝アウグストゥスでもない、名もなき羊飼いたちだったというのは、とても考えさせられるところです。社会の底辺にいて、人々から蔑まれ、寂しい思いをしていた、貧しい羊飼いたちに、まずこの知らせが伝えられた。そこには、神様の思いが反映されている様に思うのです。イザヤ61:1には、この様なことばがあります。

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
イザヤ書 61章1節

これは、私たちの教会がこの1年間、標語の御言葉として掲げてきたものですが、ここに、イエス様は、「貧しい人に良い知らせを伝えるため」、また「心の傷ついた者を癒すため」に、この世に遣わされたとあります。羊飼いたちは、まさにそのような人たちでした。そして同じように、このメッセージは私たち一人ひとりにも、向けられているのです。

「救い主」誕生の知らせは、地位や、能力や、宗教的聖さや、何かそういったものを備えた、特別な人だけに向けられたものではありません。そうではなく、むしろ名もなき羊飼いのように、心のどこかに傷を抱え、癒しを必要としている人、助けを必要としているすべての人に向けて、語られたものなのです。

今日、私たちも、この羊飼いたちの気持ちになって、御言葉を受け取っていきたいと思います。それでは、先ほどの聖書箇所から3つのポイントでお話をさせて頂きたいと思います。

1. 主の栄光に照らされる

まず第1のポイントは、「主の栄光に照らされる」という事についてです。ルカ2:8-9をもう一度お読みします。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
ルカの福音書 2章8~9節

ここに、「主の栄光が周りを照らした」とあります。「主の栄光」とは、神様ご自身の素晴らしさが、はっきりと証しされることです。ここでは、その栄光が周りを照らしたとあるので、文字通り、その栄光の現れとして、強い光がその場を照らしたのだと考えられます。言い換えると、その圧倒的な光の中で、神様の臨在を、つまり神ご自身がそこにおられるという感覚を、彼らは味わったのだと思います。彼らは、突如として、生ける神の前に立たせられたのです。

皆さん、私たちは「光」なしに生きていくことは出来ません。暗闇の中に光が灯ると、暗闇は消え去り、今まで見えなかったものが見える様になります。光は、そこ何があるかを明らかにするからです。そして私たちは、その光があることで、危険を避け、安心して歩むことができるようになります。ですから私たちは、光を見るとホッとしたり、温かい気分になったりするのです。

でも羊飼いたちは、主の栄光に照らされた時、「非常に恐れた」とあるのです。なぜ、彼らは「非常に恐れた」のでしょうか。先ほども申し上げた通り、光というものは、そこに何があるかを明らかにします。ということは、何か明らかにされたくないものを抱えている人は、逆に光を恐れるのです。羊飼いたちは、別に悪いことをして、こそこそとしていた訳ではないでしょう。でも人々から蔑まれて、疎外感を感じながら生きている中で、だんだんと心が荒んでいってしまったのではないかと思うんです。自分なんて取るに足りない、価値のない人間だ。私の人生に何の意味があるんだろう。彼らの心の中には、不平や、不満や、人生に対するあきらめや、人に対する苦々しい思いがあったのだと思うのです。彼らが、非常に恐れたというのは、それこそ心の中まで見透かされるような、強い光、聖い光に照らされて、突如として自分自身があまりに罪深い存在であることに気づいて、非常に恐れたのではないかと思うのです。

皆さんは、どうでしょうか。心の中を、神様の強い光で照らされた時、堂々とそれを見せることが出来るでしょうか。誰もそんなことは、出来ないと思うのです。誰でも、心の中に、あまり明らかにしてほしくないような、醜いものを持っているんです。私たちは、誰もが、的外れで自分勝手な生き方をしている。私たちは、誰もが罪人なのだと、聖書は語っているんです。

でも、もし私たちが、神の光に照らされて、罪を示されて恐れるだけだったら、そんなに辛いことはありません。だったら、そんな自分の姿は見たくない。そんなものは覆い隠して生きていこうと考えるのが普通ではないでしょうか。でも神様は、そんな私たちに、「恐れなくて良い」と語ってくださるのです。

2. 喜びの知らせ

今日、第2番目のポイントは「喜びの知らせ」です。御使いは、恐れる羊飼いたちにこのように伝えるんです。ルカ2:10です。

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
ルカの福音書 2章10節

彼らに御使いが現れて、主の栄光が彼らを照らしたのは、彼らの罪を裁き、「お前はダメだ、失格だ」と伝えるためではありません。そうではなく、そんな彼らが恐れなくても良いように、「この民全体のための、大きな喜び」を伝えに来たんだというのです。その喜びの知らせとは何でしょうか。11節をお読みします。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
ルカの福音書 2章11節

今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。これこそが、「この民全体のための、大きな喜び」の知らせなんです。御使いがこの事を告げた途端、おびただしい数の天の軍勢が現れて神を賛美し始めました。「いと高き所に、栄光が神にあるように。地の上に平和が、みこころにかなう人々にあるように。」もう、その大讃美の中には、天の喜びが満ち満ちていたんです。

イエス様は、神のあり方を捨てることが出来ないとは考えないで、この地上に、人として、それも幼子の姿で生まれてくださいました。それは、私たち人間のすべての痛みや苦しみを知り、そのすべての罪を背負い、私たちの身代わりとして、十字架にかかって死んで下さるためだったのです。この方こそが、待ち望んできた救い主。その喜びの知らせが、最初に羊飼いたちに伝えられたのです。聖書は、このように語っています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
ヨハネの福音書 3章16~17節

神様は、その最も大切なひとり子イエス様のいのちすらも、惜しむことなく私たちに与えてくださいました。それは、イエス様を信じる人が、誰一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためだというのです。ここに、愛があります。神様は、あなたを愛しておられます。救い主イエス・キリストの誕生は、その証しなのです。だからこそ、これが「この民全体のための喜びの知らせ」なのです。

3. 羊飼いたちの決断

第3のポイントは、「羊飼いたちの決断」です。羊飼いたちは、御使いたちからの「喜びの知らせ」を聞いて、どうしたのでしょうか。ルカ2:15-16にはこうあります。

御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
ルカの福音書 2章15~16節

初めは、非常に恐れていた羊飼いたちでしたが、御使いからの喜びのメッセージを受け取って、心に変化が与えられました。彼らは、喜びと期待感に満たされていたんです。そして、互いに話し合った上で、この出来事を見届けるために、急いでそこから出て行きました。御使いから語られたしるしは、「布にくるまって、飼葉桶に寝ているみどりご」というものでした。彼らは羊飼いでしたから、ダビデの町、ベツレヘムの飼葉桶がある場所といえば、あそこか、あそこか、と心当たりがあったんです。そして、彼らはいくつかの家畜小屋を巡り、ついに飼葉桶に寝ている生まれたばかりのイエス様を捜し当てたんです。そして、恐らく興奮気味に、御使いが話したことは本当だったんだとマリアとヨセフにそのことを話し、イエス様を礼拝して、神をあがめ、讃美しながら帰っていったというのです。

羊飼いたちは、「救い主が生まれた」ということを、知識として知っただけでなく、自分の意志で、急いでその救い主のところにまで行って、礼拝をささげたんです。もう、彼らの人生はそれまでと同じではありませんでした。人々に蔑まれ、自分なんてどうでもいい存在だと感じながら生きていた人生から、神をあがめ、讃美しながら歩む喜びの人生へと変えられていったのです。

少し、私自身の話をさせてください。私は、高校生の時に1年間アメリカに留学する機会があり、そこで初めてイエス様のことを聞きました。それまでの私は、神様とも教会とも全く縁がなかったのですが、なぜかアメリカでのホームステイ先が、教会のユースパスター(若者担当牧師)の家ということになったのです。でも私は彼に会うなり、こう言いました。「これからの国際人として、キリスト教については知りたいとは思うけど、僕は絶対にクリスチャンになるつもりはないよ。」

それからしばらくの間は、とても充実した日々を過ごしていました。でも私はそこであることで行き詰まるのです。それは、失恋でした。まだ若くて純粋だった私は、そのことを通して、文字通り三日三晩泣き続けたのです。その時に私は思いました。「こんなに辛いんだったら、いっそのこと死んでしまおうか。」でも心の中で、もう一人の自分が言うのです。「いや、流石に死ぬのは違う。」じゃあ、なぜ死んではいけないのか。それには生きる目的があるからではないか。そしてふっと思ったのです。私の周りにいるクリスチャンたちは、生きる目的を持っているように見える。もし、それが得られるのだとしたら、私もクリスチャンのようになりたい。そんな風にして、神様のことを求め始めるようになったのです。

そんなある時、私は、ホストファーザーと話をしました。彼はこのように言いました。「Kenji、君の心の中には、たくさんの良いものがある。英語を話したり、音楽をしたり、ユーモアがあったり、いろんな良いものがある。でも、自分の力ではどうしても埋めることができない空洞があるんだ。それを埋めることが出来るのは、君の罪ために十字架で死んでよみがえってくださったイエス様だけなんだよ。

だからイエス様に自分の罪を告白して、イエス様あなたを信じます、この心にお迎えしますと祈れば、イエス様はKenjiの心に入り、その空洞を満たしてくれるんだ。今、一緒に祈らないか?」そこで私は彼に導かれるままに、一緒に祈りました。気がつくと、私はなぜだか分からないけれど、泣きじゃくっていました。でも同時に、心が温かくなるのを感じたんです。神様が、直接、私の心に触れてくださったのだと思います。そして、まだ分からないことだらけでしたが、確かに、その瞬間を境に、私の人生の中で、何かが変わったのです。

神様は、私たち一人ひとりの人生に介入してくださるお方です。あの、寂しい羊飼いたちの所に、喜びの知らせが告げられたのと同じように、今日、あなたにも同じメッセージが届けられています。「今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。」イエス様は、私たちを裁くためでなく、私たちを救うために来てくださいました。私たちは、自分の意志で、勇気を出して、主よ私にはあなたが必要ですと、神様の前に出て、イエス様を心にお迎えする必要があるのです。

ある人にとっては、いや私なんてふさわしくない、私なんて、醜くて、神様に受け入れられる資格なんてありませんと思うかもしれません。でも、もしそんな資格があるとしたら、それは「自分はふさわしくない、自分は罪人だ」ということを認められる勇気だけだと思うのです。

クリスマスは、この喜びの知らせを、私たちが受け取るチャンスです。
イエス様ご自身が、私たちに与えられた、最高のプレゼントなんです。
イエス様こそが、私たちを憩いの水のほとりに導いてくれる、良い羊飼いです。
イエス様だけが、私たちの心の飢え渇きを満たしてくださるお方なのです。

このクリスマス、ともにこの方を慕い求めて、この方を心の中心にお迎えしていきたいと思います。お祈りしましょう。

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