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2024年6月2日 大いなる収穫に備える

2024年6月2日「大いなる収穫に備える」
ルカの福音書 10章1~9節 佐藤賢二 牧師

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2024年6月2日 大いなる収穫に備える
ルカの福音書10章1~9節

先週の、60周年記念セレブレーションは、本当に素晴らしいひと時となりました。ただ主の栄光だけがあらわされた、まさに「主が望んだ通りのセレブレーション」だったと思います。これだけ多世代の、多様な働きがある中で、「キリストのからだ」として、心を一つにして仕えることが出来た。これは、主のみわざとしか言いようがありません。このセレブレーションは、60周年の節目に、「ここまで主が導いてくださった」ということに、立ち止まって感謝を捧げる時でした。そして、そのことにしっかりと取り組むことが出来た今、私たちはさらに前に向かって進む「原動力」を得ることが出来たと思うのです。このために一生懸命準備し、背後で仕えてくださった皆さんに、心から感謝いたします。もう一度、主に栄光をお返しして、感謝の拍手を捧げましょう。

さて、私自身にとっての個人的なチャレンジは、このセレブレーションの直前にインドを訪問するということでした。インドに旅行したことがある人の話を聞くと、必ず「インドでは、とにかく水に気をつけなさい。ほぼ確実にお腹を壊します」と言われます。また、「蚊に刺されるとデング熱の危険がある」とか、「とにかく暑いので気をつけてください」とか、色々と言われていました。実際、現地の気温はなんと45度。私たちが日本に帰った後には、過去最高の52.9度を記録したというニュースが飛び込んできましたので、それでもまだマシだったのかもしれません。そんな中ですから、現地では相当気を使っていました。それでも、一緒に行った12人の牧師のうち、数人は現地で体調を崩してしまい、残りの先生たちも、日本に戻ってから次々と体調を崩して倒れてしまったという報告を受けています。それにも関わらず、免疫不全の難病を抱えた私が、インドから帰ってからも、ずーっとこのように元気に守られているのが不思議でなりません。どれだけ皆さんが、背後で祈っていてくださったのか、そのことをひしひしと感じます。きっと、「ここで佐藤先生に倒れられては困る!」そんな思いで、必死に祈ってくださったのでしょう。おかげで、セレブレーションの司会にも、今日のこの講壇にも立つことが出来ました。皆さんのお祈りに、心から感謝します!!

さて、そんなインドですが、ものすごい刺激を受けて帰ってきました。今日は、そのインドの報告を兼ねてのメッセージとさせて頂きたいと思います。今回、オンラインの配信では、具体的な地名やミニストリーに関わる方々の写真や人名は控えさせて頂きますが、ちょっと現地の雰囲気を味わっていただくため、いくつかの写真を紹介したいと思います。

まず、目立つのが野良牛たちです。町中の至る所に牛が歩いています。インドのヒンズー教では、牛は聖なる存在とされていますので、牛を食べるということはしません。牛肉は流通していないので、バーガーキングのハンバーガーも鶏肉やマトンの肉で出来ていました。

そしてそんな聖なる牛たちは、誰かが飼っているわけではないので、カラスの様にゴミを漁って食べていました。

交通事情も非常にインパクトがあります。とにかく、ルールはあってないようなもので、車もバイクも自転車も人も牛も、隙間さえあれば、どんどん入ってきます。バイクはノーヘル、2人乗り、3人乗り、逆走、本当になんでもありでした。

みんな、けたたましくクラクションを鳴らしているのですが、逆に鳴らすのがマナーになっているようです。車の後ろには、わざわざHorn Please、「クラクションを鳴らして」なんて書いてあるのもよく見ました。

そして、貧しいスラム街です。インドではやっぱりカースト制度の影響が強く、多くの人がバラックの様なところに住んでいる状態でした。

家の壁には、こういうヒンズーの神と思われるものが書いてあることもよくありました。キリスト教に対する迫害も多いと聞きます。

今回は、私を含め12人の牧師たちで現地の教会の宣教活動を手伝いながら、宣教、教会開拓ということについて学ばせてもらいました。そこで体験したことは、本当に驚きの連続でした。

インドでの活動の様子

現地では、基本的に3つのチームに分かれて、それぞれが現地のリーダーに連れられて、毎日2つの家を訪問しました。家といっても、訪問したのは、ほとんどがスラムのバラック小屋のような所です。でもそこには、大人から子供まで20人ぐらい、多い時では40人ぐらいの人が集まっていて、私たちの到着を待っているんです。そしてそのほとんどが、まだイエス様の話を聞いたことがない、未信者の方々だというのです。まず、その光景に驚きました。誰がこの人たちを集めて来たのでしょうか。それは、その地域にいる「平安の子」と呼ばれる未信者です。「平安の子」というのは、教会のメンバーが家々を一軒一軒訪問した時、彼らと福音に対して心を開いてくれた人のことです。その「平安の子」に対して、「今度日本から牧師が来てイエス様の話をします。だから家族や友人を集めておいてください」と話し、実際にその人が集めてくれたということなのです。

私たちは、まずそこで短い讃美をします。次に、日本人のメンバーが3分ほどの証しをし、別のメンバーが福音を伝えるための冊子を英語で読みます。現地の教会の方がそれをヒンディー語に訳してくれるのですが、そこで彼らに信じますか?と聞くと、多くの人が素直に手をあげるんです。そこで、信仰告白の祈りに導き、多くの人が救われました。そして、信じたらすぐにその場で洗礼を授けます。コップに水を汲んできてもらい、滴礼ですが、信じた一人ひとりに現地の先生が洗礼を授けていました。その後は、その場にいる方々の必要について祈ります。病の癒しとか、今仕事がないので祈ってほしいとか、そういうことについて祈りました。今回はありませんでしたが、実際に悪霊を追い出すということも頻繁にあるようです。

そして、「今からこの人をリーダーに任命します」と言って、リーダーの任命式を行います。リーダーになるのは、そこにいる人たちを集めて来た「平安の子」です。もちろん、このリーダーに対しては、今後きちんと導いていくことが出来るようにフォローがなされます。そして、「今からここが、あなたたちの教会です。」と言って、家の教会の誕生を宣言するのです。そして最後に、「では献金を集めます」と言って、信じたばかりのお一人おひとりが、自らの意志で献金を捧げられるようにする時間を設けるんです。

その後、コーラとかそういう飲み物を出してくれることもありますが、それを一杯飲んだら、それではさようならと言って帰ってくるのです。これが、全体で大体45分ぐらいで終わります。周りの方々からの迫害もあるので、時間も一時間以内で終わるように配慮しているとのことでした。

私は、この様子を見て、衝撃を受けました。まさに、「主が毎日救われる人々を加えて一つとしてくださっている」という姿。これこそが、使徒の働きの教会、使徒の働きの宣教だと思ったんです。

私たちが滞在中に、合計で419人に福音を提示し、316人が信仰告白し、201人が洗礼を受け、22の教会が生み出され、23人のリーダーが任命されました。

もちろん、私たちが、すぐにまったく同じようにすることは出来ないかもしれません。インドと日本では、いろんな意味で状況が違います。

でも、私たちはずっと祈って来ました。「日本に、この町に、必ずリバイバルが起こる。」

ですから、今このタイミングで、私がこのインドでの爆発的な宣教の広がりを見せられたということは、それと無関係ではないと思うのです。そして、この規模感とスピード感から、主が何を語ろうとしているのか、真剣に祈り、考えなければならないと思いました。

まずは、私たちの教会で、置かれた場所で、このことをどう受け止めていくのか。大いなる収穫を目の前にして、どのように整えていくのか、今日はご一緒にそのことを考えていきたいと思います。

本日の聖書箇所をお読みします。ルカ10:1-9ですが、時間の関係で途中一部を省略させて頂きます。

その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。そして彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたに返って来ます。その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。どの町に入っても、人々があなたがたを受け入れてくれたら、出された物を食べなさい。そして、その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。
ルカの福音書 10章1~2、5~9節

今日はこの箇所から、3つのことについて考えてみたいと思います。ぜひ皆さんも、自分の置かれている状況に当てはめてみながら、自問自答して頂きたいと思います。

1. 「主が行くつもりの町や場所」とはどこか?

まず第1の質問は、「主が行くつもりの町や場所」とはどこか?ということです。

ルカ10:1には「ご自分が行くつもりのすべての町や場所」に弟子たちを遣わされた、とあります。イエス様は、決して行き当たりばったりではなく、まだ行く前から、「あの町に行こう、あの場所に行こう」と計画していたということです。

今、この時代にも、この日本においても、主は「あの場所に行こう」と計画をしておられます。そして、そのご自分が行くつもりの場所に、私たちを先に遣わされるのです。

さて、皆さん。考えてみてください。それはどこでしょうか。あなたが、主によって遣わされようとしてる、あるいはすでに遣わされている場所とはどこでしょうか。考えるヒントとして、3つのコミュニティについてあげさせて頂きます。

(1)あなたが関わっている地域コミュニティ

まず第1に、「あなたが属している地域コミュニティ」です。これは、あなたの家族や、町内会などのことです。もし家族がまだイエス様を知らないのであれば、イエス様はそこに届きたいと願っておられるはずです。

(2)最も時間・思いを注いでいるコミュニティ

第2に、あなたが「最も時間や思いを注いでいるコミュニティ」です。今の私たちの生活の中では、家族や地域よりも、会社や学校、ボランティア、部活、サークル、趣味の会などの方に、重きが置かれているかもしれません。あなたが、教会や家族以外で、ここが自分の属している場所だと思う場所はどこでしょうか。イエス様は、その場所にも訪れたいと願っておられるのではないでしょうか。

(3)出身地や、何かの理由で思い入れのある町や村

第3に、「自分の出身地や、何らかの理由で思い入れのある町や村」についてです。今、私たちはこの横浜で、本郷台キリスト教会という共同体に属することが許されています。しかし、あなたの出身地や、田舎の家族はどうでしょうか。ひょっとしたら、その場所には教会が一つもないかもしれません。

あるいは、ニュースや友人・知人との繋がりなどで、特別な思い入れがある町や村があるかもしれません。少し検索すれば、日本の中で教会が一つもない市町村を調べることが出来ます。そういう場所に、特別な重荷が与えられるかもしれません。イエス様は、そのような場所にも、福音を届けたいと願っておられるのです。

2. 「収穫のための働き手」とは誰のことか?

主が訪れようとしている場所を思い描いた所で、第2番目の質問は、「収穫のための働き手」とは誰のことか?ということです。

もちろん、まずは、あなた自身がそうです。でも、あなたは一人でその働きをするのではありません。イエス様は、弟子たちを一人ではなく、二人ずつ遣わされました。そして、さらに2つのことを祈るように言われました。それは「収穫のための働き手を送ってください」という祈りと、「その場所に平安があるように」という祈りです。

私たちが多くの収穫が得られないという時、問題なのは「収穫」そのものでしょうか、それとも「働き手」でしょうか?イエス様は「収穫は多い」と言われたんです。ですから、問題は「働き手」の方です。この日本においても「収穫は多い」のです。

ですから、イエス様は「収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われたのです。

主は、私たちのこの祈りに応えて、様々な働き人をすでに送ってくださっています。海外からは、私たちの働きを助けるために、次々と宣教師やチームが送られて来ています。そして、協力して働きを進めることが出来ています。

しかし、この「送ってください」という言葉を原語で見ると、もう少し違った側面が見えるようになります。「送る」という言葉は、ギリシャ語ではエクバローという言葉が使われています。これは、悪霊を「追い出す」という時に使われる言葉です。つまり「本来いるべきでないところから、いるべき場所へ押し出される」ということです。また、エクバローには「取り出す」という意味もあります。聖書の中では、良い人が良い倉から良い物を「取り出す」という時に使われている言葉です。この場合、「すでにそこにあるものが、取り出されて適切に用いられる」ということです。つまり、「送ってください」という祈りは、今その人がいる場所がどこであれ、主がすでに備えてくださっている「働き人」が、見出されるように、主の召しに答えて取り出されるように、という祈りなのです。

であるならば、その地域や場所のために最もふさわしい人は誰でしょうか。その場所にすでに関係のある人、すでに属している人ではないでしょうか。

先ほど、イエス様は「働き手を送ってくださるように」という祈りと共に、「平安があるように」と祈るように語られたと言いました。そして、そこに「平安の子」がいたら、「その平安がその人の上にとどまる」と書かれています。

「平安の子」というのは、私たちに対して、また福音に対して心が開かれている人のことです。インドでは、私たちがその地を訪問する前に、「平安の子」探しが行われ、その平安の子が人々を集めて待っていてくれました。

あるリーダーは、この「平安の子」が見つかるために、1週間断食して祈ったと言います。

そうです。私たちは、祈り続けなければなりません。インドでの宣教は、一見簡単になされているかのように思います。でも、その背後には、魂の救いのための真剣な祈りがあって、その祈りの雨が乾いた地を潤し、やがて柔らかくされて、「平安の子」が見出され、「平安の子」が「働き手」となり、大いなる収穫へと繋がっていったのです。

今、あなたが思い描いた町や場所において、「平安の子」を見つけることが出来るように祈りましょう。まずは、その町のため、またその場所のための祝福と平安を祈るのです。そのような中で、心を開いて、私たち自身に協力的な方々が見出されていくことを期待しましょう。

そして、そこから、「収穫のための働き手」が取り出されていくことを、さらに祈っていきたいと思うのです。

3. どうしたら福音を伝えられるのか?

さて、第3番目の質問は、「どうしたら福音を伝えられるのか?」ということです。

私たちは今まで、地域に仕える様々な働きを通して、福音を単なる言葉としてではなく、行いを通して表して来ました。池田博先生のちり紙交換のスピリットを継承し、地域の問題の解決のために、必死になって祈り、本気で取り組み、多くの方々に喜んでいただくことが出来ました。そして、それゆえに、地域に仕える教会として、地域の人々からの信頼を勝ち得て、このように働きを進めることが出来ています。これは画期的なことです。

でも、地域のニーズに本気で取り組もうとすればするほど、それは究極的には私たちの力では負いきれないものであると悟るのです。だからこそ、すべての問題の本当の解決を与えてくださる、イエス様を知っていただきたい、この方の十字架と復活の力を体験していただきたい、そう祈らされるのです。

第1テモテ2:4にはこうあります。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
テモテへの手紙 第一 2章4節

神様は、私たちの罪の身代わりとして、そのひとり子イエス様を十字架にかけてくださるほどに、私たちを愛してくださいました。それは、すべての人が、イエス様を信じて救われるためです。

ですから私たちは、どの様にしたら、このイエス様の福音を伝えることが出来るか、主に知恵をいただいていきたいと思うのです。インドでは常に「マイ・ストーリー」と「ジーザス・ストーリー」、つまり自分の証しと、イエス様の福音を話せる準備をしておきなさいと教えてもらいました。

私たちには、恐れがあるかもしれません。自分には出来ない、足りないという思いかもしれません。失敗したらどうしようという思いかもしれません。周りの人はどう思うだろうかという考えかもしれません。今までの自分の常識の枠組みを超えることは、恐ろしいことかもしれません。

でもイエス様は、そんな私たちに声をかけてくださいます。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとるようになるのです。」
ルカの福音書 5章10節(後半部分)

「恐れることはない。」「収穫は多い」のです。この大いなる収穫に備えて、今、もう一度、自分自身を差し出していきましょう。

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